<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

あたたかい、明るい夕日に包まれます

2014年06月30日 16時56分43秒 | Weblog
この世でのわたしの重大な任務はわたし自身をよろこばせることです。それも最大限に。



つまり、宇宙がわたしにして欲しいと願っていることを実行することです。



そうすることができる条件は全て完了しています。



わたしは任務を遂行します。わたしがよろこびだします。



わたしがよろこんでいるのはすぐに分かります。目がかがやいているからです。



空が応援をしてきます。山が同調をしてきます。木々が祝意を表してきます。



わたしがよろこびの量を増やせば増やすほど宇宙を満足させます。そしてその満足を形に表してきます。



わたしはそれに包まれます。あたたかい、明るい夕日に包まれます。
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どきどきすらもしていない

2014年06月30日 11時44分18秒 | Weblog
顎にほんの少しだけ山羊髭が伸びている。指先で触るとこれが分かる。ああ、生きているのだなと三郎は思う。こんな平べったい暮らしをしていることに、どんな意味があるのだろう? 死ぬのが恐いのなら、生きている時間をもっと有効活用しておくべきはずなのに、それをそうしていない。まだいいや、そのうちそのうちと言うだけで、無駄遣いしている。死ぬときまで「そのうちそのうち」とほざいでいるのだろう。ともかく三郎は充実した暮らしをしていない。小人閑居して不善を為す。三郎の不善とは、積極的に善事をなしていないことだ。悪事をするときにはどきどきするものだが、そのどきどきすらもしていない。見守ってもらっている諸天善神に、これじゃ、顔向けができない。
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毒にも薬にもならない暮らし

2014年06月30日 10時26分42秒 | Weblog
曇り日。いつ雨が降り出してくるのかな。三郎は、留守番をしている。

百日草が、あちこちから芽吹いてきて、それがどんどん成長をして、花を着けだした。

まだ朝の10時をちょっと過ぎた頃合いなのにもう眠くなって来てうつらうつらしだした。怠け者だ、三郎は。



しなければならない仕事があるが、やろうとするファイトが湧いてきていない。それで明日やろう、明日にしようと言ってずるずるに延びている。が、それももう言い加減にしなければならない。



三郎は絵美さんのことを思っている。非実在だから、どんなふうにも思える。美しくイメージをする。



三郎がことのほか我が儘者だから、絵美さんは従順にしてある。腹も立てない。ぷんぷんもしない。抗わない。食事に連れて行くが、食事代はいらない。彼女は空気だから、食べられないからだ。こちらのおしゃべりを、ただにこにこと聞いていてくれる。重宝する。



ああ、もう居眠りをしていた。うつらうつらして船を漕いでいた。椅子に座った格好のまま。空気の絵美さんが隣に来てこれを見守っていてくれた。網戸にしているとそこから冷気が流れ込んできて、寒い。それで目が覚めたのかもしれない。いや、違う。カラスがベランダのスレート葺きの屋根をコトカタコトカタ歩いて来て、その足音の高さで目が覚めたのだ。



カラスは畑の農作物を狙ってやってくる。被害甚大だ。トマト、茄子、胡瓜、南瓜、瓜、ズッキーニ・・・なんでも狙う。それも実がまだ若い内に。そして食い散らして飛び去っていく。西瓜は植えていないから、西瓜畑の大集団ほどではない。カラス撃退の手段を講じていないわけではない。赤白のテープを張ったり、空になったペットボトルを逆さまにして棒の上に挿してある。



気が滅入ってきた。気晴らしに外に出よう。ドライブをしばらくしよう。何処へ? その行く先の何処が見付からないから困ってしまう。友人宅へは行かない。迷惑をかけるのが嫌だから行かない。せいぜいがお昼のうどん屋さんくらいだ。



三郎はこんな他愛もない暮らしをしている。毒にも薬にもならない暮らしだ。
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ヨシキリが三度も四度も鳴きました

2014年06月30日 08時03分15秒 | Weblog
宇宙中が安心をしている最中に
病気をしている三郎が
ひとりあわてふためいています
おろおろしています
じたばたして駈け出しました

川土手まできてふうふう荒い息をしています

それでも宇宙中はやっぱり安心をしています

たんぽぽが三郎を見てぽんと花の音をさせました
黄色い可愛い花を咲かせました
ヨシキリが三郎のところへ飛んできて
ぴいぴいぴいと三度も四度も鳴きました
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宇宙中が安心をしているきりである

2014年06月30日 07時23分41秒 | Weblog
ぶっだんさらなんがっちゃーみー

だんまんさらなんがっちゃーみー

さんがんさらなんがっちゃーみー

わたしは仏に帰依します

わたしは法に帰依します

わたしは仏と法に帰依する人たち=僧に帰依します



帰依することを南無と言う。

南無仏
南無法
南無僧



信じて順(したが)う。順じて、疑いがない。安心ができている。身心が整っている。



法として、安心を与えられている。これにまかせる。



わたしをわたしにしている力、これが法である。

わたしに安心を与えている大元、これが法である。

わたしのために宇宙を造形せしめている力、これが法である。



帰依するしかないではないか。南無するしかないではないか。

それを仏がわたしに説いて聞かせている。

仏に成ってこのわたしのところへ歩いてこられて、わたしを安んじられている。



南無法とは、したがって、南無私でもある。

法に安んじられているわたしである。仏に安んじられているわたしである。

それだけのわたしだから、南無していていいのである。

わたしに力があると威張ったり、わたしに力がないとしょげこんだりしなくていいのである。

じたばたしなくともいいのである。おろおろしなくともいいのである。



朝の日が、法としてわたしに降り注いでくる。

あやまたずに、わたしにも降り注いでいる。これを受ける。これに照らされる。

だから「南無朝の日」である。

よろこびが手を合わせて来る。



南無しているのは山
南無しているのは川
南無しているのは空

山が安らいでいる
川が安らいでいる
空が安らいでいる

山は南無をしていることができる
川は南無をしていることができる
空は南無をしていることができる

南無したからよろこびの息ができるのか
よろこびの息をしているから南無しているのか
ひたすら信じて
ひたすら順じて
安心をしているきりである

宇宙中が安心をしているきりである
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花は植物の性器である

2014年06月30日 07時11分18秒 | Weblog
花は植物の性器である。ここで生殖をする。生殖は美しいのだ。

いのちを引き継いでいくというのは美しいことなのだ。植物は、だから、これを前面に出して憚らない。

人間はこれを悪用しようと謀ったが為に隠してしまったのだ。悪取引の具にまで貶(おとし)めてしまう。植物はこれをしない。

桔梗の白い花の花房に花虻が来てとまっている。朝日がさんさんと降っている。
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性電流が流れると人は健康を回復する

2014年06月30日 06時09分20秒 | Weblog
おはよう。そういうと、おはようが返ってくる。これで二人の間に電流が流れた。電流は、モーターを回す。いのちのモーターが回り始めると、人は健康になれる。タッチしても、電流は流れる。抱き合っても、流れる。

流れると、滞りがなくなる。滞りがなくなると、病気は消える。そういうことがあるんじゃないかと三郎はこの日の朝になって、ふっと思った。

人間と人間との間に流れる電流、性の力動は、なによりもなによりも強い。種族保存のエネルギーだから強い。このエネルギー活動を眠らしたままにしておくテはない。

愛していると美しくなる。これも健康が戻ったということの証左である。性は活力である。電流である。卑しむべきではない。

だが、これをそのままで露骨に使用するといろいろなトラブルを引き起こしてしまう。これは回避すべきである。そこでそれを芸術として用いるのである。宗教へ昇華するのである。音楽やスポーツとして代用するのである。政治として、経済としてそこに充当をするのである。

しかし、その根源の力は、いのちの始動のモーター回転、性の力動である。性は人間海底から噴き上がってくるマグマである。熱い熱いマグマはすべてエネルギーである。人はこの熱い熱いマグマをいのちの深奥に秘めている。このマグマの堪(たま)りを活用すべきである。

おはよう。これで病気は治る。とすれば、これは魔法の力だ。おはようはことばの愛の電力である。これで力が噴き上がるのだ。これで熱いマグマが動き出すのだ。健康を回復できるのだ。滞りがなくなると、いのちの隅々にまで血液が流れ出すのだ。人間と人間との間に愛が流れ出すのだ。愛は人を健康にする。

(三郎は、この元気回復法、健康維持法、モーターフル回転の魔法を説明しているつもりだが、成功していない。人間の深奥の海底に熱い熱い元気マグマ、健康マグマが噴き上がっていること、これをもっともっと表に出して、油田掘削して、活用すべきであるということを言おうとしているのだが、伝わってはいないだろう。人間には魔法の力が付与されて常備されている。これを活用すればいのちを常に健康にしておくことができる。これは一人一人がもっと信じていいことなのである)
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そこを抜け出せるときが必ず来ます

2014年06月29日 20時15分28秒 | Weblog
そこを抜け出せるときが必ず来ます。金輪際来ないように思って不安になりますが、そこを抜け出せるときが必ず来ます。抜け出してしまうまでは安心ができないかもしれませんが、抜け出せます。そこは経過地点ですから、次へ行けます。そこを経過しておかないと、次へ歩を進めたということが分からないのです。ぼんやりになってしまうのです。それもこれもわたしを嬉しがらせるためにだった、ということが後になって分かります。ずっと後になって分かります。わたし三郎はそういうことを何度か体験しました。体験できたので、人にもこれを伝えることができます。かならず救いが入ります。助けが入ります。救いや助けが外から加わることがありますが、自助ということもあります。わたしがわたしを助けた、わたしがわたしを救ったように見て取れることもあります。いい方向へ向かいます。最後はいい方向へ向かいます。それまでは曲がりくねった道が用意されていることもあります。難渋して涙をこぼすこともあります。どうしていいか途方に暮れることもあります。しかしそれはそのひとがそれを体験しておく方がいいことだからです。背負いきれる荷物だから、背負っているのです。すべては次へ進むためのステップです。そこを通って行ったからこそ、そこへぽっかりと明るい初日の出が見えてくるのです。
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それがそうなるときにはそれに従う

2014年06月28日 09時53分16秒 | Weblog
それをそうせしめている力。わたしをわたしせしめている力。わたしにわたしが生きる世界をあらしめた力。宇宙全体を総動員してわたしにそれを思わせている力。



ここには物理的エネルギーともう一つ、非物理的エネルギーというものが働いているはずだ。



病むときには病むが宜しく候。
死ぬときには死ぬが宜しく候。

これは良寛禅師のことば。



それがそうなるときにはそれに従う。そうしていいときがきているからその時に従う。そうしていい条件がすべて整えられたのだからこれに従う。



これに従わないものはここには存在していない。小鳥が山里に来て鳴いている。向日葵が風に揺れている。大空がわたしの前に来て無際限に広がって、それを見せている。
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非物質化したわたしが見ている夏空

2014年06月28日 09時15分26秒 | Weblog
物質世界に生きていたからものが見えたのだ。物質には形がある。それでそれを見ることができる。見ているのは目である。これも物質である。物質で構成されている。

目はしかし、見たものを超えたものをも見ていることがある。物質で構成されている目でありながら、そこに潜むものをすら見ているときがある。その力もまた物質といっていいのか。

それをそうせしめている力というものをこの頃とくに意識しているようになった。ものごとの前面に出て形を作っているもの=物質を、そうせしめている力があるはずだ。

物質としてそれをわたしのまえに置いている力、それがあったはずだ。その力には意図がある、意思がある。こころがある。そういうふうに思えて来る。そうでなければわたしの目ごときがそれを見ることなどできなかったはずだ。

わたしの目にそれを見させている力。わたしの背後の力。わたしを超えている力。わたしを動かそう動かそうとしている大きな力。それを動かしているさらに大きな、大きな大きな力。それがわたしのところへ届いているので、わたしの目がそれをそう見ているのだ。その奥のものをも見ようとしているのだ。



わたしがものを見ることができるのは、わたしに物質の目がある間である。



ほんとうにそうか。ほんとうにそうか。



わたしに物質の目がなくなったときには、わたしは青空を見ないのか。見ないでいられるのか。



夏空が海の上に広がっているのを、わたしは見ないのか。広がっているのに、わたしはそれを見ることができないのか。



広がっていないのであれば、もはや見ることもないであろうが、空が青々として海の上に広がっているのに、それを見ないでいられるのか。



夏空が大海(おおうみ)の上に広がっているのは、それをそうせしめている力があるからだ、その力が、わたしを切断することがあるだろうか。わたしを不平等にすることがあるだろうか。ありえない。ありえないとわたしは思う。



わたしは形の目を失ったとしても見るのである。わたしが見なければそれをそうせしめている大きな力が否定されてしまうのだ。



わたしが非物質化したくらいで、大きな大きな力が消失するとはとても思えない。思えない。



物質に頼る以外の手段があるはずだ。物質に依存していた以外の方法があるはずだ。厖大な手段を持ち合わせている宇宙生命にはまだどれだけでもそれに代わる方法、手段があるはずだ。



では、どうやってそれを見るのか、それはいまのわたしにはわからない。わからないが、わたしは、非物質化しても、そこにいて、青々として広がる大海原と夏の空を見ているはずである。そしてやはり、今と同じようににっこりしているはずである。とろとろと飴のように蕩けているはずである。



そしてますます、それをそうせしめている力、わたしをそうせしめている大きな力、物質を物質化せしめた大きな大きなパワーの実在を信じるようになっているはずである。
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