孫たちと凧揚げに挑戦しようと外に出たが、寒くて寒くて、鼻水攻勢で、その意志を継続出来なかった。セーターの上からジャンパーを着込み、首にマフラー、手袋をして、万全の態勢を整えても、空っ風がヒューッと吹くと亀の頭はたちまち竦んでしまった。
家の中に戻ってみたが、さて今度は、炬燵は漫画本を読む孫たちに独占されて入れない。行き所もなくなった。やんぬるかな、だ。寒いのは苦手だ。夕食準備の台所に逃げ込んで過ごすしかない。今夜は孫たちの好きなコロッケらしい。
孫たちと凧揚げに挑戦しようと外に出たが、寒くて寒くて、鼻水攻勢で、その意志を継続出来なかった。セーターの上からジャンパーを着込み、首にマフラー、手袋をして、万全の態勢を整えても、空っ風がヒューッと吹くと亀の頭はたちまち竦んでしまった。
家の中に戻ってみたが、さて今度は、炬燵は漫画本を読む孫たちに独占されて入れない。行き所もなくなった。やんぬるかな、だ。寒いのは苦手だ。夕食準備の台所に逃げ込んで過ごすしかない。今夜は孫たちの好きなコロッケらしい。
仏陀の説法の中に、「第一の矢は受けても、第二の矢を受けず」というのがありました。第一の矢は外から自分に向かって発射された毒矢。それに対して第二の矢は、みずからがみずからに放つ毒矢である。
良寛禅師はそれを「禍を受けるべきときは禍を受けるが宜しく候」「これはこれ禍を逃れる妙法にて候」と受け止められたようだ。
「禍転じて福となす」というように積極果敢にはできないが、回り回っていずれ「福となる」こともありうるのである。「福は寝て待て」はしかしあまりにも消極的だろうか。「転じる」というのは「足場を変えて見てみる」ことかもしれない。「それがあったために、今日がある」「その災禍があったために今日の繁栄がもたらされている」ということはよく有る話だ。
第二の毒矢というのは恐怖心を持つという毒矢なのかもしれない。
日脚が部屋の中に延びてきている。それが書斎の机を照らしている。そこへ手を置くと表面がわずかにあたたかくなっている。それを手の平が感じている。わたしに働いて来る無言の働きかけを感じている。
「泥の中 泥の花」
どろのはな
どろのはなの蓮の華が
どろのなかで
咲いている
正法ダンマが
こんなところで
美しく咲いている
どろのはなは
どろのなかにしか
根も茎ものばせない
どろどろの
どろを吸ってしか
白いプンダリーカを
白く咲かせているどろ
赤いパトナを
赤く咲かせているどろ
どろのはなは
淤泥華(おでいげ)と呼ばれる
「雲」
わたしにないことが
禍(わざわい)したのではなく
わたしにないことが
幸(さいわい)したのだ
そういうことだって
あるのだ
わたしが
ほしいものをしっかり
両手に握っていれば
それ以外を
握ることはできない
手に握るものを
放つだけで
わたしにふんわり
満ちてくるものがある
空に
白い雲が流れて行く
ゆっくり悠々と
わたしは
それをわたしの手に
握ることはないが
それで十分だったのだ
日が射している。すべてのことがなされている。すべてが成就されている。空も大地もほがらかで明るい。すべてのことを為しているのが誰なのか、それは分からない。分からないほどに壮大である。成就させているのが何であるのか、それも不明である。それは不明であっていいからである。わたしが願う前に、わたしが祈る前に、それはおのずからにして完了している。日が射しているのが、わたしに見えているだけである。空と大地が明るくほがらかに広がっているのが、わたしを安心させているだけである。