いのちのバトンをわたしに繋ぐために、
いったいどれだけの人がいて、
その時その時で暮らしを立てねばならなかったのか、
その膨大な数のいのちの営みのことを
今日はどうしたことか一日ずっと思い巡らしていた。
わたしにバトンを繋ぐために、
という明確な意図を
上流のすべてのいのちの生き物たちが
抱いていたわけでは、もちろんあるまい。
が、結果的にはそうなるのだ。
たった一人が途中で列を外れてしまっていたら
いまのわたしには繋がらなかったのだ。
すべての人が一度も棄権をせずに
ただただ「わたしへわたしへ」の合い言葉を唱えながら
男になり女になりして役割を果たしてこられたのだ。
かれらはわたしのいまのいのちへ繋ぐために
いのちの火を燃やし続け
その時その場で営々と暮らしを立てて来たことになる。
ずいぶんご苦労をなさったに違いない。
*
でも
そのわたしは
ではここでどう生きているか?
何十何百億人分かのいのちの集約をかなえているか?
わたしのために
わたしにいのちをつなぐために
ひたすらこの長い道のりを走ってこられた多くのいのちの大群の
その波頭の頂点に位置しているわたしのいのち。
そのわたしのいのちは
それだけの人たちの願いを叶えて生きているか?
祈りを生きているか?
それを思ってしまったのだ。
*
それぞれの先祖たちは
何百年後の子孫のことなど
実際には頭にはなかったにちがいない。
自分一代のいのちを生ききることで
精一杯だったにちがいない。
であれば、わたしだって
それでいいはずである。
めくらめっぽうに
その場その場を生きて
生き凌いでいてもいいはずである。
*
今日は先祖からわたしへの川の流れのことに
思いが至ったけれども、
当然ながら
これから先の
未来の
数限りない子孫のことも
同じように
滔々たる川となって流れていくはずである。
*
最後に
わたしたちは
共同意識体であるという説に
賛同をしておきたいと思うのだ。
直接こどもをつくらなくたって
子孫は繋がっていくのだ。
その時その時の社会というものが
共同参画をして
次世代のこどもたちを養ってきたからである。