風がない。9月最後の日が、ぴたりと止まったままだ。光が揺れていない。影もじっとして動けないでいる。生きているから、動きたいだろうに。
酔芙蓉の花がやたらたくさん咲いている。今朝咲いたのは白い色。昨日咲いたのは赤い色。混じっている。風が来て誘わないので、ふくれっ面をしている。
若い客人がお出でになって泊まっている。月見会をした。団子を月に供えした。朝8時を過ぎた。朝ご飯をいっしょに食べた。家内が客人と散歩に出かけた。集落の自慢の向日葵園まで。
風がない。9月最後の日が、ぴたりと止まったままだ。光が揺れていない。影もじっとして動けないでいる。生きているから、動きたいだろうに。
酔芙蓉の花がやたらたくさん咲いている。今朝咲いたのは白い色。昨日咲いたのは赤い色。混じっている。風が来て誘わないので、ふくれっ面をしている。
若い客人がお出でになって泊まっている。月見会をした。団子を月に供えした。朝8時を過ぎた。朝ご飯をいっしょに食べた。家内が客人と散歩に出かけた。集落の自慢の向日葵園まで。
9月は今日で終わる。9月を生き延びられた。明日からは10月。空は薄い青空をしている。向こうの向こうまで広がっている。これを秋空っていうのかなあ。一片の浮雲もない。
でっかい冬瓜が、海の木を這い上ったところで、実になってぶら下がっている。バケツくらいの大きさ。引っ張り上げている蔓が、重たいだろうな。そろそろ収穫してあげてもいいなあ。
昨夜は中秋の名月を仰いだ。夕方は大きな森に隠されて見えなかった。夜中に、起きて行って、外へ出て満月を眺めた。もう熱い火の色はしていなかった。冷めて青白く見えた。
いい詩を書こうとしているのですが、書けません。どうしたらいいんでしょう?
もうずっとこうです。溜息溜息です。
「いい詩」だなんて言うから書けないのかもしれません。
いい詩かそうでないかは、第一、書いた人が決めることではありません。
*
9月が終わろうとしています。明日で9月が終わります。9
月いっぱいを目処にしていましたが、書けそうにありません。
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詩は詩の神さまが書くものです。神さまがわたしの肩先に下りて来て下さらないと、ですから、わたしは一行も書けません。ですから、いわば神さま任せなんです。神さまに好かれていないといけないのです。
「天賦の才」は天が与えたもうた才能のこと。与えられないでは発揮のしようがないのです。
これで、いよいよ詩を書くのが至難の業になってしまいます。
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4行詩でいいのです。
「象さん象さん
お鼻が長いのね
そうよ
母さんも長いのよ」
象さんの歌はいいなあ。いい詩だなあ。
仏説十一面観世音菩薩随願即得陀羅尼経を、要らなくなったカレンダーの裏面に、大きな文字で書き写して、それをトイレの壁に貼り付けています。それを便座に座って、大声で朗読をします。ゆっくりなので10分ほどもかかります。
此処は山里なので、大声を出しても、聞かれる心配がありません。大声朗読は気持ちがいいのです。
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仏説とは? お釈迦様という仏様がお説きになられた、という意味合いです。経典の初めは大方この「仏説」で始まっています。
それを「如是我聞」=「かくの如く我聞けり」=「わたしはこのようにお聞きしました。それをみなさんにもお伝えします」で受けて、経典が開陳されてきます。
十一面観世音菩薩様はお顔が十一面あります。何処にどんなにしていても見逃さないで救う力を持つ観音菩薩様です。
随願即得とは? 「願いに随応して」「願いを聞き逃さずに」「即時に」「願いの結果が得られる」の意味だろうと思います。
陀羅尼は? サンスクリット語のダーラニーの音訳語です。ダーラニーは「神呪」「呪文」「マントラ」と同義です。仏様の言語ですから、本当は人間語に変換できない言語です。神秘的なパワーを発揮する音韻ボイスです。此処では十一面観世音菩薩の陀羅尼が説かれます。カタカナ書きすると、オンマカキャロニキャソワカとなります。
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わたしは、それを全部真に受けて大声朗読をします。経典は、結局は、「あなたを守ります」「あなたを導きます」「あなたが菩薩になって下さい」「あなたが仏様です」「心配要りません」「死んでも生きても、苦しんでいても悲しんでいても、安心していていいですよ」「あなたは安心の仏の世界にいるのですから」を繰り返します。
で、その気になります。嬉しくなります。
今夜は、新進気鋭の中秋の名月が大空にデビューを果たします。さっそうと。胸を張って、歌を歌って、大威張りをして。
逃すわけにはいきません。まだ昼間なのに、もうから気がそぞろ。待ち受けています。名月を迎えると途端に秋が秋らしさを深めます。
二日前の夕方は、畑で眺めました。満月二日前の、やわらかに満ち溢れてくる姿を。黄金を。
外国人もきっとそうだろうとは思いますが、月を見ていると、己が日本人だなあと思います。日本人は月が大好きです。
あ、それから秋野菜の種を蒔きました。プランターに。高菜の種です。
今朝、若い大根の間引き菜の一夜漬けを食べました。鰹節をたくさんまぶして。醤油を其処に垂らして。それがおいしくておいしくて。
香りがクンとして。香りを嗅ぐだけでもう元気がもらえました。
で、あわてて、朝ご飯の後に、高菜の種蒔きを開始しました。ちょっと早過ぎるかなあと思いましたが。
これで2週間ほどもすれば、高菜の間引き菜を食べられるでしょう。一夜漬けを楽しみにします。
秋は、一夜漬けがおいしくなります。ご飯がすすみます。夏の間に失っていた食欲が戻って来そうです。
朝の内に外に出ました。8時から10時まで。日照りが強くなって、気温が上がって、2時間の労働がやっとでした。
はじめに、6m2列の九条葱の土寄せをしました。大きく成長をして来ています。土を寄せたところから下が白葱になります。
次に2株の落花生を掘り上げました。ほどほどの収穫でした。今晩お泊まりになる客人に食べさせてあげようと思います。
それから、韮を株ごと掘り上げて、小さく分けて、余所に植え替えて上げました。韮は、植え替えを好みます。元気になります。
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気温がぐんぐん上がっています。13時半、現在30℃を超えています。日中は夏日が続きます。炎天下の労働は、老爺をへとへとにします。
秋椎茸が立ちだしたぞ。ぞぞぞ。ゾクゾクする。
原木は、友人から頂いたもの。もう数年前に。善意に感謝する。
原木は古いの新しいのを合算すれば、もう10個ほどになっている。
春と秋に立つ。ニョキニョキッと。その立ち初めが興奮。
毎日、ホースで水掛けをしてやる。それも楽しみだ。
まだそれほど大きく成長していないので、収穫はしない。
眺めるだけにしておく。収穫は来週にしよう。
我が家で収穫した椎茸は格別。大事に大事にする。
あたりまえだが、日々老いて行く。秋の深まりのように、老いが深まって行く。百舌鳥が鳴いて、近くの枯れ木のてっぺんに止まる。アキアカネが群れをなして行き交う。時が歩みを止めることはない。体のあちこちの器官が軋む。
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このまま衰亡の一途を辿っていくしかないが、それに抗うだけの元気ももうない。抗わないけれど、ふっと寂しくなる。寂しさが老爺の我が友になる。
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しかし、老いたことを悲しむべきではない。この後の凋落を恐れているべきでも無い。老い得たことを喜んでいるべきだ。一本の長い道をここまで辿って来られたのだ。喜べ、悲しまずに喜べ。その着想で、ぱぱんぱんと手を打つ。
人が恋しくなるときがある。困る。恋しくなったところで、どうすることもできぬ。
よしんば、その恋しい人に遇えたところで、その人がそれに応じて、親しく迎え入れてくれることもあるまい。いや、それ以前に、思いを伝えるだけのこちらの熱情だって、秋蝉のように力なくかぼそいのだ。
やはり、人を恋しくしない方がいい。孤独沼に沈んでいた方がいい。そういうエモーションから遠離っていた方がいい。冷却はひんやりするだろうが、孤独の夜の砂漠にいた方がいい。砂漠にも月が昇ってくるはずだ。
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そういえば、昨夕、日没直後に、ドラマがあった。畑から満月直前の豪華絢爛たる月を仰いだ。銅鑼のように大きくて黄金だった。畑を動かず、それをしばらく仰いでいた。