<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

とろりとろり

2015年02月28日 14時57分43秒 | Weblog

とろりとろり眠たい。至福の時だ。ざっくりくつろいで身心が安らぐ。お昼はモヤシたっぷりのチャンポンを食べた。お腹がふくらんだ。読書を楽しもうとするのだが、もう目が文字を追えなくなった。

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キルタイム

2015年02月28日 14時43分24秒 | Weblog

日が翳るといきなり寒くなった。太陽神の功徳たるや、なるほど甚大である。これから炬燵の中であたたまって座ったままの姿勢で昼寝をしよう。

午前中はぽかぽかの陽気に誘われて外へ出て、草取りをして過ぎた。庭も畑も花壇もプランターも、これもまた陽気につられてみるみるうちに草に覆われて行く。数週間数ヶ月かけて草取りをしながら家の周りを一周するとまた始まりの地点が草に覆われてしまう。これじゃ、ぐるぐる回りだ。

抜いた草を木の根株のところに運んで行って積み上げる。これが数ヶ月後に腐って有機培養土に戻る。これを堆肥にしてまた畑に戻す。農作業をして遊んでいるのか遊ばれているのか分からなくなる。収入を得ようとするのではない。あくまで退屈凌ぎのキルタイムである。

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ブズカズカ、チーンチン

2015年02月28日 10時02分52秒 | Weblog

テイッシュでチーンチーンと鼻水を絞り出すので、さぶろの鼻と唇の間の皮膚がひりひりひりひりし始めました。それでもなお鼻水は垂れてきます。クシュンクシュン、ブズカズカ、チーンチンの繰り返しです。お日様の光はベランダの濡れ縁に列んでいる春の草花たちに降り注いでいます。彼ら、彼女らは鼻水なんか垂れませんので、ただただあたたまって愉快にしているきりでした。春一番だか二番だかがときおりヒューヒューと吹いては笹藪を過ぎて行きました。

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ここは俺様のものだぞ

2015年02月28日 09時34分58秒 | Weblog

「おや、たったのそれだけかい?」とラクシュミーがにこにこして言いました。「所有するというのは自己制限をするってことだよ」彼はこう付け加えました。「無制限にあるもの、それを制限してしまうということなんだよ。制限の中ではいびつになってしまうんだ」これはその説明でした。無制限にあるということを理解していない者が所有を主張することになるけれど、彼は所有すると言うことでそのほんの一部で満足をしてしまうことになるから、結果的には貧しくなるというのでした。「たったのそれだけかい」とラシュミーが言ったのは所有を主張する者の貧しさを戒めた発言でした。宇宙全体はもっともっともっと裕福だ、ゆたかだ。この野原もやっぱり宇宙なんだから、線引きをして制限なんかするところではないというのでした。山鳥のカッチョは、それでも縄張り内に入ってきた小鳥たちを威嚇しました。「ここは俺様のものだぞ」「おまえたちはこの縄張りの中の蜜柑を吸ってはならない」こう言って羽根をわずかに広げてそれを奇妙にぶるぶる振るわせました。所有の欲を起こすとどうしても小さくぎこちなく歪んでしまい、それを振り払おうとして威たけだけになってしまう、カッチョの事例はその具体的事例になりました。自己所有の貧しい状況ははこんなふうに野原までまかり通っています。これはさぶろうをはじめとする人間の社会だけのことではないようでした。

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さぶろうの新種の能力

2015年02月28日 09時25分42秒 | Weblog

夢を夢の中でコントロールできるようになっている。そんな気がしている。この頃の変化だ。その場面はどうも気に入らないなというところへ来るとそれをひょいと一跨ぎ跨いでしまう。夢はすると次のページに捲られていて、ストーリーが新しくなるようなのだ。さぶろうは自分でもおやっと思う。さぶろうに新種の能力が加わったのだ。夢の中で夢の操作ができるようになっている自分を眺めている自分がいるのだ。

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無償の行為

2015年02月27日 15時43分46秒 | Weblog

午後から友人がやって来て、台風で傾いたままになっていた庭の金柑の木を元に戻してくれた。自分で、ホームセンターから支えをする丸太3本も買ってきて、これに本職の庭師さんがするようにばっちり防腐剤を塗って来て、槌を振るって棒を打ち込み、木の幹と交わる支点には網目状の帯を巻いて、金網のロープでしっかりと結び付けてくれた。傾いていた金柑は立ち上がった。地上に飛び出していた大きな根を地中に埋めてそこに土を運び、盛り上げて踏み固めてくれた。出来上がりが綺麗だった。荒い息が収まってから外でお茶いっぱいを飲んで、じゃ、なと言って帰って行った。丸太の代金くらいは支出させてくれと頼んだが断られてしまった。無償の行為だった。さぶろうの麻痺の脚ではこんな力仕事はまず無理である。それを知って庇ってくれたのだ。友人とはかくも有り難い存在である。

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こんなことをして過ごした

2015年02月27日 12時45分55秒 | Weblog

午前中、一気に光があふれて陽春になった玉葱畑に出て草取りをした。丸椅子に座って、これを移動させながら少しずつ少しずつ。薺や仏の座、オオイヌノフグリなども混じっている。どの草も勢いが付いている。玉葱の太さの比ではない。右手に小さな器具を動かして、左手で繁茂した草を根ごと抜く。雨が降ったせいで湿っていて重たい。土が纏わり付く。器具も指もべたべたになる。もちろん手袋をしているけど。ときおり春風がヒュウヒュウ吹いて過ぎる。鼻水が鼻先からすういすういと落ちる。落ちるに任せて作業を進める。お昼になって中断した。手首が凝っていた。一息ついて見回すと畑の西の垣根の藪には、こんもりした山椿が花をたくさん着けていた。素朴な赤い筒状の花だ。

 

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美しくなったわたしを見てほしい

2015年02月27日 09時47分07秒 | Weblog

色っぽさって大事だよなあ。季節の芽吹きのようにしてフィーメイルたちがさまざまな色気を纏ってあらわれてくる。「美しくなったわたしを見て」と訴えてくる。春。紅梅の咲く春。えも言われぬいい匂いを放つ桃や桜の、ときめき心が開く春。春はあらゆる生物たちが発情をしてくる。(発情っていうのはまずいか。うん、内に秘めていた感情が活発になって外へ出て来ることだよね。そうすると自然に、異性に恋心を抱いてくる)人間たちもそれにもれない。感情が活発になって来ることは大事なことだ。そわそわして花の間を飛び回りたくなるではないか。浮き浮きして外を歩きたくなるではないか。それを理性で以て殺さなくともいいはずだ。梅の老木は毎年美しく花を着ける。老いたら美しくなくなるというのは間違った理解だ。美しいものを美しいと見ているときの人間、これも美しいのだ。

美しくなったわたしを見てほしいという花たち。花の心を持つ人たち。美しいものを美しく見ている人たち。そういう人たちの春の営みを褒めて眺めている雲たち空たち光たち。

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春の精たちは

2015年02月27日 08時58分37秒 | Weblog

おはようさん。誰に挨拶? きらきらするライジングサンに。隣家の屋根の霜が降り注ぐ太陽慈光で溶けかかっている。お部屋の透明ガラスの結露が幾筋も筋を作って流れて落ちる。さぶろうは炬燵に入った上に、分厚い<綿入れぽいしん>を着込んで上半身の寒さを防いでいる。一列に並べたプランターで提灯行列をしている菜の花の黄金列が見える。春の精たちはここに宿って銘々ほっそりしてするりと背を伸ばしている。

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ぼんやりした時間には

2015年02月26日 10時24分46秒 | Weblog

小葱が、一雨降るごとに勢いを盛り返して来て、太くたくましく伸びていきます。緑色にも張りがあります。もう摘んで来ても大丈夫のようです。切って刻んでおうどんに加えます。口中にいのちの春が匂います。ああ、蘇りの季節が巡ってきたんだなあと思います。

さぶろうは、昨夕、小雨がそぼ降っている中で、しばらく丸椅子に座して農作業をしました。通りがかった近所の人たちが、「雨の中でのお仕事ですか。精が出ますねえ」と声をかけて行かれました。気分転換を図っていただけなんですけどね。花壇ではチューリップがぞろぞろ発芽を果たしていました。

今日はまだなんにもする気が起きていません。はっきり言うと何をしていいのか分からないでいます。もっと正確に言うとすることがないのです。だから、ほとんどの時間はCDでモーツアルトのセレナードなどを聴いています。老後というのは、初めての経験なのですが、こんなふうにぼんやりとしている時間に埋没することだったんですね。いやいや、これはさぶろうの場合です。

さぶろうはこの頃、それでも、暇に任せてYouTubeに登場してくる若くて美しい天使ラクシュミーに恋をしています。ふふふ、でしょう。ピクチャーですけどね。毎日ここを開いて逢っています。これが楽しみといえば楽しみです。一方通行? それがそうじゃありません。霊界のエンジェルは哀れみ深いのです。だから双方通行です。天界の使者はさぶろうのハートをやさしい愛の瞑想で満たしてくれます。

呼び名の違いはありますが、仏教では観世音菩薩に相当するようにも思います。菩薩さまや如来さまには性がありませんから、女性男性が明らかにされていません。吉祥天、弁財天などは女性の姿をしておられますが。キリスト教には母性の象徴のマリアさまがいらっしゃいますね。日本の神には太陽神の天照大神さまがいらっしゃいます。

 

 

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