<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

曇り日はさみしい

2012年05月21日 11時11分24秒 | Weblog
笊で水を掬うと、水は笊からこぼれていってしまう。

飲もうとしてもそこにはもう水は残っていない。

水を飲めなければ、喉の渇きはいやせない。

    *

さみしい。今日は曇り日。曇り日はさみしい。

さみしさも渇きである。

渇きを癒そうと、笊で水を掬うばかりだ。

    *

笊ではなくてバケツで水を汲んだらよかろう。

バケツを用意する。井戸から水を汲み上げる。

ごくごく飲む。胃袋の大きさの適量を飲む。渇きは止まる。

    *

渇きが止まると渇きは忘れられる。

忘れられただけかもしれないが、ともかく。

さみしくない時間が来る。それもしかししばらくで終わる。

    *

笊であってもバケツであっても道具はどうでもよかったのだろう。

すぐに乾いてしまう喉。からからに干からびる魂。こいつが問題なのだ。

永遠に乾かない喉、干からびない魂なんてのはないだろうが、せめて今日一日くらい。

    *

強そうにして威張っていても、乾く喉と干からびる魂には降参だ。

白旗を揚げるしかない。

才能のある人やお金持ちの人は、白旗を上げないで済みそうなのだが。

    *

美貌でもなく実力もなく、正しくもなく 強くもなく日々を過ごしている。

白旗を上げてばっかりだ。みっともないたら。

白旗を上げたらさみしさは癒されるか。上げても上げなくてもやっぱりさみしい。

    *

書くのも、さみしいからだ。

書いてさみしさをいやしているのだ。たっとひとりのさみしさに手を焼く。

癒しが来るまで書いていたらいいのかもしれないが、まあださみしい。


渇きを癒す水って、その正体はなんなのだ。

水素が2個と酸素が1個きりじゃないか。
コメント (2)
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1000年の空白が埋まる

2012年05月16日 12時21分43秒 | Weblog
お昼になった。腹へったな。

ぐうたらしてひとり。朝の残りの玉葱味噌汁をご飯にぶかっけて流し込もうかな。

    *

空がからり。五月の空になった。いいなあ。

そよろそよろ風も吹いてくる。ここちよい風を受けていれば、魂は満腹する。

    *

仏典を読んでいたら、仏の教えを聞かないで1000年を生きるよりは、聞いて1日を

過ごす方がましである、といったことが書かれていた。仏道を歩いている僕はこれにうなずく。

    *

なんだっていいのかもしれない。

「仏の教え」が気に食わなければ、そこのところを自分の好きに言い換えてもいいだろう。

    *

空白の1000年よりも満ち足りた1日を生きたいものだ。

吹いてくる薫風がおいしい。これで今日の1日をみちたりる。

これで1000年分を生きたことになる。

    *

日ノ隈山の麓から夏鳥たちの声が響いてくる。これを聞く。聞いてうっとりする。

これで1000年の空白が埋まる。
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嬉しくしてた方がいいや

2012年05月12日 16時48分23秒 | Weblog
どっちでもいいのなら、嬉しくしてた方がいいや。

で、嬉しくしてる。

嬉しくしてると、嬉しいことがこれを聞きつけて集まって来る。

悲しくしていなくちゃいけないとは決まっていない。決められることでもない。

嬉しくしていてもいいし、悲しくしていてもいい。自由だ。

「え、きみは、そんなことを嬉しがっているの?」と揶揄打擲されたところで、その揶揄も打擲も的を外れている。

何を嬉しがろうとそれは嬉しがる当人の勝手である。

嬉しがったら、澄み切った小川のような水のこころが、嬉しがったことを賞賛して嬉しがる。

目覚めたら五月の爽快な空が広がっている。これを嬉しがる。

わが書斎の窓辺に来て雀が鳴いている。これを嬉しがる。

夕暮れの5時になった。市役所のスピーカーが童謡を流して一日の仕事終わりを慰労している。




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urasima no7

2012年05月02日 12時55分25秒 | Weblog
いっきにたくさん書いたのでこのNO7で休憩に入ります。

    *

リューグー・ワールドではセックスは戒められてはいません。修行の邪魔になるとかたくなに信じ込んでいる人は、遠ざかります。でも、邪魔にはならない自由自在遊戯三昧主義者たちは、セックスを楽しみます。

でも、前にも書いたように、色身を離れているのが好きですから、そうやたらめったらそこに没頭するということもありません。

男性女性の区別はいちおうあります。ですから、セックスは可能です。でもそれ(肉体の結合)によらないでも、子どもにめぐまれることはできます。

こどもたちは星の王子様のようにあちらの星、こちらの星から飛翔してきます。で、両親を決めます。家族を作ることもけっこう好きです。

    *

こちらの人間界のしきたりであれこれ思いめぐらしてああだこうだとその先を判断するのですが、心配は金輪際無用です。

しきたり、つまり習慣、思考の癖、生活のならいを放擲してしまえば、そこからさきには心配がつきまとってくることはありません。

わたしたちは肌身離さず付着させている<しきたりの厚着>を脱いで、<本質的なわたし>を閉じこめているボーダー(垣根)をとっぱらってしまえば、自由になって楽しく暮らせるのです。

リューグー・ワールドはここに到達した人たちが暮らしています。

って、ことをラハマ・ロ・ズッテはこのブログで書きたいのです。
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urasima no6

2012年05月02日 12時41分42秒 | Weblog
はい、わたしたちは連続しているのです。非連続ではないのです。

時間も空間も連続しています。遮断はありません。紐ではないのです。ぷっつり切れるということはありません。

もちろん、わたしたちの生命も精神も連続しています。生の端っこがあって死の端っこがあるのではりません。

永遠に連続しています。終わりはないのです。

修行もまた、したがって、連続しています。これは進化向上の実践と呼んでいいかもしれません。でも、そんなに堅苦しくはありません。遊行(ゆぎょう)、あるいは遊戯(ゆげ)といった性質が濃厚です。

だから極端な話、眠ったままでもいいのです。でも、眠ったままでは退屈でしょう? 

仕事はありません。他者のために役立ちなさいという教条は掲げてありません。したかったらしてもかまいませんが、しなかったからといって、それで裁判にかけられることなどはありません。

リュウグウ・ワールドでは、無為自然の鮹のように、ゆらりゆらり、のらりのろのろして、ともかくうっとりしているというのが一番もてはやされます。

わかりやすく言うと、ここの哲学者たちはおおむね美しいものを見て忘我の境地になっています。人間界なら、<おいおい、きみ、なにをやってんだよ>って叱りとばされてしまいそうですが。
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urasima no5

2012年05月02日 12時23分01秒 | Weblog
そうでしたそうでした。そうだったんです。

わたしの名はラマハ・ロ・ズッテ。王の身分ですから、もちろんラハマ王と呼ばれます。

現一切色身三昧というサンマヤデイーを身につけていて、この三昧(こちらの世界で言えば、まあ、一種のマジック?)によって、どんな姿にも変身することができました。というといささかわかりにくいかも知れませんが、もともと実体がないのです。実体にこだわっていない世界なのです、ここは。どの色身でもかまわないのです。仏教では空といいますね。

乙姫さまもときどきこれを使っていたのです。彼女も色身を消して音だけになっていました。それが省エネになっていたのでしょうね。わたしは音よりも光になっている時間を多くもちました。

物理の法則に従わないでいいというのは、らくちんです。従わないというのは、物質を離れてしまうという意味です。精神主義っていったらいいかもしれません。色身(物質で構成された肉体)は、重々しいので、みんなここでは肉体を脱いで軽くなってしまうです。

わたしは、そうやって、どこへでも行けるようになっていました。

わたしたちはだれも誰も、けっして<閉ざされた世界>に生きてはいないのです。どこまでも開放されていますから、拡大しようと思ったら拡大もできるし、膨張縮小もできるし、銀河鉄道に飛び乗って探検に出かけることも意のままなのです。

で、わたしは、(ああ、そうだったんです。そうだったんです)人間界に戻ってくるというのも、この気まぐれ探検に過ぎなかったんです。

ですから、わたしはまた周遊に戻っていってもちっともかまいはしないのです。
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urasima no4

2012年05月02日 12時09分56秒 | Weblog
少しずつ記憶が蘇ってきています。

乙姫さまの呼び名は、「音姫さま」あるいは「歌姫さま」「妙音さま」と呼んでいたようです。お歌をこよなく美しく歌われました。いや、ときおりは姿を消してしまってまったくの音になってしまわれていたようです。音符だけが部屋に充ち満ちて遊んでいました。わたしはうっとりしてしまって、眠り王となっていることもしばしばでした。

海の底は音の楽しみであふれていました。魚たちも音の楽しみにふけります。海草も音を聞いて揺られます。

海の底だから光が届いていないのではないかとご心配のむきもありましょうが、なんのことはありません。光孔という透明な筒が海の表面にまで届いていてそこからまばゆい光が届いてきて輝いていました。
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taro urasima no3

2012年05月02日 11時52分08秒 | Weblog
わたしと乙姫さまとの間には、こどもが7人いたようです。

たしか、女の子が3人、男の子が4人。

(もしかしたら、第二夫人、第三夫人、・・・第五夫人にもこどもが生まれていたかもしれません)

でも、あれからゆうに1000年はたっていますから、乙姫さまを母親とする7人とも見分けがつかなくなっているかもしれません。

空の上から追跡調査をしにでかけてみたいものですが、竜宮城は深い深い海の底。はたして子どもたちの姿が見えますかどうか?

もちろん乙姫さまの美しい姿ももう一度追ってみたいのです。

竜宮城は、天界と同じように、時間が進度がまったく異なっています。人間界の100年は、あちらでは1年そこら。つまり子どもたちはまだ10才そこらです。
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浦島太郎って?

2012年05月02日 11時37分24秒 | Weblog
はい、竜宮城の乙姫様にあって、ご馳走をしてもらって、王様としての歓待を受けて、美女100人をつけてもらって、毎朝毎晩遊興三昧に耽って、ふらふらになって、やにわに帰郷の思いが滾り立って、はい、亀さんの背中に乗って、ここの浜辺へ戻ってきました。

いやあ、いいことばっかしでした。

戻ってみたら、白髪。いえ、ユル・ブリンナーの王様と私になっていました。

波が寄せたり返したりしているばかりで、島影の向こうこっち、知人も友人も見当たりません。

    *

竜宮城って、ほんとに海の底にあったのでしょうか? わたしのイマジネイションの海だったのでしょうか?

乙姫様との熱烈な愛の日々が蘇ってきます。
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2012年05月02日 11時32分52秒 | Weblog
ごめんなさいね。ずいぶん、ずいぶん書かないままになってしまっていました。

浦島太郎さんになっています。いまがいつだか、ここがどこだか、わからなくなっています。

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