<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

うれしいうれしいうれしい

2007年09月18日 23時56分39秒 | Weblog
 在家仏教協会の初代理事長加藤辨三郎さんが、<ハワイの仏教徒と語る>「信の風光」の中で、こんなことを述べておられます。座談会です。

 「釈迦牟尼仏の見出された法は永遠不変であって、したがって私が短い一生にやれることは、ほんのわずかなものであっても、法は永遠ですから焦ることも、いらだつこともなにもないのです。自分の一生をそれに捧げれば、それは必要にして充分であると・・・」

      *

 「仏の教え=法は永遠不変である」というところがわたしの胸を打ちます。とても胸を打ちます。これでもう安らげます。

 安心ですから「わたしが焦ることもいらだつこともない」。ただ、いまわたしが、仏法のただ中にいるという事実が嬉しいです。

      *

 どんなに時代が変遷しても、法が永遠に生きている、生きて活動しているので安心です。わたしがうろたえることではありません。

      *

 「わたしがどんなにつまらない者であっても」

わたしが
どんなにつまらない者であっても
それでいい
それでいい
 
真理の宇宙が欠けることは
いささかもない

わたしが
どんなに愚か者であっても
宇宙の真理が曲がることは
いささかもない

わたしが
善を為さず悪を為しても
それでダンマの永遠が壊れるということは
いささかもない

うれしい
うれしい
うれしい

彼岸花がまっかに咲き出したこともうれしい
山里に柿の実が色づいてきたこともうれしい
秋の空に鱗雲が広がっていることもうれしい



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おいしい巻き寿司を食べたよ

2007年09月16日 23時26分38秒 | Weblog
雷鳴のとどろく中に、家内は買い出しに出かけた。帰宅してからは娘と二人でしずしずと料理方をしていた。呼ばれてテーブルに着いたぼくは飛び上がった。久しぶりの巻き寿司だったからだ。食べたい食べたい巻き寿司だったからだ。海苔巻きの海苔はいい匂いがした。青いほうれん草と干瓢、椎茸、卵焼きが詰まっていた。「おいしいおいしい」を連発した。

 今日は敬老の日。明日、唐津にいる家内の父のお昼に持って行くのだそうだ。なあんだ、そういうことだったのか。
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自己暗示 歯痛によく効くおまじない

2007年09月14日 22時56分17秒 | Weblog
あのね。笑われちゃうけど、ぼくの隠れ業があります。
それは、歯の痛みがあるときに発揮されます。
歯に中指の先を当てると痛みが止まります。人にして差し上げたことはありません。
もしかしたら、もしかしたら、人にも効果があるのかもしれません。
歯に直接指先を当てないで頬の上からしても効果は変わりません。
指先から、治療効果の光線が放たれているような、じんじんがします。
これはしかし誰にもできることのようです。
お腹が痛いときにも両手をあてているとそこが熱を持ちます。
痛みがやわらぎます。
お母さんはこどもの額に手を当てて熱を取ることができます。
「手当をする」は「治療をする」ことと同義です。
人間は元々こういう自己治療の能力が備わっていたと考えられます。
ぼくはこれを「自治能力」と呼んでいます。
魚、鳥、動物などもこの能力を使っていると考えています。

夢で高い塔に上りました。螺旋階段をぐるぐるぐる回って回って
天空の上の塔の先端にある宮殿に出ました。そこの御堂に神々が祀られていました。
着飾ったおばばさまが座っておられます。こちらへどうぞと手招きを受けて、
おばばさまの前に座りました。
そうしたら、おばばさまが、「おまえにはすでに人を治す力が備わっているよ」と
わたしの肩に手を置いて語りかけました。夢の中なのに置かれた手が熱い火のようでした。
これは願望が夢になったものでしょうか。
弟が大病にかかったときに、弟の病を治してあげたいと強く強く願いました。
来る日も来る日も願いました。

でも、自分の歯の痛み以外に用いたことはありません。暗示がかかっているのでしょうか、
指先光線を発射すると歯の痛みがやわらぎます。痛みは小さいうちなのですが。
これは予防にも効くようです。

おかしい話だったでしょう。
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おねがい

2007年09月09日 22時26分10秒 | Weblog
 「おねがい」     山鳩暮風
   
おこって ぷん と した とき に
ごはんですよ と 呼ばれても
いちどで へんじが できませぬ
あかるい はあい が いえませぬ

おねがいだから もういちど
ごはんですよ を もういちど
おねがいだから おかあさま
あかるい はあい が すぐそこに

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完了

2007年09月04日 22時57分08秒 | Weblog
 「完了」

一刻一刻が
いつも完了をしているので
時間は進むことができるのだ

うまれたことは
うまれたときに
完了をしているのだ

五十六億七千万の昔に
仏陀が願われていたことが
いまここで完了をしているのだ

あしたではなくて
いま現在で
完了しているのだ

いまのわたしで
いまの未完成のままで
わたしがすがすがしく完了をしているのだ

男はひとり
そんなことを考えて
夜を過ごした
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