<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

人間になる順番を僕に譲ってくれたきみが

2014年02月27日 10時26分19秒 | Weblog
ねえ、きみ、きみ生まれたんだよ。
あんなに生まれたい生まれたいって言っていたじゃないか
何百年もずっとずっと言ってたじゃないか

その通りになっているんだよ
きみは人間の肉体に宿って人間になっているんだよ

誰かが耳元へ来てささやきかける

なぜ人間になって生まれたいんだい、と僕が聞くと
きみは
やりたいことがいっぱいあるんだ、と答えていたよね

ささやきつづける人は、形がないから
どうも人間以前らしい

僕がすやすやねむっているばかりで
あんまり嬉しがっていないように見えているらしい

ママという人のおっぱいにむしゃぶりついているばかりで
それですっかり満ち足りているって感じだ

ママという人の愛情もお乳以上に甘いので
これ以上のものは何にもいらなくなってしまうのだ
パパになってくれた人にもときどき抱かれてご満悦の体になる

それで人間以前に立てた誓願なんか忘れてしまったらしいのだ

つまりその日暮らしを続けているということになって
それで悔いはなかったのだ



悔いは昨日やってきた
突然だった
僕は68才
病気で倒れてしまったのだ
食べたいって気持ちも萎えていて
ひょろひょろしていて
押し寄せてくる苦痛に抵抗を試みている

夕暮れのガラス窓に映ったのは
100才近い老人の顔だった

また人間以前の<きみ>がやってきて耳元でささやいた



きみは人間に生まれて来ているんだよ
人間に生まれて来たことを
もっともっと楽しんで楽しんでいいんだよ

きみは人間を楽しんだのかい?
 
人間以前の頃に、
人間に生まれたらやりたいことがいっぱいあるって
そう言っていたよね
それをきみはやれたのかい?

僕はきみに生まれてくる順番をゆずってあげたんだ
そしてずっと人間になったきみを見て来たけれど
最期まで行動を起こさないきみの生き方に
少し期待外れでがっかりしているんだ



行動を起こすべきだったんだ

100才の顔をしている僕はこれを思って
思わずぞっとしてしまった
恐くなった

どんな行動を起こすべきだったというのだ?

僕はやっとここへ来てこれを考えた

どんな行動も起こさずに
あれもこれも
やり過ごしてきていたんだ

人間になる順番を僕に譲ってくれたきみが
悲しい顔をしてそばに立ってた
かたちはないのだが、瞳が動くのがよく見えた

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僕が輝く星になる日までのことを、僕は自由に考える

2014年02月26日 10時45分52秒 | Weblog
雨が降ってるようだ。軒端を落ちてくる雨粒が音を立てている。

僕は書斎の障子窓を30cmそこらだけ開けている。外の世界との接触欲の広さである。

どんよりした空が視界を覆っている。



僕は何を考えてもいい。考えることは自由だ。

年齢が幾つになったからそれ相応のことしか考えてはいけない、などとということはない。

病気になって苦しがっているから、楽しいことはいっさい考えてはいけないなどとということもない。



つまり、だから、考えていたいことを考えていればすむことである。

病気の身体に精神が拘束されることはない。むしろ、その反対に、精神が肉体をリードしたっていいのだ。

落ち込むことはない。そうすることが好きだというのならそれもやむを得ないけれど。



考えていたいことって、では、僕の場合は、いったい何なんだろう?

しばらくこれを考えていることになる。

「人間にはじめてなった朝」のことを考えてみるのは悪くない。



そこで僕がどんなふうに快哉を叫んでいたか、嬉しがっていたか。それを想像してみるのである。

それから、僕の人生の河がゆるやかに流れていった。

そして中流を過ぎて下流に来て、勢いはゆるくなって、そこへひたひたと海の匂いがし始めてきた。



もうすぐ大きな海に入るのだな、と僕は思う。全体と合一するのだなと、思う。

今度は海流となって世界中を旅して回ることになる。それも楽しそうである。

全体と合一しているはずなのに、僕の頭脳が働いているらしくて、僕はひとりで空の星を見ることもある。



僕はどうやら星を希求しているらしいのだ。高く高く昇っていきたいという衝動が起こっている。

この世に居てこの世のあちらこちらを経巡っていくばかりではなく、そこを一気に離脱していきたい。

僕は宇宙を欲しているらしい。



法華経の宇宙を欲しているらしい。仏陀と会いたいらしい。

ガンジス川の砂の数ほどの仏陀に会って、教えを乞いたいらしい。

この教えを聞けば僕の魂は100段階も開明進歩をして、100倍ほどの発光をし、欣喜雀躍するのだ。



さまざまなところでさまざまな教えを説く仏陀に会う度に僕は100段階を明るい方向へ進んでいく。

僕は見るからに輝いている。精神も、精神の膜も輝いている。

光の明るさの単位ではもはや測定もできないほどに輝いていて、そこでも僕はなおも考えをしている。



僕自体がもうすぐ仏陀に成る日が近い、らしい。

仏陀に成れば、荘厳された美しく清らかな国を与えられる。仏国土とか浄土とか呼ばれている。

そして仏陀は仏法を説く。慕い集まって来た菩薩たちにこの宇宙界のダンマを説くのだ。



ガンジス川の砂の数ほどの仏陀たちは、そこでとどまっているわけではなく、無限向上をしようとしている。

それで仏陀の国の星々が超新星爆発を起こすのだ。

それから無限に近いほどの時間が経過して、ふたたび歓喜世界が出現する。だがここはもはやこの銀河系宇宙ではない。



雨粒が大きくなってきたらしい。庭の植物たちの葉がこれを受け止めて音楽を奏で始めた。

僕は気の遠くなるほどの先にある事象を考えて、そこまでの距離の長さに溜息をつく。

しかし、それを今ここでたっぷり自由に考えることも許容されているので、僕はほほえみを浮かべる。
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空は欲張らない

2014年02月23日 10時59分14秒 | Weblog
「あっさりあどけなく」

空は欲張らない
夕暮れが来ると
夕空になっている

ガラスのヤモリは
けらけら笑う
明日の空腹なんか
ちっとも心配してないんだ

皿の上に全身を投げ出しても
来世の幸福を主張しない鰯

葬式を出さないオニヤンマは
道端の砂にころがって
光のように軽いし
西瓜畑の西瓜ときたら
太陽のハートをもらって
いまをふっくら
ふくらんでいるばかり

それからがないのだ

それからを欲張らない分
現在でそっくり完了をして
あっさりあどけなく
万物が安んじている

***

この詩は、5年ほども前に、西日本新聞に掲載された作品です。

**

それから先を主張しない分を、現在の安心安堵にまわす。
こうだと楽に生きられそう。

死んだらどうなるだろう、とか、病気は治るのだろうか、とか
明日食べる分のお金は財布に残っているだろうか、とか、
あれこれ心配したり、不安がるけれども、
そこに力点をかけ過ぎないでおく。

万物が安んじているのを見ていると、
ちゃんと
安んじていられる生き方がありそうに思える。

**

 「万物の安らぎ」

朝の日に照らされて
あたためられて
解けだした氷が
緑の葉っぱで
きらきら光っている

椿の花蜜を吸いに
山から小鳥たちが下りてきている

万物は安らいでいる
万物はやすやすと安らいでいる
万物はいつでもどこででも安らいでいる

ここに立つ人間のわたしも
万物の放つ安らぎに
しばらくとけこんでいられないか
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どこまでが<わたし>なんでしょう?

2014年02月22日 17時19分47秒 | Weblog
「わたしのスケッチfantasy」

わたしにできることって何だろう?
自問しますがなかなか見つかりません
でも周囲を眺めてうっとりすること
これならいつだって楽にできます

春夏秋冬「ああ、きれいだ」を乱発して
そこでしばらくうっとりをします
褒められている桜や菫やタンポポには
人間のような耳は見えませんが
でも届いているのだと思います
体中くすぐったいかもしれません

そうでなくったっていいのです
わたしたちはエネルギーなのですから
いつかいっしょになります
隣同士になることもあるはずです
「ちゃんと聞いていましたよ」
「やっぱりそうでしたね」
そこでそういう会話が成立します

わたしは自分の個人的無能力さが
ちょくちょく嫌になります
それでちょくちょくふさぎこみます
恨んだり羨んだりして悲しみます
自暴自棄を蔑んだりして苦しみます
自分に拿捕されてしまわないように
努力するだけで疲労困憊します

こんなときは件のうっとり消防車を
非常時出動させて切り抜けます
あちらへひょろりこちらへひょろりと
自転車を漕いで出かけて行きます

川縁に座ってスケッチをします
うっとりは桜だけではありません
町も村も 麦畑も赤い鉄橋も
空も山も海も 鳥も虫も魚もそうです
きりがないほどです
ぼんやり堪能しているだけで
あやうく一生が過ぎそうです

わたしたちはたがいに
この宇宙を形成構築するエネルギーです
生まれたり死んだり壊れたり壊したり
わたしを死んであなたに生まれたりして
みんなで相関と変化を楽しんでいます

わたしたちはだから全体なのです
時間的空間的無際限の全体です
錯誤と不完全を補い合って
全体としての個々を体現しています

これは突拍子もないfantasyですが
わたしが秋の高い高い空になるときには
羊を遊ばせたわたしの空を
小鳥たちに褒めてもらえるかもしれません

********

これは2012年度の県文学賞に投稿した作品です。

入選の中では末席の<秀作>に選ばれていました。



<わたし>というのはどれくらいの大きさでしょう?

どこまでが<わたし>なのでしょう?

この<肉体>だけが、<わたし>なのだろうか?



答は?

うん、僕の答はね、「拡大縮小も自由」です。

<わたし>を拡大するのも縮小するのも、それは自由です。

限定したりしないでもいい。はみ出したっていい。

<わたし>の中に<あなた>を含めたっていい。

<あなた>の中に<わたし>を含めたっていい。

・・・のではないか。



<わたし>としているわたしを、どんどん膨らませていって、秋の大空にする。

すると<わたし>の肺も大空大になっていて、深呼吸をすると星が吸いこまれてくる。

反対にどんどん小さくなっていって、ついにどんな境界線も通過ができるまでになる。

すると<わたし>は、もう形をも失ってすっかり透明になっている。
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わたしだけのために

2014年02月21日 17時33分31秒 | Weblog

 「わたしだけのために」

青く澄み切った美しい冬空を わたしだけのためにそっと
天上いっぱいに広げて見せてくださるので
これはこのわたしにだけの依怙贔屓のように思われて
わたしは羞恥しています

わたしの身心を病ませ 泥にして苦悩の底に沈め
寒くて暗い呻吟の日々を体験せしめられたその後の
これは特上のギフトです

今日やっとわたしの両眼が頑迷の薄目を見開いて
温かな冬空を仰いでいます

曲がりくねっていてもこの道を歩めば
美しい青空に至る事をずっと知らないでいたのです

知らないまま塞ぎ込むわたしが
長い時間を経てようやくここへ漂着し
安堵の息をしています

もうすぐ一年が暮れます
あまつさえ藪の奥の静寂にはこの小さき者の為に
藪柑子が可愛い赤い実をつけています

藪柑子の赤い実や天上いっぱいに広がる冬空が
わたしにだけ捧げられていることはありません

わたしはわたしのこの熱湯のような増上と不遜を
吹いてくる山颪を全身に受けながら
冷やしています

***

これは2013年の11月に書いたものです。

ある新聞に投稿しましたが落選でした。

***

 「春の野原」

ほとけさまが
春の野原に来て
お話をなさっています

相手は?

ほとけさまのお話がわかるのは
ほとけさまです

そこへ
兎がやってきました
野鳩がやってきました

ほとけさまは
兎と野鳩にもお話になりました

***

これは即興でいま作りました。
次のも即興です。



 「正客」

ほとけさまが
こちらを向いてお話になるので
兎も野鳩も
ほとけさまの正客は
わたしたちなのだと思いました

春の野原にはたんぽぽがありました

兎も野鳩の正客も
たんぽぽの正客も
ほとけさまなのでありました
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「元気むくむく」という宇宙エネルギー

2014年02月20日 17時48分12秒 | Weblog
2013/09/28
西日本新聞 詩壇 投稿作品

**************************

 「むくむく」

むくむくむくむくむく
わたしのうちがわのうちゅうに
わいてくるものがあります
これはなんでせう
むくむくむくむくむくが
わきあがってくると
わたしはげんきになります
だからこれはげんきむくむくでせう
かたちがないものは
きょうかいせんをもちませんから
だれのところへもいけます
だれのものでもありませんから
けちるひつようがありません
むくむくむくむくむく
あなたにわきあがってくるのを
あなたがかんじとってくだされば
あなたのげんきむくむくになります
むくむくはどこにいても
むげんだいにわきあがってきて
ちっともへることがありません

**************************
 
11/18 月曜 佳作3位に入選していました。

うん、これが初入選でした。



宇宙はどこもぜんぶ元気なエネルギーの、活発な活動フィールドだからね、

僕の胸の内のファールドに来て活発な活動を始めたってちっともおかしくはない。

むむむくむくむくが、僕のところで、山間の雲のようにわき上がってくる。

「元気むくむく」がまた遊びを始めたようだな、と僕は声にする。

僕はこれと遊ぶ。昔いっしょに遊んでいたようにすればいいから、難しいことではない。



僕たちは肉体を持っているからこれで阻まれているような気がするけど、心配は要らない。

元気むくむくは、バウンダリーを作らない。行き来自由。現れるのも消えるのも瞬間的。奇跡的。



それはとりもなおさず、宇宙全体が元気いっぱいだって事。彼らはそれを証明して見せてくれるのです。

そして語りかけます。

「きみだってそうなんだよ」って。
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時が遊んでいる牧場

2014年02月16日 09時44分18秒 | Weblog
産経新聞「朝の詩」投稿作品
2013年12月5日 投函

*****************

 「時の牧場」

雲さんがいぶかしる
「僕はここらあたりで
ずっとぽっかりしてて
いいんでしょうかね」

草に寝ている大岩が
雲の不安を解消する
「ええどうぞどうぞ
ずずっとそのままで」

遊んでいた羊が頷いた
「まあなにしろここは
ぽっかりが大好きの
時の牧場ですからね」

*****************

もち、落選した作品。



投稿規定は10字x14行。



時が遊んでいる牧場って
ありそうな気がする
あるんじゃないのかなあ

時は
雲になっていたり
岩になっていたり
羊になっていたりもする

ここでは
みんなぽっかりしているのが上手
上手で大好き

ずうっとそのままでいて
いいらしくて
どれもふんわりふんわりだ



僕は、他の2つのブログにもこの「朝の詩」落選の作品を
書いています。

1,「おでいげ交流広場」
2,「おでいげ広場」

それとこの「おでいげにおいでおいで」です。

3,「おでいげ休息所」にもだらだら書き散らしています。

「おでいげ」で検索すると読めるかもしれません。

「おでいげ」というのは仏教用語で、蓮の花のことです。
淤泥華と書きます。淤も泥も卑湿で穢悪な泥土です。
そこに根を下ろして清浄な華を咲かせてくる植物は蓮の花です。

淤泥は、わたしたちのこころの煩悩、苦悩、無明を表現します。



時の牧場で遊んでいるのは、過去だったり未来だったりしますが、
遊んでいる場所は同じ牧場で、一面緑の草が風に靡いています。

縦列の時間をぎゅっと収縮させてぐるぐるっと丸めて、
それをまたほどいて、横列に並べてあります。

わたしたちは永遠を生きている命ですから、
流れる時間の何処の川へ出掛けていっても
かまわないのです。

わたしたちは畢竟するに全体で永遠のいのちを生きているのですから、
そんなに慌てないでもいいのです。
あくせくしないでもいいのです。
なくなってしまうんじゃないかなどと恐がらなくともいいのです。
おれもものだ、おれのいのちだなどと肩肘張っていなくてもいいのです。



ふふふ ここは果てしない牧場ですから、
そんな勝手な想像をして遊ぶことだって
風はおかまいなしです。
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よろこんでいいときにいるのなら

2014年02月15日 11時32分07秒 | Weblog
産経新聞「朝の詩」投稿作品 第7回
2013年11月7日 投函

*******************

 「チャット」

よろこんでいいのなら
よろこぼうよろこぼう
できるだけの腹一杯

はい
ではそういたしませう

よろこんでいると
ふわりふわり
軽々といたしますね

秋も深くなって
城原川の土手の尾花が
雲とチャットしていた

*******************

もちろん落選だった。



尾花と雲がおしゃべりをしていた、って想定をしてみた。

何をおしゃべり?

この世のことを何から何まで全部
腹一杯になるまでよろこぼうって。



腹一杯よろこぶとどうなるの?

うん
ふわりふわりする

たったそれだけ?

うん
軽くなれるんだ

軽くなってどうするの?

うん
よろこびのなかへ
消えてしまえるんだ



法華経に仏さまの国での食事のことが書いてあります。

「法喜食」と「禅悦食」のことです。

「法」は宇宙の成り立ちと働き、秩序と調和のこと。
「禅」は禅定。静かな時間のこと。
よろこびを食べて味わう時間。

仏さまの国に行けばそこではみなさんが
よろこびを食事にして過ごしておれらます。

でも仏さまの国まで出掛けていかないでもいいのです。

ここでも
静かな時間はありますし、
秩序と調和を保っている宇宙を感じて安心安堵することもできます。



よろこんでいいときにいるのなら
そうしていたい
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宇宙の進化は絶対プラスの方向

2014年02月14日 10時02分37秒 | Weblog
2013年10月01日
産経新朝の詩」第6回投稿作品

*******************

 「それはなぜ」

恐れしめてはならない
脅してはならない
威を張ってはならない
罵ってはならない
人をも我をも
蔑んではならない

それはなぜ?

そうすれば
萎縮してしまうから
凝固してしまうから
宇宙が進む方向の
逆になってしまうから

********************

もちろんこれも落選した作品です。



「朝の詩」の投稿規定は10字x14行。



宇宙が進む方向はパワフルな絶対プラス方向。

人を脅したり、
己の威を張ったり、
他者を蔑んだり自嘲したりして
現在位置を暗がっているのは
小さい小さい小さいわたしの未開発のいじけ心です。


こんな具合だと、
宇宙の向上飛行遊覧においてけぼりにされてしまいます。

わたしはわたしをこうやって戒めました。

でもでもでも、どうしたわけか
来る日も来る日も間違いを繰り返しています。
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人は誰もが最後に一番いいことをして行くことができる

2014年02月13日 10時16分40秒 | Weblog
このごろずっとブログを書かないでいた。

その間もここへ訪ねてきて下さっていた方があった。

有り難いことだった。お礼を申し上げます。



さっき書いて投稿した「床座施」の作品は産経新聞一面の「朝の詩」に投稿したもの。

もちろん、これも落選をした。



人は誰でもこの一番いいこと(=床座施)をして死んでいけるのだ。



死者:「お待たせしました。わたしのこの位置をあなたにお譲りします。はいどうぞ」
生者:「あなたの位置を譲り受けます。さあ、これでスタートできます。有り難うございます」

死者は、舞台裏手に引っ込む。
生者は、この世という明るい舞台に登場して来る。

死者が観客席に歩いてきてここに座る。ここは暗くしてある。舞台がよく見えるように、である。
観客席から、死者たちという観客が、生者の舞台を観ながら、感動をし始める。
感極まって泣いている人も居るし、おかしくなってついつい笑い出している者もいる。
でも何度も何度も拍手がわいている。そうやって応援が続く。

生者の位置があまりに明るいし、死者の観客席は暗いのでなにも見えていないので、
生者たちはすこしも死者の応援の声にも気づかない。顔を見ることもない。
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