<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

元旦になりました 明けましておめでとうございます

2018年12月31日 23時54分08秒 | Weblog

同入円寂 平等大智 どうにゅう えんじゃく びょうどう だいち

同じく円寂の平等大智に入る

「円」は「完全な」の義。「寂」は「寂静」の義。大円鐘智の涅槃寂静。仏陀の智慧のハタラクところ。ここへみな同じく平等に進んで行く。

明けましておめでとうございます。元旦になりました。平等大智の元旦に入って来られました。わたしめも同様に大きな顔をして、平等の楽しみを楽しめます。寂静おのずから。円寂おのずから。

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正月の方から歩いて来てくれるから楽だよね

2018年12月31日 23時38分31秒 | Weblog

正月の方から歩いて来てくれるから楽だよね。こちらの方から歩いて行かねばならぬとしたら、さぞさぞ疲れることだろう。怠け者だから、この老爺はいつまで経っても届くまい。ああ、よかったよかった。あと、15分したら、お正月。寝ていて元旦。

真正寺の鐘はまだ響いて来ない。もうすぐだろう。あ、鳴り出した。聞こえて来た。

仏陀もこうだ。仏陀の方から歩いて来て下さる。有り難いことよ。老爺は煩悩のままでいい。有り難いことよ。

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NHK紅白歌合戦は見ない こういう老爺もいるのである

2018年12月31日 21時21分00秒 | Weblog

大晦日の夜のNHK紅白歌合戦は見ない。何十年間もついぞ見たことがない。まるで興味がない。こういう老爺もいるのである。変わり者なのかもしれない。みんなで、ぎゃぁぎゃぁ浮かれて騒ぐのが嫌いなのである。日本中がそうしているかと思うと、意地でもそうはしたくないのである。家族はテレビに釘付けにされている。老爺は別室に移って過ごす。九時を過ぎた。もう終わったようだ。

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なっちゃいないんだよなあ

2018年12月31日 19時48分05秒 | Weblog

それじゃ、さぶろう。そんなに過ぎた一年に感謝しているというのなら、もう一切文句のモの字も言わないか。新年は、感謝感謝で通せるか。

ううううん、それがそうじゃないんだよなあ。文句となると別だよなあ。感謝を言いながら、恨みも言う。妬みも言う。悪口も言う。憤慨もする。不平も言う。なっちゃいないんだよなあ。

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お礼を言わなくたって 怒り出すことはないだろうが

2018年12月31日 17時50分41秒 | Weblog

お礼を言いたい。誰かにお礼を言いたい。言わなくたって、その誰かは怒りはしないだろうが、一言はっきりと言っておきたい。あなたのお力でわたしはこの一年を生き切ることが出来ました。感謝をしています、と。返礼なんか要求をしないほどの大きな胸、大きな腹をしているのかもしれない、その誰かは。

 

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遠くから愛情を送信していてくれたのかもしれない

2018年12月31日 17時48分24秒 | Weblog

いやいやそれは周囲の人間かもしれない。家族の者かもしれない。友人知人かもしれない。そういう人が近くに居て支えていてくれたのかもしれない。或いは遠くの人かもしれない。遠くから愛情を送信していてくれたのかもしれない。直接支援とか間接支援とかが入り交じっているのかもしれない。

 

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それをそうと受け取っていなかっただけかもしれない

2018年12月31日 17時46分21秒 | Weblog

その誰かは、もしかしたら、この目に見えているものなのかもしれない。鳥だとか魚だとか、青空だとか雲だとか風だとか、山だとか海だとか、木だとか草だとか石ころだとか。月だとか太陽だとか星々だとか。そういうふうに目に見えているものかもしれない。見えていたのに、それをそうと受け取っていなかっただけかもしれない。

 

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形はないが こころがあるのかもしれない

2018年12月31日 17時41分20秒 | Weblog

その誰かは見えていない。見えていないのは、形がないからだろう。形はないが、こころがあるのかもしれない。そのこころが活動をしているのかもしれない。まるで形があるかのようにして、活動をしてくれたのかもしれない。その活動の気配だけは効いていたかも知れない。

 

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危ないところになっても 誰かが守ってくれたのである

2018年12月31日 17時38分17秒 | Weblog

誰かがかばい立てをしてくれたのである。弁護に努めてくれたのである。助けたのである。誰かが手を引いてくれたのである。何度も何度も、誰かが力をくれたのである。危ないところになっても、誰かが必死で守ってくれたのである。それが誰だかは分からない。

 

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否定されてもいいところを 肯定されて来たのである

2018年12月31日 17時35分12秒 | Weblog

この老爺は生きた。この一年を生きた。今日は大晦日。大晦日を老爺は生きている。それをつくづく有り難いことに思う。生きられなかったかもしれないのに、生きて来られたのである。生きるに値しないと否定されてもいいところを、肯定されてきたのである。

 

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