「恩に着る」べきだが、「恩に着せる」べきではない。
恩に着せる、と、尖ってしまう。刃となって突き刺さってしまう。
「おれがこうしたこうした」だから「おまえの今日がある」などと言われたら、ぞっとする。
重たい「恩義」を背負いたくなくなって、一目散にその場を逃げてしまいたくなる。
その途端に「こうしたこうした」の善意がみんな腐ってしまう。気をつけなくちゃならない。
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善意がそのまま善意を通すことはなかなか難しい。善を施した側は威張りたくなる。声が高くなる。喋りまくりたくなる。
それが勢いを付ける余り黒雲となってしまい、ついには相手に覆い被さってしまう。
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仏教では「施」を言う。布施を大事とする。他者への施しだ。
他者からわたしに向かって差し向けられて流れ込んでくる幸福を、今度は他者に向かって流し込んで行くのが「施」だ。幸福の川の水量の、方向の転換だ。
まずしかし、その前段階で、最初に、他者からの絶え間のない幸福の布施を、我が身が感得しなければならない。
それを感得することから、次の段階の我が身が発する施が成立する。だから「施」とは、「お返し」なのだ。百分の一千分の一のお返しなのだ。威張ることではないのだ。
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「施」をする人と「施」を受け取る人と「施」そのものが、無心でなければならない、互いに無執着でなければならない、という仏教の教えがある。そうでなければ濁ってしまうのだ。せっかくの「施」が腐ってしまうのだ。これが中々難しい。
おれがあれほどしてやったのに、あいつはそれを返してこない。嫌な奴だ、困った奴だ、恩知らずだ、などと責めてしまう。
「施」は「功徳」を求めるととたんに色褪せてしまう。「施」ではなくなってしまう。善意の寄付をしても無功徳でなければならい。「おれがしたんだぞ」を消してしまっておかねばならない。
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仏教に信奉する梁の国の武帝が、達磨大師にさまざまに寄進をした。だが、達磨さんは有り難うを言いに来ない。武帝はやきもきする。わたしがこうして様々に施をしてあげたので、この国の仏教が興隆をしているのですよ、と言いたくてたまらない。それを達磨さんのいるところにきて、ぶちまかすと、達磨禅師はすかさず「無功徳」と言って雷を落とした。
「施」をする人には悪魔が住み着きやすい。かといって恩知らずでいればいいかというとそうでもない。そこにも他者を無視してしまう悪魔が住み着いてしまう。
我がこころに仏が住むようにしなければならないが、実態はそこから遙かに遙かに遠い。善意の実践の「施」は、「無心」「無執着」「無功徳」でなければならない。ここがまず一つの関所難所だ。