<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

今日から4連休。さて、何をしようか。

2021年07月22日 08時20分56秒 | Weblog

気温28・1℃。30℃までは上がるようだ、予報では。まもなく午前8時半になるところ。日が強くは照っていない。ニイニイゼミの声がかまびすしい。

 

ベランダには鉢植えの朝顔が咲いている。此処からよく見える。此処というのは家の中。パソコンを置いている机のところから、朝顔を眺めることができる。大輪。白、紫、赤、空色などの色がある。幾つも咲いている。癒される。

 

今日から4連休。何をしようか。計画は何もない。何をしてもいい。しないでもいい。旅に出てもいいが、このコロナ禍だ、薦められたことではない。家にいて、朝寝昼寝をしているのが無難か。

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ピーマン、唐辛子が、茎に集まっている虫から栄養分を吸われて、枯れかかっている。

2021年07月21日 17時12分33秒 | Weblog

午後5時を回っている。気温が32・8℃ある。ムシムシ蒸している。

 

ベランダの朝顔の鉢に水遣りをした。ついでに、周辺の庭や畑にも。

 

わずか半時ほどだったのに、汗を掻いてしまった。シャツが濡れてしまった。上半身裸になって、タオルで、水拭きをした。

 

気持ちがいい。天気予報だと、気温は夜に入っても落ちないようだ。

 

 

畑のピーマン、満願寺唐辛子が枯れかけている。よく見ると、茎に小さな虫がたかっている。びっしり隙間がないほどに、いる。茎から養分を吸い取っているんだろう。

 

殺虫剤を噴霧した。いっときは離れて行ったが、また集まって来て、元の通りになった。殺虫剤が効かないようだ。家に戻って今度はフマキラーを噴射してみた。

 

虫も、夏の暑い盛りをものともせずに、したたかに生きている。頑強だ。こちらの思い通りにはならない。共生がいいのだが、ピーマン、胡椒類は、虫の餌になって、枯れて行く。

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爽やかな夏の朝を用意してくれた朝顔さん、有り難う。

2021年07月21日 08時26分15秒 | Weblog

朝顔が咲いている。大輪である。縁が白い。中は赤い。トランペットの奥はまた白い。爽やかだ。吹いて来る風までもがこれに倣う。

爽やかな夏の朝を用意してくれた朝顔。有り難う。

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「恩に着る」べきだが、「恩に着せる」べきではない。

2021年07月21日 07時34分52秒 | Weblog

「恩に着る」べきだが、「恩に着せる」べきではない。

 

恩に着せる、と、尖ってしまう。刃となって突き刺さってしまう。

 

「おれがこうしたこうした」だから「おまえの今日がある」などと言われたら、ぞっとする。

 

重たい「恩義」を背負いたくなくなって、一目散にその場を逃げてしまいたくなる。

 

その途端に「こうしたこうした」の善意がみんな腐ってしまう。気をつけなくちゃならない。

 

 

善意がそのまま善意を通すことはなかなか難しい。善を施した側は威張りたくなる。声が高くなる。喋りまくりたくなる。

 

それが勢いを付ける余り黒雲となってしまい、ついには相手に覆い被さってしまう。

 

 

仏教では「施」を言う。布施を大事とする。他者への施しだ。

 

他者からわたしに向かって差し向けられて流れ込んでくる幸福を、今度は他者に向かって流し込んで行くのが「施」だ。幸福の川の水量の、方向の転換だ。

 

まずしかし、その前段階で、最初に、他者からの絶え間のない幸福の布施を、我が身が感得しなければならない。

 

それを感得することから、次の段階の我が身が発する施が成立する。だから「施」とは、「お返し」なのだ。百分の一千分の一のお返しなのだ。威張ることではないのだ。

 

 

「施」をする人と「施」を受け取る人と「施」そのものが、無心でなければならない、互いに無執着でなければならない、という仏教の教えがある。そうでなければ濁ってしまうのだ。せっかくの「施」が腐ってしまうのだ。これが中々難しい。

 

おれがあれほどしてやったのに、あいつはそれを返してこない。嫌な奴だ、困った奴だ、恩知らずだ、などと責めてしまう。

 

「施」は「功徳」を求めるととたんに色褪せてしまう。「施」ではなくなってしまう。善意の寄付をしても無功徳でなければならい。「おれがしたんだぞ」を消してしまっておかねばならない。

 

 

仏教に信奉する梁の国の武帝が、達磨大師にさまざまに寄進をした。だが、達磨さんは有り難うを言いに来ない。武帝はやきもきする。わたしがこうして様々に施をしてあげたので、この国の仏教が興隆をしているのですよ、と言いたくてたまらない。それを達磨さんのいるところにきて、ぶちまかすと、達磨禅師はすかさず「無功徳」と言って雷を落とした。

 

「施」をする人には悪魔が住み着きやすい。かといって恩知らずでいればいいかというとそうでもない。そこにも他者を無視してしまう悪魔が住み着いてしまう。

 

我がこころに仏が住むようにしなければならないが、実態はそこから遙かに遙かに遠い。善意の実践の「施」は、「無心」「無執着」「無功徳」でなければならない。ここがまず一つの関所難所だ。

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「恩に着る」べきだが、「恩に着せる」べきではない。

2021年07月21日 07時34分52秒 | Weblog

「恩に着る」べきだが、「恩に着せる」べきではない。

 

恩に着せる、と、尖ってしまう。刃となって突き刺さってしまう。

 

「おれがこうしたこうした」だから「おまえの今日がある」などと言われたら、ぞっとする。

 

重たい「恩義」を背負いたくなくなって、一目散にその場を逃げてしまいたくなる。

 

その途端に「こうしたこうした」の善意がみんな腐ってしまう。気をつけなくちゃならない。

 

 

善意がそのまま善意を通すことはなかなか難しい。善を施した側は威張りたくなる。声が高くなる。喋りまくりたくなる。

 

それが勢いを付ける余り黒雲となってしまい、ついには相手に覆い被さってしまう。

 

 

仏教では「施」を言う。布施を大事とする。他者への施しだ。

 

他者からわたしに向かって差し向けられて流れ込んでくる幸福を、今度は他者に向かって流し込んで行くのが「施」だ。幸福の川の水量の、方向の転換だ。

 

まずしかし、その前段階で、最初に、他者からの絶え間のない幸福の布施を、我が身が感得しなければならない。

 

それを感得することから、次の段階の我が身が発する施が成立する。だから「施」とは、「お返し」なのだ。百分の一千分の一のお返しなのだ。威張ることではないのだ。

 

 

「施」をする人と「施」を受け取る人と「施」そのものが、無心でなければならない、互いに無執着でなければならない、という仏教の教えがある。そうでなければ濁ってしまうのだ。せっかくの「施」が腐ってしまうのだ。これが中々難しい。

 

おれがあれほどしてやったのに、あいつはそれを返してこない。嫌な奴だ、困った奴だ、恩知らずだ、などと責めてしまう。

 

「施」は「功徳」を求めるととたんに色褪せてしまう。「施」ではなくなってしまう。善意の寄付をしても無功徳でなければならい。「おれがしたんだぞ」を消してしまっておかねばならない。

 

 

仏教に信奉する梁の国の武帝が、達磨大師にさまざまに寄進をした。だが、達磨さんは有り難うを言いに来ない。武帝はやきもきする。わたしがこうして様々に施をしてあげたので、この国の仏教が興隆をしているのですよ、と言いたくてたまらない。それを達磨さんのいるところにきて、ぶちまかすと、達磨禅師はすかさず「無功徳」と言って雷を落とした。

 

「施」をする人には悪魔が住み着きやすい。かといって恩知らずでいればいいかというとそうでもない。そこにも他者を無視してしまう悪魔が住み着いてしまう。

 

我がこころに仏が住むようにしなければならないが、実態はそこから遙かに遙かに遠い。善意の実践の「施」は、「無心」「無執着」「無功徳」でなければならない。ここがまず一つの関所難所だ。

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家の中に女のひとがいてくれると「安」らげる。わが女性礼賛。

2021年07月21日 06時44分38秒 | Weblog

女の人が家の中にいてくれると安らぐ。安定する。安心できる。「安」の字はそれを語って聞かせている。

 

女の人は家の中にいなければならない、などということではない。そんなことを言えば、袋だたきに遭ってしまうだろう。そういう命令形ではない。

 

誰が安らぐか。まずはこども達だろう。家族だろう。夫だろう。女性はやはり細かな配慮ができる。やさしい。優美だ。やわらかい。上手に家の中の切り盛りができる。そして恩を着せることがない。

 

暮らし易くしてくれる。住み心地をよくしてくれる。そういう能力に長けている。でも、家に縛り付けてはいけない。奥にいる奥様にしては閉じ込めるべきではない。

 

奥から出て来て、先頭に立つお前様であってもいい。来る人を、迎え入れて、ほとめいてくれる役割もやはり女性が長けている。女性が社会進出を果たして活躍する時代になった。

 

「男」は「田」の「力」になるから、田圃に出て力仕事に向いているのだろうか。「夫」は「大丈夫」「丈夫で逞しい人」なんだろう。文字を解体すれば「二人」とも読める。

 

二人分の力を発揮してくれるだけの力持ちということか。そんな力持ちでなければ「夫」が務まらないのか。僕なんか条件に合わなくなってしまう。

 

我が家の「家内」は、家の内にいるときには、料理洗濯掃除を引き受けてくれている。大いに助かっている。家の中がきちんと整理整頓されている。タンスの中でも乱れていない。

 

「女将」は宿の女主人、女将軍のことである。宿に着くとまず女将さんにやさしい声を掛けてもらって、出迎えられる。と客は安心する。女将さんが表に立って迎え入れてくれる宿は繁盛する、らしい。

 

男女平等がやかましく言われている。これに盾突く気持ちはない。掃除洗濯炊事を両性で分担すべきだ、の論にも賛成する。子育ても男性が加わるべきだ、この方向を歓迎する。

 

しかししかし、家の中にいてくれるだけで。家が傾かずに乱れずに、安定感を得る。そういう役割を演じているのが女の人だ。とすれば、存在価値は大きい。大威張りしていい。

 

家の中にいても存在感の薄い僕なんかは、必然的に、家内に頼り切っていることになる。頼り切っていられるからだ。まことにだらしがない。

 

そういうだらしのない姿勢をよしとしていてはいけないだろうが、そうなっている。何だか申し訳がない。その居心地の悪さ不安定さを払拭するために、僕は畑に出て草取りに励む。ほんの数時間だけだが。

 

 

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一缶のビールを美味しく飲まんが為に。

2021年07月20日 17時42分19秒 | Weblog

さて、と、一缶のビールを美味しく飲まんが為に、これから畑に出て行きます。おうすぐ6時です。もういいでしょう。だいぶ暑さも和らいでいるはずです。

 

よろよろのお爺さんでもまだ人間のうちです。人間、汗を垂らさないと、ビールが美味しく飲めません。

 

だから、ビールを飲まないためには、その逆でいいのです。外へ出て行かないでいるといいのです。暑い暑いを言わないでいたらいいのです。

 

畑に出て行っても、なあに、座って草取りをするだけですけど。しかも日没までの1~2時間で十分です。

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一缶のビールを美味しく飲まんが為に。

2021年07月20日 17時42分19秒 | Weblog

さて、と、一缶のビールを美味しく飲まんが為に、これから畑に出て行きます。おうすぐ6時です。もういいでしょう。だいぶ暑さも和らいでいるはずです。

 

よろよろのお爺さんでもまだ人間のうちです。人間、汗を垂らさないと、ビールが美味しく飲めません。

 

だから、ビールを飲まないためには、その逆でいいのです。外へ出て行かないでいるといいのです。暑い暑いを言わないでいたらいいのです。

 

畑に出て行っても、なあに、座って草取りをするだけですけど。しかも日没までの1~2時間で十分です。

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わたしはこれを聞くだけでいいのです。仏が説いた法を聞くだけでいいのです。

2021年07月20日 17時19分43秒 | Weblog

仏さまのことが書いてある経典を広げれば、仏さまに出逢えるような気がします。仏さまが法を説いておられますから、これを聞けばいいのです。

 

はいはい、はいはいと聞けばいいのです。分かった風にして聞いていればいいのです。

 

われわれは仏さまを理解することはできません。仏さまの法が理解できるのは仏さまのみです。

 

でも聞いて聞いて聴いているうちに、染まっていくのです。じわりじわりじわりと仏さまの色に染まっていくのです。そうやって長い長い時間が過ぎて行きます。

 

で、次第次第に吸い寄せられていくのです。仏さまは吸引力という力をお持ちです。あとは、これに打ち負かせていたらいいのです。

 

わたしたちは無仏の世界には生きていけません。生きていることができるのは、すなわちこの世界が有仏の世界だからです。

 

そのことを考えていると熱いものが胸の国込み上げてきます。仏さまがわたしたちに法を説いておられるのです。わたしを捨てずにわたしを相手にして法を説いておられるのです。

 

わたしはこれを聞くだけでいいのです。

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現世利益(げんぜりやく)和讃を読む。仏さまに遇ったら誰だって泣いてしまいます。

2021年07月20日 16時41分24秒 | Weblog

泣きたいので、今日は、この経典を読み上げます。

 

泣きたいのに、俗事にかまけていると、なかなか泣かせてくれないのです。

 

 

感激から遠いところで生活をしています、僕は。

 

で、えんえん、をんをんと声を上げて泣かないのです。

 

 

阿弥陀如来を思えば、それだけで涙が溢れてくるはずです。

 

涙が溢れてこないのは、阿弥陀を思っていない証拠です。

 

 

わたしを思っていて下さる方が、この世にいらっしゃいます。

 

わたしを思っていてくださるその阿弥陀仏の想いの10000000分の1も、わたしは阿弥陀仏を思っていないのです。

 

 

ですから、泣かないのです。

 

泣こうともしないのです。

 

 

無碍光仏のひかりには、無数の阿弥陀ましまして、化仏おのおのことごとく、真実信心をまもるなり。  「現世利益(げんぜりやく)和讃」より

 

 

阿弥陀如来は法身です。形がありません。わたしたちの目には見えません。でもそれじゃ、わたしたちは救われないのです。見ないでは存在を確かめられないのです。信じられないのです。

 

で、姿を現してくださいます。それが化仏です。変化(へんげ)の仏です。さまざまに変容されておられます。数えることもできないくらいに遍満していらっしゃいます。無碍光のひかりの中にいらっしゃいます。光そのものでもあります。

 

無碍は有碍の反対です。さまたげるものを、さまたげなくするものが無碍です。無碍光仏のいわれです。

 

そして仏が恵まれる真実信心を受け取るレセプターのわたしたち人間を守っておられます。

 

化仏ですから、山も海も川も仏です。仏の意志を持っています。草も木も、鳥も魚も虫も仏の意思を持って生きています。人も、あなたもわたしも本来はみな仏を現している姿です。

 

 

仏に向かい合ったら、誰だって泣いてしまいます。阿弥陀如来その方は法身です。目に見えません。でも、遇っているのです。仏にいつも遭っているのです。仏の意思を持つ無数の化仏に遇って暮らしているのです。

 

 

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