<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

気が合うと一気に警戒心が薄らぐ

2017年12月16日 19時32分09秒 | Weblog

発信している周波数が周りとピタリと合えば、そこで一気に気が合って、わいわい盛り上がるのかも知れない。

すべてのエネルギーは波の動きをする。周波数となる。相手に届く。心もそうだ。洩れない。やはりエネルギーである。

鍵穴と鍵がぴったり一致しなければ扉は開かない。心が発信する周波数も鍵穴と鍵の関係を保っている。

ABCD.....xyz。さまざまな周波数の違いがある。違いがあるが、同調もする。嬉しくないことよりも嬉しい方を発信しているときの方が、受け入られ易いはずである。

気が合うと一気に警戒心が薄らぐ。大丈夫だと判断する。攻撃されてくることがないと判断する。ドアが自然に開く。光が射してくる。明るくなる。明るい方がいいに決まっている。

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椎茸料理は何でもおいしい 椎茸様々だ

2017年12月16日 19時22分31秒 | Weblog

椎茸が大好き。塩焼きでもいいし味噌炒めでもいい。でも醤油と少々の砂糖で味付けして煮て食べる。その方がおいしく感じられる。今日は鍋料理。鍋の中にも入っていた。分厚い椎茸が。満足した。吸い物にも合う。

椎茸菌が椎茸を生やしてくれる。椎の木やコナラの木に。菌様々である。乾燥椎茸は香りがいい。母がよく料理してくれたので、椎茸料理で直ぐさま母を想起するのかも知れない。

 

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加害者には被害者意識が働く 意識は歪む

2017年12月16日 17時41分27秒 | Weblog

霜の日の大根白し 加害者の我に被害者意識深しや     薬王華蔵

上の句と下の句に相関性はない。互いに独立し合っている。そういう歌もあっていいのではないか。 

此処では上の句は叙景。下の句は叙情。己の心理描写になっている。

加害者意識と被害者意識が交錯している。捻れている。相互移管している。加害者の立場に居る自分であっても、被害者に徹していた方が正義者を装える。そういう利点がある。都合のいい話だけど、無意識でそうしている。自己撞着だ。被害者が被害者の立場に我慢がならなくて途端に加害者になるということも、実は多いのではないか。意識というのは絡まり合っているのではないか。見ようによってどうにでも変化するのではないか。己を都合のいい位置に己を据えて逃げ延びる自分が居る。社会が悪い、世の中が悪いなんて不平を鳴らすのはしょっちゅうのことだ。

霜の日の大根は白い。いよいよ白い。白くて冷たい。此は不変だ。大根に潔さが見えた朝の歌。

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いやはや物好き もはや中毒患者だ

2017年12月16日 17時06分15秒 | Weblog

寒風吹きすさぶこの寒空の下、畑に出て働いた働いた。ぶるぶる震えながら。これはもはや野良仕事中毒患者だ。アルコール中毒者に等しい。これをやらないと震えが来てしまう。(此は冗談だが) いやはやもの好き。今日是非しなければならないというものでもないのに。

最後のジャガ芋(インカの目覚めという黒い芋)を掘り上げた。そこを耕し平らにして、プランターから間引いてきたさまざまな野菜苗を植え付けた。植え付けが済んで水撒きをしてお終いにした。風が強くて水撒きの水が風で吹き飛んだ。鼻水が垂れ落ちる。

5時。黒い雲が西の空に流れていく。もう日が暮れたも同然だ。途端に腹が減ってきた。我ながら感心感心。炬燵の中に温まっていればいいものを、寒風の中に飛び出して来て野良仕事に精を出す老爺。巷ではインフルエンザが流行りだしてきているというのに。

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にうまんだらばあけ

2017年12月16日 14時18分20秒 | Weblog

にうまんだらばあけ。爾(そ)の時曼陀羅華(まんだらば)が雨を成して天上から降り出してきた。曼陀羅華は天上界の花である。その時というのは、仏陀が現れたときである。花の雨を降らしたのは天上界の住人たち菩薩たちである。花は仏陀の足元に降り注いで来た。こうして天上天下が皆こぞってこの世が仏の世界になったことを祝福をしたのである。

今日冬の日、白い雲が花片を成してはらはらはらはら降って来る。

仏陀は今もこの地においでになるから曼陀羅華の花の雨は降って来ているのである。わたしにはそれが見えていないのだが。

今日冬の日、白い雲が花片を成してはらはらはらはら降って来る。

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深い深いところから僕を支持している声が聞こえてくる

2017年12月16日 13時48分01秒 | Weblog

僕に深さはあるか。見えているだけなのか。表面はわたしの場合、肉体である、それを蔽っている皮膚である。その向こうに何かあるのか。皮膚を掘り下げたら、赤い血が出て来るだけかも知れぬ。筋肉や骨にぶつかるだけかもしれぬ。それがわたしの深さか。心臓があったり肝臓があったり腎臓・膵臓・脾臓があったり、肺や気管支や消化器官があったりして、そこらあたりに僕の深さがあって、その深さに至り着くのか。或いは左脳右脳の脳が僕の存在の最奥を形成しているのか。

僕に深さはあるのか。渓谷を行くと深みがある。青みがかっている。澱んでいる。瀞が出来ている。そこで沈思黙考が成されているように見える。空を仰ぐと空にも深みがある。そこもやはり青みがかっている。雑じらずに澄んでいる。虚空蔵菩薩たちのの瞑想の場に相応しいところのようにしている。

僕に深さはあるのか。僕という者の中に海があって、そこに深さがあるのか。深さというのは見えないのか。見えているところは浅いとこなのか。深い深いところから僕を支持している声が聞こえてくる。そこも僕なのか。僕を離れた何処か特定なところなのか。

深い深いところから僕を支持している声が聞こえてくる。声の発信源は僕の深いところなのか。全体の深いところなのか。声というのは宇宙の深いところにしかあらわれないのか。それが虚空の中を波になって伝わってきているだけかもしれない。若しそうなら、僕に僕の深さは不要になってくる。

僕は浅瀬の波打ち際の砂浜にごろんと転がっているだけでいいことになる。実際そうして遊んでいるだけなのだろう。

波打ち際だって深さを持っている。掘り下げていけばマグマを通過する。マントルにぶつかる。地球の核に突き当たる。そういうところがあって、やっと表層部分があるのである。だったらやっぱり支えている声がそこにあるのだ。僕を支えているという声がそこで発信されているはずなのだ。

などなどなど昼から考えた。僕の深さは全体の深さである。此が今日の僕の結論である。僕がそこに辿り着けなくても深さそのものはある。そこから僕を支持するエネルギーが貫通してきている。心配は要らない。

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こんなことをしていて楽しいのか 楽しい

2017年12月16日 13時02分11秒 | Weblog

「そんなことをしていて、それで楽しいのだろうか」 曰く「此が結構楽しい」「やってみるといい」

僕のままごと遊び、砂遊び、土遊びのことである。まるで幼児レベルだ、やっている本人もそう思う。庭に出て遊ぶ。畑に出て遊ぶ。砂や土を弄って遊ぶ。花や野菜を育てる。それを賞(め)でる。嘆息して育ったものを賞賛する。

いやいや、それだけが楽しい遊びではあるまい。みなさんのやっていることは、どれでもきっとそうなのである。そうに違いない。で、にこりにこり楽しそうにして暮らしておられるのだ、きっと。

土遊びで楽しいのだから、僕は簡単素朴に造られている人間のようだ。ちょいと時間があるともう外に出てシャベルを握っている。光の中や風の中に、一人で遊んでいる。

人様のように羽振りを上げていないでも、業績を上げていないでも、偉くなっていないでも、それはそれでいいことになっている。そういう遊びでは遊びになっていないと非難されるかも知れないが、お構いなしである。けっこう時間を忘れて呆けていられるのである。

まったく安上がりだ。容易く安く出来ているものだ。こんなことを感心してお昼になった。お昼は朝の残りの味噌汁と山菜ご飯だった。味噌汁は我が家の畑で獲れた小松菜が入っていた。

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できるだけ胸を張って誇っていたい 此を

2017年12月16日 12時44分56秒 | Weblog

曲がるところがある。もしも曲がらなかったら? さぞさぞ困ったろうなあ。折れるところがある。もしも折れなかったら? そりゃさぞかし不便だったろうなあ。回るところがある。もしも回らなかったら? がちがちに固定されて窮屈だっただろうなあ。

曲がるところに触ってみる撫でてみる。折れるところに触ってみる撫でてみる。回るところに触れてみる撫でてみる。

腰が折れ曲がる。膝が折れ曲がる。首が折れ曲がる。臂が折れ曲がる。足首も手首も折れ曲がる。足の指と手の指が折れ曲がる。背骨も若干だが折れ曲がる。肩はぐるぐる回る。腰も回る。腹の辺りも回る。

柔軟体操が出来る。柔軟になる。木のように突っ立っていないで、腰を折って膝を曲げて寝っ転がる。石のように硬くなっていないで、首をぐるぐる回す。手を回す。足を回す。此は自分の発明品ではない。此の肉体は自分の創造物ではない。頂いたものだ。後でお返ししなければならないから、厳密に言えば暫くの間お借りしていることになる。

ロボット以上だ。ロボットの性能を遙かに上回っている。造られたということであれば、何処の工場の製品なんだろう。しかも此は伸縮自在に出来ている。こどもから大人になっていくときに心臓の大きさ相応に全体変化をする。誇らしく造られているものだ。誇っていいようにしてあるのなら、できるだけ胸を張って誇っていたい。

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分からない顔 そこが正面になる

2017年12月16日 10時03分33秒 | Weblog

僕は音楽を聞いている。音楽が分かるふうな顔をして聞いている。そこがどうもいただけない。出鱈目だからだ。鍵穴が合わない。しっとり来ない落ち着かない。

じゃ、音楽なんて分かりっこない、そういう顔をしていればいいのか。それでいい。そうなのだからそれでいい。後の始末は音楽自身がつけてくれるはずだ。

顔。分かるふうな顔をひっくり返す。分からない顔に戻す。そこが正面になる。音楽がオーロラのようにしゅるるるしゅるるるる流れて来るのは、同じみたい。

 

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永遠の1と この世にいる間のかりそめの1

2017年12月16日 09時47分53秒 | Weblog

わたしをそこに見せてくれるのは体。わたしは見えない。見えないわたしを見えるように仕向けてくれるのは体。その体に「わたしの」の修飾語を置いてみる。「わたしの肉体」という具合に。この場合には、「わたしの」は「わたしが所有している」という色彩を強くすると、わたしと体は別々に離れてしまう。1+1=2ではなく、1+1=1でなければならないと思う。これが思い遣りだと思う。所有物なんかじゃないのだから。ほぼそっくりわたしなんだから。体がわたしを諦めて去って行ってしまうとわたしはまた元に戻って早速見えなくなってしまう。でも、1は1なんだ。と思う。わたしが見えなくしてあるのは、わたしを解消してしまわないためである。わたしを永遠にしておくためである。そういう使命を帯びているわたしを、わたしの体も尊重をして、本来の使命に戻してやろうとする。死が訪れる。でもそれはわたしの死ではない。それを知覚させようとするが、わたしは体への愛着を尊重して悲しみに暮れることになる。永遠の1を忘れないで欲しい。もう一つの1、この世にいる間のかりそめの1がそう訴えてくる。

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