<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

冥加・冥利・冥助とは目に見えない存在に守られていること

2017年12月21日 15時49分50秒 | Weblog

「冥の照覧」というときの「冥」は目に見えない神仏のハタラキを指しているらしい。神仏の視線を意識することか。神や仏に見られている、見守られているということかもしれない。

「冥加(みょうが)」「冥利(みょうり)」「冥助(みょうじょ)という熟語もある。同じく、知らず知らずのうちに身仏の加護を蒙っていること、またはその報恩を指す。古代の人は「冥利に尽きる」「冥加に尽きる」などといって身仏の加護を有り難がったようだ。

「冥」そのものは「暗い」「目に見えない」「奥深い」などの意味がありそうだ。「正月は冥土の旅の一里塚」などという場合の「冥土」はこれは死後の世界、あの世を指している。

わたしは現代に生きているが、この冥加、冥利、冥助を信じているフシがある。濃厚かも知れない。いつ何処に居ても守られているという感覚がある。これで安心に繋げているところがある。

わたしの父の母、つまりお婆ちゃんはいつも「あんたは仏さま神さまに守られとるから心配はせんでもよかよ」「神さま仏さまが見ているから悪いことはしちゃいかんよ」と言い聞かせていた。それがこの年までボデーブローのように効いているのかも知れない。

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人を寂しくさせない為なのかなあ

2017年12月21日 15時41分59秒 | Weblog

耳垢がよく溜まるなあ。溜まると痒い。耳鈎でごしごし擦り落とす。そうするとさっぱりして気持ちがいい。一人で居ても笑みがこぼれる。耳垢が溜まるのは、とすると、人を寂しくさせない為なのかなあ。

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人は天地から生きていくだけの力を与えられている

2017年12月21日 15時07分18秒 | Weblog

澗水一杯朝に命を支え、山霞一烟夕に神を谷う     空海「性霊集」巻の第一より

かんすい いっぱい あしたに いのちをささえ さんか いちえん ゆうべに しんをやしなう

朝起きて谷川の水の一杯を汲んで命を繋ぎ、夕方日が暮れて山に懸かった夕靄を一呑みして精神を潤す。

仙人みたいな暮らしぶりが覗える。エネルギーというのはしかし、この世に満ち満ちているのである。豪華な食事を通してしかエネルギー補給が出来ないのではない。

口以外でも、鼻で皮膚で耳で目で、修行者はエネルギーの吸収が出来る。いや、神仏に守られているのである。支えられているのである。導かれているのである。修行者は与えられて与えられているのである。仏陀が修行者に廻向しているのだ。生き抜く力を供養をしているのだ。必要なだけは天地が恵んでいるのだ。その感恩に噎ぶことが出来るのだろう。あたたまれるのだろう。

修行者はそれに気付いている。随って、山径の大岩に手を当ててでも活力伝播されることになる。水波が寄せるように。谷水や山霞を見ただけでも、目が身体全体の元気を回復させる。人はみな天地から生きていくだけの力を十分に与えられているのではないか。それを知れば慎ましくなるのではないか。空海だけが特別なのではなく、人はすべからく「神を谷う」(=精神を養う)ことができるのではないか。

わたしは修行者ではないから、そこらあたりの事情を推察・想像をしてみるだけであるが。

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そうか そうだったのか

2017年12月21日 14時46分15秒 | Weblog

そうか。そうだったのか。貧者(ひんじゃ)というのは、持っても持っても持ち足りないと嘆いてひたすら我欲を追いかけていく者だったのか。小欲知足という。足るを知れば欲は限りなく小さくなるだろう。富者(ふうしゃ)は、では多くを持たないでもそこで足りている人ということになる。所有するものの多い少ないではなかったのだな。足りれば安心する。足りなければ不安になる。安心するために所有をするはずなのだが、所有すればするだけ不安を煽ってしまうとは皮肉なことだ。読んでいた本の中に「清貧の思想家・政治家」のことが書いてあった。南米ウルグアイのムヒカ大統領のことである。

足るということは難しいことだ。足れば安心がいただけるのに、わざわざ不安の中に身を置こうとして欲を追求する。これが止まない。持ちたい持ちたいと思う。所有欲には限りがない。修行する仏陀釈尊のお弟子たちは無所有・無所得・無定住を通された。

 

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なんてことは よも なかろうなあ

2017年12月21日 11時31分21秒 | Weblog

2階のベランダから干し柿を中くらいのを一個ちぎって来た。食べてみた。おいしい。渋みは消えている。甘味だけになっている。今年は寒さがきついので、干し柿には幸いしたのかも知れない。人もかくあればよかろう。寒さに会えば渋みが消えて甘味だけになればよかろう。寒い日々が続く。もしかして頑固者のわたしの、その干し柿が、或る日ひょっこり出来上がるのかも知れない。(うひひひ、ひ。なんてことは、よも、なかろうなあ)

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老いても尚 柔和でありたいものだ

2017年12月21日 10時58分33秒 | Weblog

柔和質直者 即皆見我身  にゅうわしちじきしゃ そっかいけんがしん    「法華経如来寿量品」より

柔和で質直なる者は即、皆、我が身を見るべし。

柔和な目で見、質直(しちじき)なるこころにものを思う人であれば、皆たちまちにしてそこに仏陀を仰ぎ見ることができるだろう。風景の奥にも、現象の裏にも表にも、会う誰の人にも、仏陀の姿や仏陀の法を偲び見ることができるだろう。

仏陀の教えを信奉するお弟子衆は、尊敬して止まない仏陀をそこに見たかったに違いない。至る所に仏陀を見たかったことだろう。仏陀は、「わたしは此処に居る」と言って励まし慰めている。見る者の目が柔和であればわたしが見える、聞く者のこころが質直であればわたしの教えが聞けるはず、だと。

柔らかで素直な心を持っていることは、しかし、難しい。ものごとを難しく難しく考えている人にはいよいよ難しい。柔らかさがなくなってしまう。固くなる。動かなくなる。素直に考えられなくなる。猜疑心が強くなる。横柄になる。己が正しいと言って退かなくなる。己がそうだ。

そんなことを考えていた。老いてもなお柔和でありたいものだ。人品貧しけれななおさらに質朴で素直でありたいものだ。

11時半。がちがちに凍てついていた屋根の霜が解けた。冬日がそこに降り注いでいる。光の反射が部屋まで届いて来る。おおいおおいおおい。誰かに会って話がしたくなる。楽しい話がしたくなる。

 

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三日会わなければ人は刮目するに値する変化を遂げている

2017年12月21日 10時16分26秒 | Weblog

刮目(かつもく)・刮眼(かつげん)は、目脂のついた眼を擦(こす)って、ひん剥いて、見開いて、よく見ることだ。

こうすると見ているようで見ていなかったことが知れる。なあんだということになる。

煽られていただけということが判明する。思い込みに過ぎなかったのだ。眼鏡が思い込みの垢で曇っているのだ。

良い方に思い込んでおけばまあいいが、えてして、そうではない。悪い方へ悪い方へ思い込んでいる。

一拭いすれば、そこには果てしなく青い空が広がっている。

三日会わなければ人は刮目するに値する変化を遂げているという古諺もある。ここでいう変化は眼鏡の曇りを拭ったということかもしれない。そこではっとした。果てしなく広がる青い空が見えた。それで気分が颯爽となった。気宇広大となった。晴れ晴れとなった。

此処まで来るのに三日を要しなかった、ということだろう。そんな風に解釈してみた。眼の目脂を拭うだけでそうなるのなら、もうけものだ。

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ふふふと笑ってしまう あんなに恐がっていたのに

2017年12月21日 10時01分39秒 | Weblog

ふふふと笑ってしまう。あんなに恐がっていたのに、それがそんな恐がることじゃなかったって分かったときに。ふふふと笑ってそこで同時に気が抜ける。

張り詰めていた恐怖のバルーンから、恐怖が抜けて行く。それがすーっと畑に落ちる。近くへ行ってよく見ると果たしてその恐怖の実態がない。蛻(もぬけ)の空(から)だ。

そういうことが、死後にあるんじゃないか。あるように思う。なあんだ、死んでも死ななくてもどっちだってよかったのか、そういう安堵が来る。死は恐怖そのものだとしてきたのに、杞憂だったのか、思い込みが過ぎていたのか、期待外れだったのか、というふうに。

それが悟りなんじゃないかな。案外そんなもんなのじゃないかな。悟りというのは。だから死者はすぐに悟りの段階に到達するのじゃないのかな。恐怖を去った、その状態、元の状態に戻ることになるんじゃないのかな。

ふふふ、そんなことを今し方考えていた。もう10時を過ぎた。外に出てみてもいいなあ。寒い寒いと縮こまってばかりいないで。発想のコペルニクス的転換を図って。

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とすればもう少し楽なんじゃないかなあ

2017年12月21日 09時45分48秒 | Weblog

「形がなくてはならない」と思い込んでいるところがある。われわれは執拗に形に拘っている。形を失ったら即わたしは生滅するという恐怖感を抱いている。形を失ったらわたしが見えなくなってしまうからだ。触ることでも勿論出来なくなってしまう。だから、形があることが生存の絶対条件だと信じて疑わないことになる。ふわふわは嫌だ。掴み所がない。その形は分子電子から成り立っている。わたしの固形物を構成する分子電子はふわふわなのに。それが凝集すると固形化する。そこまで来ると安心する。物質化が証明されたからだ。でもわれわれは100%物質ではない。それ以外が混入している。どちらが主なのか従なのかは定かではない。両者が助け合って相俟っているのかも知れない。

形を失ったらどうなるのだろう。案外せいせいするのかも知れない。第一重たくない。軽くなる。行き来が自由になる。大小・美醜・老若に評価されないでもすむ。生きている死んでいるという分かれ目なんて気にならなくなる。どっちだってたいして変わらないじゃないかという具合に達観が出来る。目はないのに見えている。耳はないのに聞こえている。舌はないのにおいしく食べている。などということが叶えられている。とすれば? もう少し楽なんじゃないかなあ。

 

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いかにも気持ちよさそうに

2017年12月21日 09時37分49秒 | Weblog

意識は、個体と液体と気体とに変貌できるのかもしれない。水がそうするように。気体になったところで、しかし、それがゼロになったわけではない。存在はしている。固形化して剥き出しになることもある。さらさらと流れていることもある。いかにも気持ちよさそうに。

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