<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

いやはや、老爺は寒いところが苦手

2017年12月27日 16時58分10秒 | Weblog

孫たちと凧揚げに挑戦しようと外に出たが、寒くて寒くて、鼻水攻勢で、その意志を継続出来なかった。セーターの上からジャンパーを着込み、首にマフラー、手袋をして、万全の態勢を整えても、空っ風がヒューッと吹くと亀の頭はたちまち竦んでしまった。

家の中に戻ってみたが、さて今度は、炬燵は漫画本を読む孫たちに独占されて入れない。行き所もなくなった。やんぬるかな、だ。寒いのは苦手だ。夕食準備の台所に逃げ込んで過ごすしかない。今夜は孫たちの好きなコロッケらしい。

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第二の毒矢というのは恐怖心の毒矢かもしれない

2017年12月27日 10時43分24秒 | Weblog

仏陀の説法の中に、「第一の矢は受けても、第二の矢を受けず」というのがありました。第一の矢は外から自分に向かって発射された毒矢。それに対して第二の矢は、みずからがみずからに放つ毒矢である。

良寛禅師はそれを「禍を受けるべきときは禍を受けるが宜しく候」「これはこれ禍を逃れる妙法にて候」と受け止められたようだ。

「禍転じて福となす」というように積極果敢にはできないが、回り回っていずれ「福となる」こともありうるのである。「福は寝て待て」はしかしあまりにも消極的だろうか。「転じる」というのは「足場を変えて見てみる」ことかもしれない。「それがあったために、今日がある」「その災禍があったために今日の繁栄がもたらされている」ということはよく有る話だ。

第二の毒矢というのは恐怖心を持つという毒矢なのかもしれない。

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わたしに働いて来る無言の働きかけ

2017年12月27日 10時31分47秒 | Weblog

日脚が部屋の中に延びてきている。それが書斎の机を照らしている。そこへ手を置くと表面がわずかにあたたかくなっている。それを手の平が感じている。わたしに働いて来る無言の働きかけを感じている。

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泥の花は淤泥華(おでいげ)と呼ばれる

2017年12月27日 10時27分51秒 | Weblog

「泥の中 泥の花」

どろのはな
どろのはなの蓮の華が
どろのなかで
咲いている
正法ダンマが
こんなところで
美しく咲いている

どろのはなは
どろのなかにしか
根も茎ものばせない
どろどろの
どろを吸ってしか

白いプンダリーカを
白く咲かせているどろ
赤いパトナを
赤く咲かせているどろ

どろのはなは

淤泥華(おでいげ)と呼ばれる

 

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わたしにないことが 禍したのではなく

2017年12月27日 09時55分28秒 | Weblog

「雲」

わたしにないことが
禍(わざわい)したのではなく
わたしにないことが
幸(さいわい)したのだ

そういうことだって
あるのだ

わたしが
ほしいものをしっかり
両手に握っていれば
それ以外を
握ることはできない

手に握るものを
放つだけで
わたしにふんわり
満ちてくるものがある

空に
白い雲が流れて行く
ゆっくり悠々と

わたしは
それをわたしの手に
握ることはないが
それで十分だったのだ

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すべてのことがなされている 完了している

2017年12月27日 09時37分53秒 | Weblog

日が射している。すべてのことがなされている。すべてが成就されている。空も大地もほがらかで明るい。すべてのことを為しているのが誰なのか、それは分からない。分からないほどに壮大である。成就させているのが何であるのか、それも不明である。それは不明であっていいからである。わたしが願う前に、わたしが祈る前に、それはおのずからにして完了している。日が射しているのが、わたしに見えているだけである。空と大地が明るくほがらかに広がっているのが、わたしを安心させているだけである。

 

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