<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

ぶらぶらして来ます

2015年04月28日 09時24分12秒 | Weblog

これから涌蓋山(わいたさん)に行って来ます。周辺の温泉で遊んできます。硫黄臭を嗅いできます。ブログはしばらくお休みです。でも、どうも空模様が怪しいなあ。雨になるのかなあ。ぶらぶらする分には雨でもいいか。

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己という暴れ馬に乗る者

2015年04月28日 08時35分45秒 | Weblog

ブッダンサラナンガッチャーミー、ダンマンサラナンガッチャーミー、サンガンサラナンガッチャーミー。三帰依文がこれである。南伝小乗仏教国、北伝大乗仏教国の、仏教徒共通である。

(大乗・小乗:大きな乗り物と小さな乗り物の謂。大乗は多くの人を乗せていけるが、小乗は自分一人を乗せるしかない。後の革新的仏教教団が自己宣伝をするために用いた。何を乗せている乗り物か、仏智見を乗せる己という乗り物である)

さぶろうはぼそぼそぼそぼそこれを呟いている。声になるかならないか分からないくらいのぼそぼそ声である。いつということはない。何処ということはない。蟹の泡のようなつぶやきだから。水面にまで上がっては消える。

「わたしは仏陀に帰依する者です、わたしは仏陀の説いた法に帰依する者です、わたしは仏陀を信奉するお弟子衆(サンガ)に帰依する者です」という表明である。誰に対してそうしているか。わたし自らに対してである。帰依をすることで自分の定位置を、その都度、確認している。

さぶろうの帰依は、しかし、すぐに崩れる。乾いた土のようである。崖の土のようである。危うい。崩れて埃を舞い上げる。ぼそぼそぼそぼそのつぶやきは、だから、ときには嘆き節のようにも聞こえる。断固たるところがない。堅強さがない。

仏陀の別称に「調御丈夫(じょうごじょうふ)」という呼び名がある。己という暴れ馬を調教してこれを御している逞しい丈夫(御者)の謂だろう。仏陀もまた己という暴れ馬に苦しまれたのである。そしてこれを克服されたのである。もちろん、仏陀はこれで自己満足をされたのではなく、活動を開始された。誰もがこの暴れ馬の己に苦しんでいたからである。

仏陀の暴れ馬を調御したのは何か。菩提である。涅槃である。悟りである。悟りの内容である法(ダンマ)である。

さぶろうは未だ以て己の暴れ馬を調御できていない。馬は跳ねて回る。逆立ちをする。暴走をする。この暴走を止める手綱がブッダンサラナンガッチャーミーである。ダンマンサラナンガッチャーミーである。サンガンサラナンガッチャーミーである。仏陀に従って生きようという呪文である。

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幼児の砂遊びにそっくり

2015年04月28日 07時48分36秒 | Weblog

おはようございます。昨日は日が暮れるまで農作業をしました。幾つかの広めのプランターに不断草の種蒔きをしました。それから畑に、やや大きくなったズッキーニの苗を植えました。未就学児童がする(公園の砂場の)砂遊びにそっくりです。なんにも考えずに過ごせます。こんなに楽しいものかと思います。そしてまあ、充実感までもらえます。感覚的に過ぎませんが、日暮れまで働く「働き者」になります。お金になることではありませんし、社会に貢献しているわけでもないのに、です。独善です。

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自由を実行できる翼

2015年04月27日 10時46分58秒 | Weblog

おはようございます。あ、もう、こんにちは、かな。いいお天気です。家の中にじっとしているのがもったいないくらいです。

わたしにも自由の翼がありますから、飛んでいったら翼がついていることがわかりますから、行動に出たらいいかなあと思います。天使の翼の形をしたものが背中に生えていなくとも、自由が享受できればそれが自由の翼の証明になります。

形があって見えているのに見えていない、という場合がありますし、形がなくて見えていないのに見えている、という場合もあります。あると思ったらあり、ないと思ったらない。翼はどっちなのでしょう。

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揺れが収まるのを待つ ひたすら待つ

2015年04月27日 09時26分37秒 | Weblog

さぶろうはどうしてこうももったいを付けたような物言いをしているのでしょう。脂(やに)さがった奴です。にやけた奴です。ホンモノではないのにホンモノを気取っていると衒いが出ます。ちぐはぐしてきます。気もそぞろになって落ち着かなくなります。さぶろうはよく仏陀の話をしています。知恵、行動ともに正しい者しか仏陀に言及すべきではありません。それなのに厚顔無恥を通して、のべつまくなく話を続けています。お許しください。

出定(しゅつじょう)は禅定を終わって出て来ることを言います。禅定時には瞑想をしていますから、まだ幾分か幻覚の状態にあります。ここを出て来て意識が明瞭になることを、最初は言っていたようです。お釈迦様が前正覚山から修行を終えて出てこられます。これも出定です。入定は禅定に入ることを指します。禅定に入って涅槃(ねはん)寂静(じゃくじょう)を体現します。こころの平和、安定、安心を獲得します。もっと大きな涅槃、つまり死の涅槃に入ることをもこう言います。

定は安定です。大揺れに揺れていたブランコが揺れ終わって定位置につきます。自己制御が整った状態になります。禅定の禅も定もこの静けさの状態です。入定をするのは自己覚醒(仏智見を具える覚醒)のためですが、出定は他者覚醒の実践のためです。どちらも安定が不可欠です。

「怒り心頭に発す」というときにはブランコは大揺れに揺れています。正しい判断ができませんから何をしていいか分かりません。だから、どんなことでもしてしまいます。揺れが収まると、おれはどうしてあんなことをしたのだろうと後悔します。揺れが収まるのを待てばいいのですね。時間はそのうち経過します。ひたすらひたすら待てばいいのですね。待っているだけで入定です。

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仏陀でなければ仰げない空

2015年04月27日 09時03分04秒 | Weblog

おはようございます。有り難いことであります。仏陀ではないさぶろうが、仏陀と等しい扱いを受けております。わざとらしく、もったいをつけたような物言いですが、これを知ると泣けてきます。

小便がしたくなります。小便をします。するとほっかりします。老廃物が濾されて液体となって体外に出て来ます。これでまたおいしい水が飲めます。元気が回復します。この生理機能がさぶろうにもついています。

この生理機能は、さぶろうを元気にして活動をさせる機能です。この機能は正しい知恵を有する者、これを基に正しく活動をする者、仏陀に付与されている機能です。さぶろうは正しい知恵からも、正しい活動からも遠いところにいて暮らしていますが、仏陀と等しい扱いを受けています。

さぶろうを仏陀にしている理法、理法を顕現させた当体とはなにものぞ、という問いが涌いてきます。この問いの答は出て来ません。ただただ驚くばかりです。さぶろうに仏陀と等しい待遇を受けさせているダンマ(慈悲の法則)とはなんぞ。何故ぞ。なんの意趣ぞ。これは不可思議ですから、思議しても答は浮かびません。

ただ事実だけがあります。さぶろうの頭上には大空があります。青い澄み切った春の空です。白い雲も浮いています。この事実は仏陀の事実と変わりがありません。仏陀ではないさぶろうが仏陀の春の空を打ち仰いでいます。これは仏陀でなければ仰げない空です。

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口に食い物が届く

2015年04月27日 07時57分52秒 | Weblog

有り難うございました。わたしもまた応供(おうぐ)の列に加わった者の一人でありました。

わたしにも光が届いてまいります。わたしの鼻元には空気が届けられてまいります。光も空気も毎秒毎秒滞ることがありません。

こうしてわたしは全世界からのありとあらゆる供養(くよう)を受けていることができます。

生まれてから今日までこの列に加わって、生きよ生きよの励ましと力添えを受けている者でありました。

応供(おうぐ)は仏陀の別号です。仏陀を呼ぶ呼び名です。供(ぐ)に応じられる者、尊敬に値する者、人々から食べ物を施される者の謂です。

応供(おうぐ)とは供養に対応される者。もともとは阿羅漢(略して羅漢)の訳語。天地の供養、天人(天界・人界)の尊敬と供養を受けるに値して、これに応じ、これを受けている者を指しています。彼らは仏教の修行の最高段階に到達した人で人々の尊崇を受けた。始め釈尊を指していたが後には拡大解釈された。

しかし、現実は、仏陀・釈尊がこれを一人で受けられているはずはなく。わたしたち一人一人が、(仏陀・釈尊に供奉されるべき)供養を、釈尊と斉しくして、分け隔てなく受けているのである。わたしたちは天地の供養、真理の供養、法の供養を受けている者である。

悪人のさぶろうが/仏陀がいただくべき施物(せぶつ=供養)を/この世で/仏陀と等しい分/ちゃっかり受けて暮らしているが/そこが悪人だ/さぶろうは/それをなんとも思っちゃいない/さぶろうが仏陀と等しい者とされている事実と/その宇宙理法なんどは/鼻でふんと笑い飛ばしている/こうして笑い飛ばしていても/さぶろうの口に食い物が届く/目に光が届く/鼻に空気が届く

 

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甘い苺を頬張る

2015年04月26日 09時05分10秒 | Weblog

弟が見るからにおいしい苺を箱一杯山盛りにして持って来てくれました。<甘王>という品種だそうです。知人の苺農家から分けてもらったものらしい。さっそく水洗いをして食後にいただきました。高価なので日頃は口に入りません。このときとばかり、口が受け入れるのを拒むほどたくさん放り投げました。苺は鮮度がすぐに落ちてしまうので、落ちてしまわないうちに近所にも届けました。

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差別待遇はよくない

2015年04月26日 08時44分55秒 | Weblog

ミヤコワスレがきれいです。草丈のある白花ミヤコワスレ(身長25~35cmほど)を20茎ほども摘んで来て花瓶に挿しています。清楚で可憐です。「わたしのこと好きになってくれた?」と白花が問いかけてきます。「ん」わたしは肯きます。「よかった」彼女たちの目がうるみます。赤紫色の花を咲かせるミヤコワスレが、我が家の第1号来訪者で、元祖です。後から来た白花の勢いが強くて、ネイテイブを凌駕していきました。ネイテイブはとうとう絶滅危惧種のようになりました。これだはいけないと保存運動が起こりました。わずかになった赤紫ミヤコワスレを、この春は株分けして生き残りを図っているところです。そういうわけで今や圧倒的多数派の白花にはこの頃冷淡だったのです。それに赤紫の花は上品すぎて小さいのです。ほっそり繊細です。草丈も白花の半分です。対するに白花は花の顔が大きくて自信に満ちています。ほっといてもいいのです。でも、差別待遇はいいことではありません。改めようと思います。

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よろこびはよろこぶ者を訪れる

2015年04月26日 07時46分04秒 | Weblog

おはようさんでございます。いいお天気になっています。で、いい気持ちになっています。いいお天気とおんなじくらいにしていたいもんです。いいお天気の大空を吸いこめばそうなるような直感が働きます。深呼吸をしてみます。おいしいです。

このブログ「おでいげにおいでおいで」の訪問者数(昨日一日の)が112人となっていました。これまでで最高になりました。閲覧数は530閲覧。これもこれまでの最高でした。読んでもらえたことに感謝します。嬉しいです。励みになります。これからもぼちぼち書いていきます。よろしくお付き合いください。

今日は藤まつりの藤公園、藤神宮に行って見たいと思っています。何処がいいかなあ。調べてみます。遠くへは行けませんけど。藤の開花はいまが盛りのよう。藤の匂い、甘い匂いが好きです。石楠花や牡丹、シャクヤクなども見頃でしょうか。花を賞でていればこころ浮き浮きになれます。

よろこびは/よろこぶ者に/訪れて来る/そうだったら/まずはよろこぶ者になることが/優先事項/何をよろこぶかは/無用の問いになる/よろこび駅に/よろこび電車が次々に入ってきて/ここで停車する/よろこびという乗客が降りてくる/にこにこして降りてきて/帽子を振る/僕はこれを迎えるだけで/一日が忙しくなる/まずは爽やかな大空がやってきた/東山からは明るい光と風がやって来た

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