<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

それは邪推だった そんなルールはなかった

2017年12月03日 22時50分24秒 | Weblog

満月の白さ静けさは更け行く夜の時の寒さに比例すると思っていたが、邪推だった。そんなルールはなかった。第一回トイレ神社参拝を済ませた後、蒲団から電気アンカを引きずり出した。手助けなしですませそうだと分かった。満月の白さ静けさは派生する従者、共鳴者を持たなかったのである。

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月が満月の光を放っている 

2017年12月03日 20時16分59秒 | Weblog

月が満月の光りを放っている。引き絞って引き絞って放たれた弓矢のような、月光が地上に届く。我が足元に届く。いったいどれだけの天空の善意によるものだろう。それを思うと、危うく、直立不動の姿勢を取って気をつけ、礼をしたくなる、深々と。礼から元に戻る。ようこそようこそ、これだけの明るさをわたしたちに振りまいて下さいましたと礼を言いたくなる。隅々まで煌々と明るい。

真っ暗闇の夜では地上に過ごす人間どもが寂しかろうという配慮。配慮が実現している、目の前で。厳かな月が、厳かな素振りをも見せず、平常心を保って淡々と照っている。

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僕に今できるのはこれくらいなこと

2017年12月03日 14時47分29秒 | Weblog

さ、これからまた畑に出よう。草取りをしよう。僕に今できるのはこれくらいなこと。これくらいのこれでいい。十分だ。

もっと人に威張れるようなこともしてみたくはあるけれど、それは願望のみ。実現は不可能。

威張り屋はもう今生はお終い。威張り屋の鍵を掛けておこう。(しかし、鍵穴を知っていたら駄目になるかなあ。無理かなあ)

「お前、この世に生まれて何をした?」そう問われたら「へえ、畑の草取りをしました」では答にならないかも知れないなあ。困ったなあ。

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どこがどう違うんだろうかなあ

2017年12月03日 14時36分28秒 | Weblog

友人が午前中にやってきた。小型トラックに乗って来て、ジャガ芋を袋一杯届けてくれた。堀ったばかりのでかい芋だった。彼はうまいなあ。僕が芋を植えてもこうはいかない。小さいのしか収獲できない。どこがどう違うんだろうなあ。やっぱり植物に対する愛情なのかなあ。尊敬するなあ。日当たりのいい客間に上がってお茶を飲んでセンベエを囓ってお喋りして、じゃあと言って帰って行った。彼は健康ないい顔をしてたなあ。

 

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わたしもその時鷲霊山の説法の座に居た一人だ

2017年12月03日 14時04分08秒 | Weblog

霊山(りょうぜん)の釈迦のみ前に契りてしことな忘れそ世は隔つとも     良寛禅師

霊山の釈迦のみ前に契りてしことは忘れじ世は隔つとも    貞心尼

島崎の庵に貞心尼が良寛禅師を訪ねてきた。ふたりは仏法の話を語り合った。そして日が暮れて貞心尼が帰ることになった。帰りしなに良寬様がお歌を作って差し上げられた。すると即時に彼女も歌を返した。「はい、そういたします」という誓いの歌だった。

霊山はインドの鷲霊山(りょうじゅせん)のことである。山頂に鷲の羽の形をした大きな岩がある。ここで釈迦は集まって来た弟子たちに法華経を説かれた。他の仏国土の如来や菩薩衆も飛来してきた。天部の神々も降りて来た。獣も鳥も龍も蛇も、みな聴き逃すまじとしてぐるりと周りを埋めて、説法に耳を傾けた。

仏教を信じる者は、たとい幾世代幾星霜を経ても、己は嘗てはその場に居合わせていた者たちである、それだけの深い因縁で結ばれた者である。そういう設定を後世の人たちもみな好んだ。この日も、良寬様は貞心尼にそういう話をされたのではないだろうか。

釈迦の前で何を契ったか。約束したか。もちろん教えを信じるということ、仏陀の弟子となること、教えを日々の生活の中で実行に移すということ、これを多くの人に弘めるということ、また仏陀と仏国土で再会することである。歌の中の「忘れそ」(忘れてはならない)の目的語は、釈迦との約束事である。同じ心でいることを二人はもう一度確認し合ったのである。

さぶろうもこれは肯ける事である。さぶろうもたしかに霊山での仏陀の説法を間近に居て聞いていた一人であった。それを信じている。その深い因縁があったので、今現在も、よちよち歩きではあるけれども、仏陀を仰いで仏道を歩もうとしているのである。

映画の中のワンシーンのようではないか。仏法を語り合った良寛禅師と貞心尼のこころはいまし全く同一の円になっているようだ。

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昼間のベランダは冬日が射してあたたかいなあ

2017年12月03日 13時49分58秒 | Weblog

昼間はあたたかいなあ。スレート葺きのベランダには日が溢れている。そこへ出ていると一枚亦一枚と着ているものを脱ぐことになる。北の畑のチンゲンサイとターサイを間引きして来て、これを丹念に揃えた。ベビーリーフがどっさりある。

(こんなにどっさり、どうしよう。人様にお分けするほど上等ではない。でも捨てるのは忍びない)

時間がたっぷり掛かった。それを水洗いする。外の水道の水洗い場で、水を替えてまた水を替えて泥を落とす。そしてそれを平たい籠に列べて、ベランダに干す。そういう作業をした。ほかほかになった。

お昼になった。今日は釜揚げうどんだった。丼椀の底に鰹節と小葱を堆く積んで、そこへ噴き上がったうどんを注ぎ、醤油で食べた。つるつるつる呑み込んで簡単に済んだ。

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韮を一列摘んで 忍耐強く揃えました

2017年12月03日 13時36分19秒 | Weblog

裏の畑に育てている韮を、一列ぞっくり摘みました。摘んだ後の細かい作業が面倒なので、なかなか摘みません。でも今日は時間を掛けて忍耐強く作業しました。風のないベランダの暖かいところで。いまが食べ頃なのかどうか分かっていません。固くて食べられないかもしれません。一度ざっくり根株の上で切り揃えてそれから新しく芽立ったのが、やわらかくて適しているのかもしれません。韮は嫌いではありません。塩胡椒を振り掛けて高温でじゃんと炒めて食べるとおいしいです。簡単料理ですよね。ずっとずっと昔、高校生の頃に、台湾の方から作ってもらった韮スープの味が忘れられません。おいしかったことおいしかったこと! その後何度か挑戦してみるのですが、あの醍醐の味になりません。

 

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詩 「冬日」

2017年12月03日 13時05分33秒 | Weblog

「冬日」              山鳩暮風

あなたがわたしを
かがやかしてかかるので
わたしは
かがやかされているばかり

わたしはあなたを少しも
かがやかそうとしないのに
あなたの方が一方的に
わたしをかがやかして来る

冬雲の間からこぼれた光が
畑のわたしに
あたたかく届きました
きらきらと煌めくあなたは
わたしが何処に居ても
静かにそこへ来ています

わたしはあなたを少しも
かがやかす力を持たぬのに
あなたの方がいつも一方的
わたしはいつも
かがやかされているばかり

***

「あなた」はここでは冬の日です。畑にいるわたしに届いた冬日の光です。いつもこうしてわたしをかがやかします。そしてふっと、「ああ、そうだったなあ、輝かされているばかりだったなあ、かがやかしたことは一度もなかったなあ」ということに思い当たります。 大きな大きなまわりの力のただ中にいる自分が、なんだか不可思議な生き物に見えてきます。

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畑のフカネギを初収獲してみた

2017年12月03日 09時38分10秒 | Weblog

畑のフカネギを初収獲してみた。わずかばかり。上出来とは言えない。どうしたことか。成長が遅れている。太っていない。施肥が足りなかったのかも知れぬ。生産するのはなんでも難しい。

今朝、味噌汁の中にそのフカネギを加えてもらった。白い根の部分を細く切って。あらかじめやわらかくした丸餅といっしょに。味は上出来だった。摘まんできた春菊も薫った。

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秋の月 すずしかりけり

2017年12月03日 07時30分23秒 | Weblog

春は花夏ほととぎす秋は月 冬雪さえてすずしかりけり       道元禅師

この歌は「本来の面目」と題されている。

☆☆☆

昨夜の月が明るかった。一晩、寝間の障子戸が外の光を浴びていた。それでこの歌をふっと思った。思ったら、そこから離れられなくなった。途中何度か目覚めたが、目覚める度に此の歌が起き上がって来た。

春の花はやはり桜だろうか。と限定しなくともいいかもしれぬ。百花繚乱する春である。万物の華やかな春である。するとすぐに日の照りつける夏が来る。ほととぎすが渡って来て昼も夜も鳴き交わす。それも束の間。秋が忍び寄る。そして月が高くなる。冴え冴えとなる。そして最後の時が音もなく来る。清浄の雪が降りしきって大地を蔽う。春夏秋冬、いずれもいずれもこころ涼しく、面目躍如して巡って行く。そして次へ次へと季節を受け継いでいく。

春は花の開花を見て悟り、夏はホトトギスの躍動を聞いて悟り、秋は月の光明に照らされて悟り、冬は雪の静寂に埋まって悟る。工夫なし。

この通り、すべてのことは仏陀の法のあらしめられるままではないか。強いて飾ることも抗うことも衒うこともあるまい。我が暮らしの暮らし態をも法として生きて、泰然自若す。ものみな自(おのず)からしかあらしめられる。吹く涼風の、無執着の涼しさの中。

漠然とそんなことこんなことを思いながら一夜を明かした。そしてまた河合寛次郎翁の「饗応無尽」を思い起こした。ここに生を受けて自然のもてなし(=饗応)を受けること尽きず。仏陀の慈悲のもてなしを受けること尽きず。

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