僕はお茶をよく飲みます。家でわかした麦茶です。これを冷やして市販のペット簿ドルにうつします。薬缶で一度わかすとペットボトル数本分はあります。外出するときにも、庭仕事するときにもこれを携えます。寝るときにも枕元に老いています。朝方までには飲み干しています。これだけ水分補給をしなくてはいけないところはやや異常かもしれません。朝ご飯の時、夕ご飯の時には緑茶をいれて飲みます。緑茶も好きです。若い頃コーヒー党になりかけた頃がありましたが、日本人に回帰してしまいました。暑い夏には冷凍して、氷麦茶をすすります。弟の嫁は御茶屋をしています。麦茶ではもうからないとこぼします。
雷さんだあ。ごろごろ鳴ってしばらくやんで、またごろごろ。とたんに空が光を閉じてしまった。もうまるで夜中だ。
大粒の雨が降り出した。稲光が手裏剣を投げてくる。鳥たちがねぐらへ急ぐ。風がにわかに吹いてきて、庭のヒナゲシが靡く。
ごろがろがろごろ。ばちばちばちち。雷さんは今度は空を裂いてかかる。一気に明るくなった。稲光が光る。ざわざわざわわん、
雨が屋根を叩く。ドラムが鳴り響く。どっどど、どどうと滝の水が屋根を落ちてくる。
「うへへへへ。おいらすっかり濡れちゃったじゃないか」穴の中では黒蟻さんが二つの手で頭をこすっている。
「そっちの穴は危ないよ。水が流れ込んできてるから」母さん蟻が大声を出した。
大粒の雨が降り出した。稲光が手裏剣を投げてくる。鳥たちがねぐらへ急ぐ。風がにわかに吹いてきて、庭のヒナゲシが靡く。
ごろがろがろごろ。ばちばちばちち。雷さんは今度は空を裂いてかかる。一気に明るくなった。稲光が光る。ざわざわざわわん、
雨が屋根を叩く。ドラムが鳴り響く。どっどど、どどうと滝の水が屋根を落ちてくる。
「うへへへへ。おいらすっかり濡れちゃったじゃないか」穴の中では黒蟻さんが二つの手で頭をこすっている。
「そっちの穴は危ないよ。水が流れ込んできてるから」母さん蟻が大声を出した。
風がある。窓が開けておれない。寒くもある。今日はもう五月の十七日だ。庭のヒナゲシの花園が風の音で騒がしい。なぎ倒されている。軽く小さいモンシロチョウは風に飛ばされてしまったようだ。
*
今生のわたしの生涯は、<わたしは法華経に出会った>、そこのところまでで閉じてもいいように思われる。「法華経に何を教えられたのか?」と質問されても答えられない。「どんな価値があるのか?」と尋ねられても、「知らない」としか答えられない。それでいて、<わたしが法華経に会った>そのことだけが燦然と光っているように思われてならない。いい気持ちなのだ。法華経を声高に朗読していると、いい気持ちになるのだ。これだけは確かだ。法華経に登場される菩薩、如来、仏弟子たちのお名前を口するだけで、いい気持ちなのだ。陶然とする。ここまでで一巻の終わりであっていい、僕の今生のストーリーは。
*
ここまで来るのに何百生も費やしてきたのである。そうとしか思えない。何百回も生まれて来たのに、今度が初めてなのだ。この法華経の教典に出会うのは。出会ってこんなにも快感を感じるのは。いい気持ちなのだ。法華経を読んでいる自分にうっとりとするのだ。ここまでとうとうやってきた、という感じなのだ。理解をしているのではない。信仰までに至りついてもいない。書いていることの実践となるとまるでまるで。とんでもない、というところ。これで、法華経信者とはとても言えない。逆さづりされても言えない。けど、とにかくここまでたどり着いているのである。わたしはもう何回も何回も法華経を手にとって朗読を繰り返しているのだ。
*
次に生まれるときに、次のストーリーはゆだねよう。なあに、ここでストップということはない。進歩は続くのだ。法華経にもそう書いてある。永遠に仏道を歩くと書いてある。向上に向かって向かって向かって、大きな道を歩んでいる。まだあと何百何千何万回も生まれて生まれて、法華経を読んで読み進めて行くのだ。未完成でわたしの今生を閉じよう。
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今生のわたしの生涯は、<わたしは法華経に出会った>、そこのところまでで閉じてもいいように思われる。「法華経に何を教えられたのか?」と質問されても答えられない。「どんな価値があるのか?」と尋ねられても、「知らない」としか答えられない。それでいて、<わたしが法華経に会った>そのことだけが燦然と光っているように思われてならない。いい気持ちなのだ。法華経を声高に朗読していると、いい気持ちになるのだ。これだけは確かだ。法華経に登場される菩薩、如来、仏弟子たちのお名前を口するだけで、いい気持ちなのだ。陶然とする。ここまでで一巻の終わりであっていい、僕の今生のストーリーは。
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ここまで来るのに何百生も費やしてきたのである。そうとしか思えない。何百回も生まれて来たのに、今度が初めてなのだ。この法華経の教典に出会うのは。出会ってこんなにも快感を感じるのは。いい気持ちなのだ。法華経を読んでいる自分にうっとりとするのだ。ここまでとうとうやってきた、という感じなのだ。理解をしているのではない。信仰までに至りついてもいない。書いていることの実践となるとまるでまるで。とんでもない、というところ。これで、法華経信者とはとても言えない。逆さづりされても言えない。けど、とにかくここまでたどり着いているのである。わたしはもう何回も何回も法華経を手にとって朗読を繰り返しているのだ。
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次に生まれるときに、次のストーリーはゆだねよう。なあに、ここでストップということはない。進歩は続くのだ。法華経にもそう書いてある。永遠に仏道を歩くと書いてある。向上に向かって向かって向かって、大きな道を歩んでいる。まだあと何百何千何万回も生まれて生まれて、法華経を読んで読み進めて行くのだ。未完成でわたしの今生を閉じよう。
@ 実るほど頭のさがる稲穂かな
という道歌がある。祖母に教わった。母も口癖だった。
稲の穂に実が入るとたしかにその重みで垂れてくる。入っていない穂は<しらほ>と呼んだ。<しいら穂>とも言った。<しいら穂の先走り>という諺もあった。
*
人には頭を下げよ。驕るな。謙虚でいなくてはならない。人に頭が下がる人間でなければならない。・・・そうだと思う。
でもなかなか人に頭がさがらない。こんな年齢になっても、のぼせ者のおごりたかぶりを構えている。おかしいくらいだ。いつまでも<しいら補>なのだ、僕は。
*
げっげっげ、けっけっけ、ごっごっご。田圃で蛙が鳴いているのがここまで聞こえる。田植えの時期が近づいているようだ。そのまえに麦刈りがある。麦を刈ると穂が首筋に触れてとても痒かったことが思い出される。麦をすぬいで、手のひらの中で揉み、これを食べてガムにして噛んでいたこともあったっけ。遠い少年時代。
という道歌がある。祖母に教わった。母も口癖だった。
稲の穂に実が入るとたしかにその重みで垂れてくる。入っていない穂は<しらほ>と呼んだ。<しいら穂>とも言った。<しいら穂の先走り>という諺もあった。
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人には頭を下げよ。驕るな。謙虚でいなくてはならない。人に頭が下がる人間でなければならない。・・・そうだと思う。
でもなかなか人に頭がさがらない。こんな年齢になっても、のぼせ者のおごりたかぶりを構えている。おかしいくらいだ。いつまでも<しいら補>なのだ、僕は。
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げっげっげ、けっけっけ、ごっごっご。田圃で蛙が鳴いているのがここまで聞こえる。田植えの時期が近づいているようだ。そのまえに麦刈りがある。麦を刈ると穂が首筋に触れてとても痒かったことが思い出される。麦をすぬいで、手のひらの中で揉み、これを食べてガムにして噛んでいたこともあったっけ。遠い少年時代。
ムカデがたくさんいた。裏庭の鉢を重ねておいたところに。大型ムカデ小型ムカデが鉢の底の下にごそごそごそうごめいていました。生きているのだからうごめくのは当然なんだが、百本の足の百足(ムカデ)がこっちの足下まで這ってくるとさすがに不気味だ。いつか寝ている布団にまで忍び込んでいて、夜中に首筋を噛まれてしまったことがあった。パチンと手ではらわれて、百足もびっくりしたことだろう。網戸くらはわけなく侵入してきてしまう。噛まれないうちに、今年は何か対策をしなくちゃ!
朝顔の苗を買ってきました。色とりどりの朝顔と夕顔。明日、快晴になったら、陶器の鉢に植えます。育てるのは楽しみです。でもあまり上手ではありません。夏場に毎朝咲いてくれると元気がでます。