<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

それだとやっぱり年寄り臭いかなあ

2017年05月31日 03時50分58秒 | Weblog

会いたいという人がいる人はいいなあ。会いたい人をこころに思い浮かべてこころが潤って、しっとりして若々しくしていられるよなあ。生きている間、人間は人間を愛している方がいいよなあ。愛さないでいると体内冷却装置が働いて冷たい人間になってしまいそうだなあ。傍にいるだけでひんやりするような人間にはなりたくないなあ。だったら? だったら会いたい人を作ればいいじゃないか。いやいや、わざわざ作らなくともいい。それは面倒だ。相手のいることは面倒だ。思い浮かべるだけでもいいのじゃないか。それが簡単簡潔でいいなあ。それではたしてるんるんになれるかどうか。フィクションもどきで、こころがしっとり潤って来るかどうか。やっぱり現実に気の合う人がいたらいいなあ。珈琲を飲みながら昨日のこと今日のこと明日のことを気軽にお喋りして寄る年波を慰めていられたらいいだろうなあ。でも次も次もとなるとそれは困るなあ。それで拘束されるのは嫌だなあ。自由時間がしめつけられることになるのは嫌だなあ。結論。一人でいる方がずっと気軽で気楽。そういうことになるなあ。一人でいてもこころが潤う方法。日長聴くだけのクラシック音楽を聴いていればすむことだよなあ。うとうと居眠りをしながら。それだとやっぱり年寄り臭いかなあ。

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長生きも何かと手が掛かるなあ

2017年05月31日 03時36分15秒 | Weblog

昨日の昼間、いとこたちが二人やって来た。さぶろうより一つ年下と二つ年上の二人。老爺が二人の老婆に向かい合ってお喋りした。まるまる二時間も。久し振りに会ったので話題には事欠かなかった。千鳥饅頭をお土産に持参してくれたので、みんなでぱくついた。一つ年下は朝の4時半に起き出して5時半から散歩仲間たちと朝の散歩に出るらしい。日課にしているらしい。そろそろ起き出す頃かなあ。もうすぐ4時になるぞ。健康維持のためらしいが、ご苦労なことだなあ。二つ年上はサイクリングを欠かさないらしい。さぶろうは朝夕草毟り。これで健康維持を図る。長生きも手が掛かるなあ。

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拘束されるのはなんでも嫌いだなあ

2017年05月31日 03時08分45秒 | Weblog

長者の万燈 貧者の一燈

貧者の一燈は長者の万燈に値する。

よし、是で行こう。

というものの、その一燈があるか、さぶろうに?

ここで行き止まり。

引き返そう。

この句は「高野山山開き」の経文中にあるから、この一燈は信心信仰の燈のことなのかな?

貧しいながらも誠を尽くすということなのかな?

これも難しいなあ。引き返すか。

この世には長者がごまんといる。ごまんがそれぞれ万燈を照らしたら、この世はきっと明るいだろうなあ。

人に頼るな! すぐこれだ!

自分の歩く道くらい自分で照らせ!

それもそうだなあ。

しっかりしろ、さぶろう貧者!

貧者でいるのも厄介だなあ。ああしろこうしろと唆されるわい。貧者でいるだけとはいかないのだなあ。

長者は万燈を点さねばならない。貧者は貧者なりに一燈を点さねばならない。いやいや、何かと拘束されるなあ。拘束されるのは、なんでも嫌いだなあ。

貧者の一燈は、今の段階の我が儘さぶろうには無理だということがわかった。

やれやれ。

高野山山開きには行けないなあ。

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こんな自由が手に入るとは計算してなかったなあ

2017年05月31日 02時46分05秒 | Weblog

二時間掛けて真夜中深夜便のブログを書いてみた。そろそろ3時。朝方までにはまだ一時ある。目を瞑ればもう一度眠れるだろう。

明日は何をしようかなあ。友達からカボチャ苗と冬瓜苗を戴いていた。二つとも蔓が這う。広い場所がいる。広い場所をまず草取りしなくてはならないぞ。

昨日は真夏日なみの暑さだった。あの日照りでは長くは外にいられない。草取りはお預けだ。そうすると、放置されたままのカボチャ苗と冬瓜苗が揃って泣き出すだろう。泣き止むようにあやさねばならない。どうしたらいいだろう。

そんなことあんなことを考えながらうつろうつろ。老爺がするのはこれくらい。何かをしてもいいし、しなくてもいい。一日何にもしなくてだらだらしていてもいい。長々生きて来て、お終い付近で、こんな自由が手に入るとは計算してなかったなあ。

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その背後に仏を見ている人たちがおられる

2017年05月31日 02時15分27秒 | Weblog

その背後に仏を見ている人たちがおられるだろう。月下美人のクジャクサボテンを咲かしめた力をそこに感じ取って惜しみない賞賛を口にする人がいるはずである。見えないもの、見えないハタラキ、見えない慈悲の顕現をそこにたしかに見たという感覚。これを与えられることがある。そういうときは素直に嬉しい。

われわれは見ているのである。見えてもいるのである。見えないで一生を過ごしてしまうこともあるが、見て過ごす人たちもいるはずである。暗い世界ではなく、そこに明るい世界を見て取って明るくなれる人たちもいるはずである。明るさに輝かされている人たちを目の当たりにすることがある。それも嬉しい。

明るさには大小があるだろう。明度1から、2、3、4、5、6.....と進む。そうすると見えているものが違ってくる。そういうこともあるだろう。この明度がもしも限りなく続いているとすれば? わたしたちはこれからいろんなものを見て行くことになるだろう。

見えてなかったものが見えてくるということにもなるだろう。同じものがまったく新しく見えてきて驚かされるという事態をも迎えるだろう。でも、急ぐ必要はない。その段階で見えているものをみていて、十分の感動をも与えられて行くのである。暗いところでも見えているものはある。たしかにあるからである。

人様のブログを覗いたらクジャクサボテンの開花が写真にしてあった。見事だった。そうか、いまはそういう季節なんだ。美しいクジャクサボテンが見える季節なんだ。葉っぱを土に挿して育てられたのかあ。これにも感心した。僕にはできないなあ。

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われわれは真如界が見えないが方法はある

2017年05月31日 01時01分41秒 | Weblog

見えているはずのないものでありながら、それをそこに見据えて、見えているものにする。無相の相。法身仏である毘盧遮那仏は無相の相の仏である。したがってこの仏が説かれる教えは無相の教えである。われわれには見えているはずのない真如界を、見えるごとくに見させようとするのだから、仏さまは秘密秘術を尽くされる。なにしろ、仏さまは仏さまの言葉を話しておられるのであるから、仏ではない者には聞こえて来るはずがない。そこに翻訳機能が付いていなければ、チンプンカンプンである。蜜言密語でしかない。まして真如界の仏たちのその慈悲と智恵の具体化は、われわれの有限の目には捕縛不可能である。やはりそこの中間には仲介役が必要となる。彼は仲介をするのだが、人間界の言葉にするところで、はたと迷うのである。悟りを開かれた釈迦牟尼仏のご苦労が始まった。類似しているもの、共通しているものがなければ、それを示しても理解不能なのである。真如界は人間界とは隔絶されているので、類似が見当たらないのである。共通している点が見いだせないのである。しかしそれでは説法は成立しない。真如界の法は説けないことになる。仏陀は敢えてそこに類似と共通点を模造しなければならなくなった。これは詐欺に当たる。模造、偽物、贋作、マガイモノを以て、本物を透視させる方法なのだから、いかさま師に近い。お釈迦様はいかさま師であってはならない。しかしそれを提示しなければ人間はそれを信じることは出来ないのである。真如界はますます遠くなるばかりである。迷える衆生を救い出したいのだが、いよいよ深く迷わせてしまうことにもなりかねない。仏像も仏画も模造である。仏そのものではない。あくまでも手掛かりにすぎない。仏が木や石や鉄であるはずはない。動かずにそこにじっと固まっているはずはない。曼荼羅世界は、あくまでわたしが仏となって曼荼羅世界へ行かねば見えないのである。見るためにはわたしが即身に成仏していなければならなかったのである。そこまでの到達がままならなかった人たち、それを信じるしか方法のない人たち、信心をする側は、いまに本物が見えるという期待が残されている。二流品三流品で満足させられていた者が、今度は一級品を目の当たりに出来るのである。死後の世界にはそれが約束されている。仏の世界に行くことでそれが果たされることになるのである。死を無駄にしてはならない。成仏を実行実現しなければならない。ここへ来たら開眼ができるのである。やっとここで、仏の智恵の目で本物の曼荼羅世界が見えてくるのである。それをなさしめてくれる者が仏陀である。仏陀という超能力者である。安心していていい。いかさま師ではなかったことが分かるのである。歓喜に包まれるのである。曼荼羅世界の光によって輝かされるのである。

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わたしはただにそれを受け取るばかりである

2017年05月30日 20時57分10秒 | Weblog

正等無異 於百千万億劫 不可窮尽  「観世音菩薩普門品第18」の偈文より

しょうとうむい おひゃくせんまんごう ふかぐうじん

正等と無異とは、百千万億劫に於いても、極め尽くすべからず。

観世音菩薩の授け給う利益は、すべての人に対して正しく且つ等しく、異なることなく、たとい百千万億劫の時を費やすとも、極め尽くすことなどはできないのである。

わたしが極め尽くすことが未だし中半であるといへども、観世音菩薩の授け給う利益は止むことがない。わたしが受け取る利益は次々に波のように押し寄せて来る。昨日も受け取り、今日も受け取り、明日も受け取って行く。

すべてわたしの裁量を超えている。すべてわたしの算段を遙かに逸脱している。それでも尚且つ正等であって無異である。百千万億劫に亘って、ただただ一方的である。観世音菩薩からの一方的である。

ワンウェイロードである。仏界の慈悲はワンウェイロードである。わたしはそれをただに受け取るばかりである。

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爽やかな夏風が渡っている

2017年05月30日 09時56分57秒 | Weblog

爽やかな夏風が渡っている。庭先に咲いているポピーが揺れる。紋白蝶が風に乗って舞う。外に出て草取りの作業をしていると汗になるが、家に戻って来てシャワーを浴びた後、下着一枚でいたら涼しい。

散歩をねだって犬が吠えている。山里は静かだ。通りかかる車の音とてない。

僕は、仏説十一面観世音菩薩随願即得陀羅尼経と妙法蓮華経の観世音菩薩普門品第18の終わりの偈を読経し終わった。音読高唱する。

冷蔵庫に冷やしてあった枇杷の実を2個食べる。糖度12度の表示がある。汁が滴り落ちる。

さあこれから何をしよう。日照りのきつい日中は農作業は控える。お昼寝にはまだ早い。でも、うとうとうとうとし始めて来た。山里の老爺はのんびりした暮らしだ。

 

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わたしもこの座に着く ああ嬉しい

2017年05月30日 04時36分40秒 | Weblog

本尊界会増法楽 大楽金剛不空 真実三摩耶経 

ほんぞんかいえぞうほうらく たいらきんこうふくう しんじつさんまやけい

真言宗「般若理趣経」前段より

この段をいつものごとく当て推量を試みていく。修行を積んだことのないド素人のさぶろうの、さぶろう流の浅はかな自己解釈である。読者のみなさんはみなさんで究明をなさいますように。

本尊大日如来の曼荼羅世界は様々な多くの仏たちで満ち満ちている。曼荼羅世界の法、エネルギーが興隆している。そこではその楽しみがいよいよ増し加わっている。この法楽は仏たちの大楽である。よって金剛不空である。いよいよ増し加わる大法楽を思い見るのは修行者にとって大きな楽しみである。想い見るだけには留まらない。そこへ至る道がある。道は理趣である。この真実の仏の悟り、仏の智恵と慈悲の実践道にこれから集中して取り組むことになる。では始めよう。

仏たちの説法が始まる。集中講義だ。しかも理論だけに終わらず実践実行まで続いている。わくわくするではないか。わたしもこの座に着く。本尊界会の座に着くことになる。本尊界会は増法楽の世界である。金剛不空である。三摩耶して取り組む喜びに浸る。即身成仏実践講座の始まり始まりぃぃぃぃ。

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わたしを目的地に送り届けた肉体という船の任務は終了する

2017年05月30日 03時31分05秒 | Weblog

そこが船の向かっていく目的地である。そこで乗客のわたしは下船する。

そこからは自力で歩ける。もしくは条件に合致した別の小さな乗り物が用意されることもある。いわゆるお迎えのリムジンバスであったりもする。空を飛ぶヘリコプターだったりもする。

わたしが眠っている間も船は進んでいる。まもなく午前4時になろうとしているところで目が覚めた。船のエンジン音が聞こえている。波を砕いて進む音も聞こえる。

わたしが目的地に到着して下船すると、わたしを目的地に送り届けた肉体という船の任務は終了する。みるみる自然解体して元の元素に戻る。お役目を果たしたのだから、船は大満足である。悲しんだりすることはない。成仏する。

わたしの精神は送り届けてくれた肉体という船にふかぶかの低頭をしてお礼を申し述べる。

精神も裸のままというわけにはいかないから、着るものを纏う。それは幽体とも霊体とも呼ばれる。それがオタマジャクシの卵白のようにも見える。丸い球体をしている。

でもここからは仏陀の国である。完成された蜜厳の浄土である。仏陀の力が行き届いた世界なので、あれこれ己の策を講じることはない。いよいよ以て他力の世界である。

わたしは仏陀に抱き取られる。抱き上げられる。ねぎらわれる。クライマックスを迎えて失神する。仏陀の国での朝夕が始まる。仏陀の国の住人としての朝夕が始まる。

仏陀の国の住人は互いに菩薩と呼ばれる。つまり菩薩としての任務について活動に従事するのである。しばらくはオリエンテーションで訓練を受ける。

とまあ、こんなことをさっきから推量していた。推量を楽しんでみた。当て推量である。

命は命の旅をしている。刻一刻変化して止まない。変化向上してストップがない。だから勢い、行く先々の楽しみを楽しんで行くのである。恐れずに楽しんで行くのがいい。

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