<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

その時には助っ人に出て行こう

2014年07月31日 16時13分42秒 | Weblog
うわあ、糸瓜(へちま)の綱渡りだあ。

はじめシモクレンを登って行って、そこからぶらんと蔓が垂れて、それがするすると延びてきて(伸びてきて、よりも延びてきてがぴったりする)ヨイショとかけ声を掛けて、松の木へ着地した。かなりの間隔がある。

糸瓜には目がある。そう判断した。目は蔓の先についているはずだ。そうでなければ、松の木の方向へだけあんなに長く蔓を伸ばせるはずがない。宙ぶらりんにも耐えて、これを忍びきったのだ。

そして、途中で糸瓜の実をぶらああんと下げた。お見事! 糸瓜はサーカスもできるのである。一日ごとに大きくなっていくが、限界がありそう。その時には助っ人に出て行こう。

夏空が来てこれを見下ろしている。風が渡っていってこれに触れて楽しんでいる。僕は僕で糸瓜の処まで行って、これを褒めて楽しんでいる。

一等楽しんでいるのは、そりゃあ、糸瓜だろうよ。ずらり連なった星形の葉っぱがカンラカラカラと笑い声を立てているのでそれが了解できる。
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不快指数の反対に快指数がある

2014年07月31日 15時44分01秒 | Weblog
不快指数というものがあるとすれば、その反対の、快指数というのもあったっていいではないか。

不快指数では、気温と湿度が高じて、指数70以上では一部の人がこれを不快に感じる。75以上では半数が、80以上では殆ど全部の人が「嫌だなあ、どうにかしてくれ」と言い、85を越えてしまえばもう我慢ができなくなる、らしい。

不快指数が気温と湿度に応じて測定されるのに対して、快指数は、空の青さと風の涼しさで測定されうるだろう。つまりからりと晴れているかどうかだ。快指数70以上では一部の人が快活になり、75以上では半数が、80以上では殆ど全部の人が「うひゃあ、気持ちがいいっ!」を連発しだし、85を越えたら居ても立ってもいられずにとにかく走り出してしまう。

どちらも季節は夏。春や秋ではなく夏。そう、不快指数を嫌と言うほどに体感していないと快指数も体感できないからだ。

抜けるような大空の青。これでこころが澄んでくる。そよそよそよと風が野原を渡ってくる。これでこころが清々しくなってくる。

不快指数も快指数も外的条件次第だというところでそれがそう決定するとすれば、人間は不快と快のおおよそを天候季候に依存しているようである。
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嬉しかろう嬉しかろう嬉しかろう

2014年07月31日 14時04分20秒 | Weblog
雨が降り出した。スレート葺きの蜜柑小屋の、屋根を太鼓にして叩いて、さあこれから村里はお祭りだ。久しぶりの雨だ。乾ききった大地が雨に濡れていく。オヒシバ、メヒシバが雨のシャワーを浴びて歓声を上げている。嬉しかろう嬉しかろう嬉しかろう。

そんなもんじゃ嬉しくなんかないぞ、と人間どもは知らんぷりをして草取り仕事を続けているが、ま、あいつらはあいつらの世界だ。好きにさせておこう。オヒシバもメヒシバも雨に濡れた。葉っぱも穂先も根株も雨に濡れた。びしょびしょだ。
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心配はご無用。どうにかなる。

2014年07月31日 13時31分19秒 | Weblog
おまへの好きなようにしろ。

好きなようにしていいなら、さぞさぞ楽しかろう。そう思っていたが、好きなようにするのも楽ではないと三郎は悟った。

拘束があれば、拘束のせいにして、不自由にしていられるけれども、拘束が排除されたら、拘束のせいにしてはいられなくなるぞ。

生は拘束だらけだったが、そこからもうすぐ解放されることになる三郎は、ちょいと躊躇っているのだ。

死の電車は、出発の電車だ。新しい宇宙時間・宇宙空間へ向けての電車だ。

行った先で、「では、あなたの好きになさってください」と言われて、放り出されることになったときに、では、と答えて、好きなようにすることができるかどうか。甚だ自信がないのだ。



好きなことをして暮らすということはなかなかに難しいのだ。



楽しんでもいい。苦しんでもいい、悲しんでいてもいい、喜んでいてもいい。となるとどうだろう。

三郎はどれを選ぶのだろう、いったい。どれを選び得るだろう。

選び抜くだけの才気に乏しい三郎は、結局はその場その場のその場しのぎに終わってしまうのかも知れない。

つまり、楽しんだり苦しんだり、悲しんだろ喜んだりの。



おいおい、待った。となるとそこもまたこの世と同じような構造をしているということにならないか。

そうならないように、ここで修行をしてきたはずだぞ、三郎。



三郎は困った顔になった。修行をおろそかにしてきた三郎には当然の帰結であった。



阿弥陀さんが現れて来て、「三郎どん、心配はご無用。どうにかなる」と三郎の胸元をさすって安堵をさせた。(この結論じゃ、不満足かなあ?)



ともかく後生の一大事が迫ってきている。おれはこの先どうやって好きなことをしようか。いや、おれの好きなこととはいったい何だ。

働くことか? 楽をすることか? ぐうぐう寝ていることか。縦横無尽の活躍をしていることか。
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これから千年万年の不死が待っているぞ

2014年07月31日 13時11分30秒 | Weblog
おれはまもなく死ぬ。

これでやっと肉体という狭苦しい牢獄から解放されることになる。

閉じ込められなくて済むようになったら、おれは何をするか。今日はそれを考えている。

束縛を離れると自由だ。自由を、おまへ、では楽しめるか。

100年の束縛を楽しめた者なら、自由空間の自由を楽しむことなんてわけはなかろう。

自由というのは「自分次第」「お前次第」とも読める。牢獄のここで培ったお前の力量、こいつが試されるぞ。

ふむふむ。

肉体は、こころの赤ん坊を育てる保護者でもあったんだぞ。

ふむふむ。

死なない前がよかったなんて泣き言を言うな。

ふむふむふむふむ。

これから千年万年の不死がおまへを待っているぞ。おい三郎、覚悟はいいか。
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心は化け物。ギクシャクギクシャクする。

2014年07月31日 12時25分38秒 | Weblog
することがない。足の爪を切る。



利他行(りたぎょう)は他の人の利益になることを行うことだ。



これで相手の役に立つ。



お礼を言ってもらえる。



するとなんだか嬉しい。



お礼が返ってこないと、無駄をしたように思う。



相手を利益しようとしてやったことが、どうしたはずみか不利益になっているということもある。



ありがた迷惑ということもある。



こちらの善意がそのままの姿勢で相手に届かないで、逆さまになっているということもある。



相手の善意を悪意に感じると言うこともある。



するとそこに悲劇が起こる。



むしろそれは喜劇と言ってもいいかもしれない。



利他をしなかったことがよかったということにもなる。



喜捨(きしゃ)はそれを防いでくれる。



喜捨は大いなる放棄である。善意意識の放棄である。



「わたしがしてやったのだ」「あなたの利益になるようなことをしたのはわたしだ」という意図的善意意識を放棄する。



してあげた善意は、相手には重苦しい。



お礼を要求されるとなると、重い上に暑さが加わる。



こうなるとした方もされた方もギクシャクしてしまうことになる。双方とも化け物の心を持つ身だ。



施(善意の実行)はなかなかに難しい。相手に行き着くまでにくるりくるりと回転をするので変形してしまうのだ。



「施」(布施・善意の贈与)は、する側とされる側と施そのものとが清浄空虚でなければならない。



喜捨も大いなる放棄も我ごときの凡庸ができることではない。



なら、己の足の爪を切って無聊を慰めるとするか。
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腹ぺこになるのは腹だけじゃなさそうだ

2014年07月31日 11時10分31秒 | Weblog
♪ ・・・町の何処かに寂しがり屋が一人今にも泣きそうにギターを弾いている・・・♪

僕はギターは弾けないから、この歌の文句には該当しないけれど、ギターを弾かなくたって寂しがり屋は何処にでもいそうだ。

ギターなんぞを弾くから寂しくなるんだ。弾かなきゃいいのに。弾いて寂しさに抱かれているというのがいいんだろうね。

僕はギターは弾かないがハーモニカを吹く。よれよれの布製バッグの底の方に古い古いハーモニカが沈み込んでいる。僕は、寂しくなったらこれを手にとって誰も居そうにない原っぱで吹き出す。しばらく吹いている。するといつのまにか寂しくなくなっている。気分屋なんだ。

ハーモニカ上手ではない。日本の童謡や世界の童謡などを、思いだし思い出ししながら吹く。音符があっても読めない。読めはするけど、それを意図的に音にはできない。自然に手が吹いているだけである。

寂しい。寂しいっていうのはエモーションが腹ぺこになっているってことかな? (腹ぺこになるのは腹だけじゃないんだな) 駄々を捏ねているのかな。誰かのやさしさを欲しがっているのかな。誰かがしばらく黙って肩を抱いていてくれたらエモーションは泣き止んでくれるのかもしれない。赤ん坊みたいだ。いい歳をしていながら、ときどき赤ん坊になるんだな、これが。 

三郎という愚者+貧者も寂しがる。癒やす術がなくっておろおろしている。誇れるものがなんにもない空っぽの、こころの洞窟に寂しさが尋ねて来て、風船をふくらます。

風船をつかまえておろおろ寂しがる。おろおろ寂しがっていると、しかし、それで案外温まれるのかもしれないぞ。だったら、寂しさの風船の中には薄いガスが混入していて、火をつけたらちろちろ燃え出すのかもしれない。
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慢心の巣窟の己は恐ろしい

2014年07月30日 12時48分33秒 | Weblog
但行礼拝。たんぎょうらいはい。

相手を拝むというたった一つの行をすることを、そう言う。



荒行をしなくてもいい。経文の意味を知らなくともいい。

相手を礼拝するというこころの姿勢を保つだけでいい。



他者を礼拝するに値しない人としていたわがこころの慢心を捨てる。

値する、値しないの判断を捨てる。

これは仏道修行の菩薩行である。

こうすれば、わたしを高い位置に置かないでいられる。わたしに巣くう慢心を捨てられる。



慢心がわたしのこころに巣くう。この慢心を掃除する。

だから、但行礼拝は但行清掃でもある。



こころの掃除はなかなかできない。

そこで雑巾もて床を拭くのだ。箒で庭を掃くのだ。

形を借りるのだ。箒で庭を掃き清めるのだ。

この掃除行を貫いてお釈迦様の十代弟子の一人に数えられた人が居た。



日々に埃が積もるように、日々に慢心が積もる。恐ろしい。

慢心の巣窟の己というのは恐ろしい。
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相手を偉ぶらせておける人も相当に偉い人だ

2014年07月30日 12時09分01秒 | Weblog
偉くなると偉ぶるようになる。偉ぶるのも、しかし、暑そうだ。顔を怒張させて罵倒を続けている。罵倒は凄惨で、暴力以上の力がある。偉い人になったのなら、偉ぶってみせなくともよさそうなのに。

工事現場の親方さんが、そこで働いている人に罵声を浴びせている。ブルが動いているから、エンジン音に負けないくらいに声を張り上げている。命令口調でないと仕事にならないのだろうが、傍で聞いている者にはこれが滑稽に映ってしまう。怒られているのはかなり年配の方である。はいはいはいと言われた通りスコップを動かしておられる。

夕方、工事が終了してしまって、怒られていた人に「あなたはお偉い方ですね。これだけたくさん一日中怒られていながら、顔が曇っていない」と声を掛けたくなった。もちろん声を掛けることはなかったけれども、そうやってねぎらってやりたくなった。

偉ぶる人の相手を誰かは務めねばならない。相手を偉ぶらせておくだけの人も相当に偉い人であろう。徳を積むということばがあるが、こういう人のことをいうのだろう。

仕事をやりこなすためには、怒る人も怒られる人も、そうしなければいけないのかもしれない。そうしないと怪我をしてしまうのかもしれない。その場の緊張感を高めるためには、人前ででも怒り通さねばならないのかもしれない。

仕事が終わってから親方さんは怒られ役の人を飲みに連れて行かれて「いやあ、一日中怒りっぱなしですまなかったな」などと声を掛けておられるのかもしれないが。
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散歩中も犬の手綱を放さないでほしい

2014年07月30日 11時32分09秒 | Weblog
夕方は犬を散歩させておられる方が多い。サイクリングをしている途中に何度もすれ違う。大型犬もいる。手綱を手にした飼い主がぐいぐい引かれている。小型の可愛いのを胸に抱いておられるのも見かける。これだと、犬の散歩にはならない。

手綱をつけて散歩をするというのがルールのはずだが、途中で放されてしまうケースがある。中型犬でも、やはり近づいてくると恐い。噛みつかれそうで恐い。うううと唸られるとなおさら。飼い主は「この犬はおとなしいから、噛みついたりしません」と声がかかるが、飼い主にはおとなしく従順でも、見知らぬ者にはそうもいくまい。

一度なんか立派なシェパード犬に飛びかかられたことがある。飼い主はそれを見て「こらこら、駄目じゃないか」と笑いながら犬を叱ったが、叱られるべきは飼い主の方だろう。こちらの身長ほどもある犬である。度肝を抜かれてしまった。田舎道の田圃道であるから、逃げ場がない。周りは一面の水田である。

散歩は楽しい。で、みなさんくつろいで屈託がない。後ろから来ている自転車には気づかれない場合が多い。「後ろから通り抜けますよ」と声を掛ける。犬の手綱は長くしておられるので、そこを通り抜けられないのだ。家族で散歩している方は楽しげに横広がりに歩いて行かれる。

夕方は日が翳る。三郎のサイクリングコースで何度も犬の散歩に出会う。遠くでそれらしい影を見る。近づいて行く。そして無事に通り抜ける。子犬は概してワンワン吠えたがる。ワンワン吠えられながら、そこを通り抜ける。
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