<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

突っ張りがすまぬ

2006年12月28日 15時00分27秒 | Weblog
@ 箸握る指が曲がったすまぬなあ     釈 応帰

     *

 箸を握るときに指が曲がる。曲がらなかったら箸を握れなかった。曲がった。これで飯を食う。ぽくぽく喰う。喰いながら、ふっとこのとき、<すまないなあ>の感情が起こってきた。誰に言うあてもない。言う必要もないから、言わなくて六十年を生きてきた。指を柔らかくしていて下さったことにお礼を言いたい。言わないできたことに詫びを入れたい。突っ張ったままのわたしで生きてこられたのである。恥ずかしいことである。
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帰るところなし

2006年12月23日 08時38分29秒 | Weblog
@ 海に出て木枯らし帰るところなし   山口誓子

 木枯らしは秋から初冬にかけて吹く強く冷たい風。木をも吹き枯らしてしまう。木は山に生えている。木枯らしは、だから、木の生えている山を訪ねて回る。それが一旦海に出てしまったのだ。風は行くばかりだ。どんどん沖へ行くばかりだ。帰るところがない。帰るところがないのは、木枯らしばかりではない。生涯、人を枯れさせてきたわたしも、帰るところがない。
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地獄には悪を溶かす溶鉱炉がある

2006年12月21日 11時39分21秒 | Weblog
 地獄には地獄の釜があると説いています。ふっと、そのことで考えてみました。

    *

 地獄には悪溶鉱炉 炎熱の10000度にてわが悪溶くる  薬王華蔵

    *

 ここでわたしの悪を溶かしてもらいます。そのために溶鉱炉が設置されています。八幡には八幡製鉄所があって鉄を溶かしています。それが何千度になるのか詳しいことを知りません。

    *

 わたしの悪業の悪が10000度Cくらいではたして溶け出すかどうか。わが悪はもっと強烈なのかもしれません。わが悪を燃やすのはわが懺悔(さんげ)かもしれません。いやいや、わたしがするほどの懺悔では億劫の悪は燃え尽きないかもしれません。ここはやはり自力では到底無理。仏さまの慈悲を仰ぐしかありません。

    *

 地獄を用意してもらって、その上に、わが悪を溶かすための「悪溶鉱炉」を設置してもらっているほとけさまの「おはからい」お慈悲のなんと深いことか。地獄行きを厭うこころがありましたが、これはわたしの浅い判断、浅智恵に過ぎませんでした。

    *

 地獄を経由して、そこから極楽に行くようなパックツアーが組まれていたのですね。そういうからくりを知らずにいたわが無知蒙昧さが恥じられます。

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みまかりし母をひた抱く

2006年12月18日 09時39分48秒 | Weblog
 母に抱かれたことがある

     *

 幼い頃に抱かれたことはたしかにあるはずなのだが、母の胸の感触が思い出せない。

     *

 母のこどもに生まれた。それから母の父を吸って大きくなったのだから、日に幾度も母の胸に抱かれたことであろう。

     *

 抱かれるたびに母を感じたはずである。母の愛情を感じたはずである。愛情をふんだんにもらったはずである。

     *

 母は90才で死んでしまった。母が死んでもう4年の月日が流れた。今朝方、孫の写真が携帯に送付されてきた。娘に孫が抱かれている。それを見ながら、わたしもまた母に抱かれていた頃があったことをふっと思い起こした。

 母は子を 
 子は母を抱く 
 六十の子が 
 みまかりし母を 
 ひた抱く        薬王華蔵












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目覚めは新生。新しく生まれることである

2006年12月15日 16時37分27秒 | Weblog
@ 目覚むたび生まれていたしあたらしく射し込む朝のまばゆさの中  薬王華蔵

 ブッダとは「目覚めた人」の意味である。仏陀は「覚者」と訳されることもある。暗黒の世界、迷いの世界にいて目を閉じていた人が、明るい世界の明るさの中で目を開けることである。彼は、自分が明るい世界にいることにようやく悟ったのある。1年365日毎朝目覚めて毎朝ブッダになる。これはいい。

     *

 じゃ、ずっと起きていたらいいって? それだと疲れるからなあ、眠ると新しいエネルギーが充満する。これは寝ているうちに、顔の目と目の間の第三の目のところから、次の日一日分のエネルギーが注入される仕組みになっているのである。アトム君がアトムを注入してもらうように。

     *

 目覚めは快感である。一度の目覚めではなく365度の快感を朝ごとに味わえる。これもなかなかいい。





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目の中に

2006年12月12日 22時23分51秒 | Weblog
@ 目の中にわたしの海はあふれたりあなたの山をのめばやすらふ   薬王華蔵

     *

 人を恋うる歌。人を食べる歌である。食べる代わりに飲んでしまう歌である。あの人を一飲みしてみる。そうするとわたしの海はやすらうのである。わたしの寂しさの海は目の中に溢れるのである。あなたは山になってわたしの前にあらわれる。わたしの海の前にあらわれる。わたしはあなたの山をぐいと一飲みにする。それをイメージして、老い先の短い男は冬の夜を暮らすことが上手である。
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目刺し

2006年12月09日 08時43分33秒 | Weblog
 木枯らしや目刺しに残る海の色   芥川龍之介

     *

 今朝は、「NHK俳句」の時間にこの句が紹介された。目刺しは鰯など海の小魚の日干し。ちょうど目にあたるところを竹の棒で貫いてある。塩をしてある。焙るだけで酒の肴になる。一人で冬はこれを嘗める。鰯の腹に青い海がせり上がってくる。荒磯の波の音がこれに加わる。残るものは捨てきれなかったものだ。あの女はどうしただろうか。その後すっかり連絡は途絶えてしまった。

     *

 捨て切れぬ目刺しの竹のようなものざんざんざんと降るしぐれかな  釈 応帰






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おだやかな秋の日よりもおだやかな人のまなこを見る夕べかも

2006年12月06日 10時32分33秒 | Weblog
@ おだやかな秋の日よりもおだやかな人のまなこを見る夕べかも   薬王華蔵

      *

 この歌を昨日褒められてしまった。そんなにいい歌とは思っていなかったのである。まあ、褒め上手をしてくださったのかもしれない。会って別れるまで4,5回はこの歌を取り上げてもらった。僕は人の作品はまるっきり覚えていない。選者ともなるとまるごと暗記ができるものらしい。凄腕だ。

      *

 おだやかな秋。それよりも穏やかにして暮らしている人のまなこを見る。見ることがある。おだやかに暮れて行く秋の夕べにそういう人の眼を見ると、ああ、ここに今日生きていることができて良かったなとしみじみとそう思えるのだ。

      *

 おだやかな眼をしておられるのは仏である。でも仏の眼ではなくて、現実の苦界を生きている人間にそのおだやかな眼を見ると、仏の眼とはいささか異なったやすらぎを感じるのである。誰だって始終穏やかにはしておられまい。たまたまだったかもしれない。たまたまその人がおだやかな心境に居合わせておられるときにたまたまわたしが出くわしたのかもしれない。いい眼を見た。嬉しい気持ちになった。そういう時があったことを短歌にしてとどめることにした。








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否定的な感情ばかりが

2006年12月04日 13時55分11秒 | Weblog
 夢がない。将来こうしたいという夢がまるでない。近未来計画がない。だからいつも来るとこ勝負だ。いい加減な日暮らしをしている。すると、感情までがそれに引き込まれて暗く否定的だ。嫌だ嫌だと思っていると生活までが痩せてくる。こんな風じゃいけない、なんとかしなくちゃならない。どうすればいいか。
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