こんなときひょっこり珠子に逢えたらいいのだがなあ。ひょっこりという具合にはいかないのかなあ。なにしろそんなためしがないからなあ。美しい珠子をうんとうんと褒めてやるんだがなあ。褒めてやるだけじゃつまらないと言うのなら、セルロイド人形のように抱き寄せてそれから軽々秋空へ投げてやってもいいのだがなあ。
やっぱり諦めきれない。高く付くお泊まりは止めにして、せめてぶうらりだけはしてこよう。一人乗りのドライブだ。何処へ行こうがお構いなし。ここがいい。気の高い神宮に行き着けば、(澄み切った秋の空がそうしているように)近くで高い気をもらって帰れるだろう。今夜中には戻って来よう。
草藪の一角に露草を見つけた。この空間が明るい。露草は青い宝石の首飾りをしていて、貴婦人の品格がある。この片田舎の草藪に押し止めておくにはもったいない。といって摘むには惜しい。自転車を止めてしばらく胡座(あぐら)を掻き、美しいご婦人と相(あい)対した。
ワゴン型の車の後ろに折り畳み式の自転車を積み込みました。(折り畳みにしないでも積み込めます)これでぶらり旅支度が整いました。雨になればどうせ畑の農作業はお預けになります。行くなら今がチャンスです。行った先で、ぶうらり徘徊をするには自転車がおあつらえ向きです。すういすういと軽やかに見て回れます。さぶろうの左脚は麻痺しているのでウオーキングもジョギングもできません。初めての土地で神社神宮を見て回るのが癖になりました。鳥居を入った社(やしろ)の杜(もり)は静かでほっかりします。何処へ行こうかなあと思案しています。宿泊すれば宿泊料金がかかります。それには肝心の財が乏しいのです。(貧乏人には閑があって財がなく、お金持ちは財があっても暇がない。五分と五分。よくしたものです)でもぶらりぶうらりはしたい。実行するかしないかもう何時間も迷っています。だらしないさぶろうです。
午前中にはやばやサイクリングを済ませました。これをすませないと日が暮れていかないようで。往復8km。これまでは霧雨状態だったのに、我が家の玄関に着いた途端に大粒の雨の音がしてきました。すいすいすいすいとは行きません。おやっと思います。脚力がついていません。ペダル漕ぎが習慣になってからもう一月そこらはたっているので、ついているはずなのに。やっぱり高齢だからかなあ。だろうなあ。午後2時。いまはまた霧雨になっています。
高校時代の友人だから友人関係も長くなっている。功成り名遂げた友人と功成らず名も遂げないさぶろうとは、最近どうも釣り合いがとれない。しかも彼はますますそのコースを驀進中なので、開きはますます拡大するばかり。彼も歩み寄り、さぶろうも歩み寄らねばならないが、同じ歩み寄りの距離だと中間地点まで行き着かないのである。相手を友人にして繋いでいるのがどうもおこがましくなってきた。彼も我が身を縮めてこちらに合わせていれば窮屈退屈なのではないか。さぶろうはさぶろうで、日々タカ派になって強硬論を唱える彼の弁舌に同調ができないのだ。困った困った。運動場のシーソー台のようなものだ。彼のずしんとした重さの対極にいるへなちょこのさぶろうは空へ浮き上がっているしかない。
得至蓮華蔵世界 即証真如法性身 遊煩悩林現神通 入生死園示応化 浄土真宗経典「正信念仏偈」より
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とくしれんげぞうせかい そくしょうしんにょほっしょうしん ゆうぼんのうりんげんじんずう にゅうしょうじおうげ
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蓮華蔵世界に至るを得てよりは即(たちま)ち(成仏して)真如の法性身を証(あか)しぬ。(その後は衆生救済のためにこの世に立ち戻って)(この世の人々の)煩悩の林に遊べり。神通力を現しては生死(輪廻の)(本来の美しい)園に入り、示して化(け 教化 導き)に応じたり。 (さぶろう用の訳)
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蓮華蔵世界=仏法(ダンマ)という蓮華の華の、咲き誇る極楽浄土=仏国土。
真如の法性身=真如界(仏界)にいるときにはわれわれは法性身(ほっしょうしん 法のはたらきによって生まれた身体 ・スピリチュアルボデイ・霊体)をしている。真理を体現した相(すがた)だ。
示応化(じおうげ)= 「応化を示す」とも読めるが、さぶろうは「示して化に応ず」と読んでみた。仏法を明らかにするために、一人一人の化導に応対したのである。
煩悩林=この世は煩悩の木の生い茂る美しい林である。さぶろうにはこんなふうになんだか肯定的な表現に思われる。
生死園=生死を繰り返すところ。園が楽園に(さぶろうには)聞こえて来る。
煩悩も生死もわれわれにはマイナスのイメージが強いが、一度仏に成った後ではそうではなくプラスに肯定的に見えているのかもしれない。
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われわれは往相(おうそう)還相(かんそう)の二つの相(すがた)をすることになる。仏の極楽浄土に往(ゆ)くとき、往(い)ったとき、そして成仏して終わるのではなくて、それからはこの世に還(かえ)って来るとき。われわれは相(ものの見方)を変えている。浄土より帰還したら、それまでは苦界に過ぎなかったこの世が明るくなっているので、その通りに明るく衆生救済の活動をすることができるらしい。仏陀に成ったら、煩悩も生死も苦しみ悲しみではなくなって見える、そこがいいなあとここを読んでさぶろうはそう思う。
詩「さぶろう」
大事大事にされているさぶろう/それが伝わって来てふかふかのさぶろう/地球から大事大事にされているさぶろう/太陽系惑星群から大事大事にされているさぶろう/銀河系宇宙の星々のことごとくすべてから大事大事にされているさぶろう/そんなに大事大事にされるほどのさぶろうだったのか/遠く近く/光があふれてあふれて/さぶろうの瞳にまで届いて来ている/瞳の中の明るさでもって/それでもう十分にきらきらして/全身も全霊もしずかにかがやいているさぶろう/
庭の片隅に石蕗の黄金の蕾。秋だ。もう立派な、一張羅の秋だ。この家の主のさぶろうをよろこばそうという魂胆で、秋一番乗りの石蕗がそわそわしているようだ。そっちがそうなら、こっちもそうしていよう。そわそわそわそわ、明日が運動会の日の宵の寝床のように。幼い蕾になって。
明日から10月。秋が深まる。家内がさっそく風邪を引いたらしい。ごぼごぼの咳をしている。苦しそうだ。朝夕ちょっと気温が下がったからだろうか。でも、そんなに敏感に反応をしないでもいいのに。家内に寝込まれると一番困るのはさぶろうである。焼いてもらっていた身の回りの世話がゼロになると途端に狼狽してしまう。まず部屋が塵芥になってしまう。着替えがどこにあるのか探せない。我が身が窮地に落とされないですむように、台所で今晩の栗ご飯の準備をしている家内の背中に「風邪薬飲んだ?」「咳止め飲んだ?」を連発している。