隠れ家へ行って来た。山の中の温泉宿。日帰りで。湯を浴びて休憩室で過ごした。入浴休憩料は350円。お昼はその温泉宿のレストランで食べた。するとそこの女将さんが「もしやあなたは?」という。かっての教え子さんだった。一度に40年が吹き飛んだ。ここは宿泊もできるということが初めて分かった。2食付きの一泊5800円らしい。ただし部屋にはトイレが付いていなかった。逃げ場が欲しいときに、いつかその気が起こるかも知れない。
隠れ家へ行って来た。山の中の温泉宿。日帰りで。湯を浴びて休憩室で過ごした。入浴休憩料は350円。お昼はその温泉宿のレストランで食べた。するとそこの女将さんが「もしやあなたは?」という。かっての教え子さんだった。一度に40年が吹き飛んだ。ここは宿泊もできるということが初めて分かった。2食付きの一泊5800円らしい。ただし部屋にはトイレが付いていなかった。逃げ場が欲しいときに、いつかその気が起こるかも知れない。
霧雨が降っているのに外へ。ちょっと気晴らしがしたかった。長いことじっとしていると気分が澱んでくる。尻が焼けるのである。霧雨に濡れて帰ってきて、焼けが幾分か収まったみたい。霧雨といったって長いこと居ると上着も下着も苔のように湿ってしまう。畑を回って、すくすくと成長している九条葱をボール一杯になるまで摘んで来た。青葱の青が我が家の食卓を健康色にしてくれそうである。
1
「十善戒」の一つ「不殺生戒」は「生きているものを殺すな」という戒めだ。
2
生きたいとしているものを殺してはいけないのである。殺戮をする戦争はこれに背く。戦争をしてはならない。
3
殺さないで居ればそれだけで善になるのかというとそうではない。「殺さずに生かせ」ということだ。
4
「相手を生かせ」「来る人来る人を皆生かせ」ということだ。
5
「見る対象や聞く対象を生かせ」ということだ。「生かしてものを見よ、生かしてものを聞け」ということだ。
6
仏教ではすべてにいのちがあると考えているから、対象は人だけではない。「ものの命を生かす」ということが仏教の根本的な教えだ。
7
「魚や牛や豚や鶏を殺して喰うな」「野菜も果物も生きているから殺して喰うな」ここでまず躓く。この戒めが守れない。
8
命を喰わないとわたしの命は死に絶えてしまう。命でないものを喰ってもわたしの命は繋げない。
9
だから繋いでくれたものたちがいるのだ。己の命を犠牲にしてくれたものがいるのだ。己の命を捧げてくれたものたちがいるのだ。
10
そのものたちの捧げた善によって、わたしの命が生かされているのである。
11
「殺さずに生かせ」の対象の第一はしかし「己の命」である。己を生かすことである。殺さずに生かすことである。
12
命は循環している。そこでストップしていない。大きく大きく回り回っているのである。
13
生き生きと生きているというわたしの生き様が他者を生かしているのである。他者を明るくしているのである。他者を輝かしているのである。
14
われわれは互いに己の命を捧げ合って大きな宇宙の命を繋いでいる。生き生きと生きているわたしという命を捧げることで、宇宙の命を生かしているのである。
15
魚も牛も豚も野菜もそれぞれがまぎれもなく「わたしを生きているもの」である。他者を生かすという十善戒を護っているのである。
16
それでわたしが今日を生きているのである。宇宙の大いなる命の循環に低頭するしかない。
17
こうまでして、今日のわたしを生かしているもののハタラキを無にしてはならない。
18
不殺生と殺生の間の大矛盾のわたし。そのわたしを懺悔しながら、十善戒の第一戒を考えてみた。
お隣のおばさんがバイク転倒事故で右足膝を骨折された。一昨日が手術だった。今日お見舞いに行ってきた。家内とともに。新しく出来た総合病院だった。地上8階建ての超大型施設で、レストラン在り、パン食堂あり、コンビニ在り、銀行ATM在り、図書館在りだった。人に溢れていてちょっとした町を成していた。国の医療費が毎年、前年を上回って増加していると今朝の新聞が報じていたが、それが頷けるようだった。初めて中に足を踏み入れた。病室も近代的でハイカラだった。窓の外には広々とした公園が作ってあった。おばさんの手術は4時間もかかったらしい。痛々しかった。見舞いは短時間で済ませた。病院までかれこれ往復約1時間半。さっき戻って来た。大降りにならずに都合がよかった。
昨日、当地では雷雨の後、突風が吹き荒れた。今朝の新聞には竜巻だとしてあった。瞬間、台風襲来を思わせた。雨がベランダの奥までも吹き込んだ。濡れ縁がびしょ濡れになった。載せていた軽い物は吹き飛んだ。庭の菊の花は枝ごともぎ取られた。苦瓜の支柱も倒れて畑に腹ばいになった。加えて凄まじい豪雨。か弱い秋野菜を叩き付けた。畑には小川が流れた。畝と畝の間は沼になった。さっき市役所から土砂崩れ注意報が緊急発令された。災害の起こる危険性が高まっているようだ。9時を回った。雨は小止みになっている。気温は26度。湿度は90%。
滝(たぎ)の上の三船の山に居る雲の常にあらむとわが思はなくに 弓削皇子(ゆげのみこ)
弓削皇子は天武天皇の第6皇子。体が弱かったからというせいもあろう、とかく引っ込み思案のようだったようだ。この歌にもそれが顕著だ。雲はいつでも山の上に現れているがわたしはそうはいかないだろう、と歎いている。歎き歌だ、これは。三船山から滝が落ちている。その真上に白い雲が浮かんでまぶしく光っている。三船山は487mの中くらいの山。吉野川からそそり立つ。彼は時代にときめく皇子ではあったが、光眩しい白雲のように明るく人前に出て存在を誇示できるタイプではなかったようだ。
*
万葉人の間にもそういう一歩引き下がった人生に甘んじた人も多かったに違いない。いや、その後もいただろうし、今もいるだろう。今この現代にも、滝の上の山にる雲にすら寂寥感を迸るような若者も、そして老人もいるかもしれない。そういう人たちがこの歌を読んでしばしこころを慰めているかもしれない。どうやらわたしもその一人のようだ。
よく降る。本降り。雨音が高い。雨には濡れないところにいるのだが、雨のまなかにいるような気がする。ごろごろごろと曇天の奥まったところで雷が神鳴りしている。地響きがする。もうすぐこちらへもお出でましになるのかもしれない。3軒隣りに吠える犬の声もする。散歩に連れて行ってもらえないからだろう。今日も一人いる。老いた亭主は留守番に決まっている。さっきまでごろんとなって天井を見ていた。
僕は甘い物がほしい。とにかく甘い物が。花蜜でなくても、お菓子でなくてもいい。果物でなくてもいい。口に入れる物でなくてもいい。それがただのことばであってもいい。恋しい人の面影であってもいい。甘ければいい。一瞬こころがそれを呑み込んでとろりととろけたらそれでいい。
馬追虫(うまおい)の髭(ひげ)のそよろに来る秋はまなこを閉じて想い見るべし
長塚節(1879~1915)
ウマオイムシは、バッタ目ウマオイ科の昆虫。秋になると「スイッチョ」と鳴く。触角が長い。体長の二倍、6センチもあるらしい。作者は茨城の地主農家を継いだ人だから馬追をよく耳にしていたのかもしれない。虫の暮らしにも馴染みが深いのかも知れない。
馬追虫の長く細い髭がそよろそよろと秋風に揺れている。それを草原まで行って見たわけではないだろう。思いやって見たのだろう。そのように「そよろそよろに」秋の気配が我が家の中にまで忍び寄ってきている。それが目を閉じているとよくよく偲ばれる。彼はこの頃すでに我が身の行く末を案じていたのかもしれない。そよろそよろに近づいてくる死を思い見ていたのかもしれない。病弱の彼は35歳で夭折した。
おはようございます。一晩雨が降っていたようです。夜が明けました。いまも降り続いています。でも小雨です。今日は一日こうでしょうね。野良仕事は出来ないようです。家の中でおとなしくしているしかありません。ま、家を出たところでこの「おとなしくしている」のは変わりませんけど。雨が降ったので畑がよろこんだでしょう。からからに乾いていたのだから。秋野菜がこれで元気を涌かすでしょう、きっと。青々となるでしょう。傘を差していって間引きをして来たらどうだろう。朝の味噌汁の菜にしたらおいしそう。どっさり種蒔きをしたから密生してプランターに溢れている。
知らなかったなあ。コオロギだけでもこんなにさまざまだった。調べてみたらこんなにも。
エンマコオロギ・タイワンエンマコオロギ・エゾエンマコオロギ・フタホシエンマコオロギ・ウメタテコオロギ・ツズレサセコオロギ・ナツノツヅレサゼ・コダカコオロギ・コチナガコオロギ・タンボコオロギ・クマコオロギ・ヒメコオロギ・カマドコオロギ・ミツカドコオロギ・オオオカメコオロギ・ハラオカメコオロギ・モリオカメコオロギ・タンボオカメコオロギ・クロツヤコオロギ
それぞれがそれぞれの鳴き声を出して鳴いていたとは! でも僕にはその違いは分からないだろう。みんなコロコロコロにしか聞こえてこないだろうなあ。