<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

こっちも後悔なし

2015年03月31日 19時24分20秒 | Weblog

書き過ぎかなあ。一日で10個ものブログを書いてしまった。

爪が伸びている。切らなくちゃ。伸びているってことは、生きているってことだよね。生命活動をしているってことだよね。爪がいとしくなる。死んだら爪は指先でどうなるのだろう。

夕食を済ませました。鰺の干物を焼いてもらいました。これに摺り大根を乗せ、たくさんの酢と少しの醤油をかけました。それから肉厚のアスパラガス、春キャベツ、黄色ピーマンを蒸して貰ってこれをマヨネーズにまぶして食べました。人参、春玉葱入りの肉ジャガもおいしかった。焼酎のお湯割りをおかわりしました。

悪い方へ悪い方へと考えるよりもよい方へよい方へと考えた方がいい。いいに決まっている。じゃ、悪い方へ考えるのは止めてしまえ。よい方へ考えたらよい方へ転換していくだろう。

夕方、小雨が降っていたのに、外に出た。気分がこれですっきりした。雨に濡れないですむベランダに来て作業をした。好きだねえ。大群落を作っているミヤコワスレの1群落を抜いてきて、これを一株ずつに細かくして、これを丸鉢に植え付けていった。暗くなって手元が見えなくなるまで。もう花が咲いているのもあるから、植え替え時期としてはもう遅いけれども。楽しかった。こんなことがどうして僕を楽しませているのだろう。

「さぶろうが大好きだ」と言ってくれるのは空だ。山だ。風だ。こうして大好きに取り囲まれているさぶろうは、まったくだらしのないさぶろうなのだけれど、それだからこそ幸福者を体感している。

いい加減なことばっかり言ってたぶらかせている。誰を? 自分をだよ。調子のいいことばかりを言って怠けさせている。誰を? 自分をだよ。これでいいんだろうかね。いいはずはなかろうけどね。

ほんとうのほうとうというのはあるんだろうかね。そりゃ、あるさ。でもね、ほんとうのほうとうという存在はとてつもなく寛大で包容力があって、知らんふりを決め込んでいるのが大好きなんだから、どうしようもなくふしだらなさぶろう、お前はふしだらを責められないですんでいるんだよ。

生まれてからずっとわたしを宿してくれている肉体というホテル業の親爺さん、ありがとうよお。こんなだらしない泊まり客で、すまないねえ。文句も言わずにいてくれるんだけど、文句を言いたくなることもあるんだろうねえ。しかし、どんな条件をも付けずにどっきんどっきん打っている心臓をはじめとした五臓六腑。諸器官。手足、首、頭、胴体。皮膚、毛穴、毛。おおおお、おおおおお。頭が下がるよ。

10

今晩死んでもいいようにしておかなくちゃねえ。だよねえ。でも整理整頓がまるで進んでいないよ。それでもいいってことなんだろうね。お構いなしなのかな。うん、そっちがそうまでしていてくれるんだから、こっちも後悔なしだよ。何が起こっても、だから、けちをつけるんじゃないよ。

 

 

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にこりとできること

2015年03月31日 16時35分07秒 | Weblog

あなたは何が叶ったらにこりとしますか?

その1はやっぱり健康ですよね。健康が叶っていると、それで思わず知れずにこりとできますよね。その2は? その3は? その4、その5は?

その10まで数えられたらそれでもうにこりにっこりとできますよね。にこりとできることがたくさんあるに越したことはありません。

<かなう>は願いが<叶う>ことでもありますが、<ぴったり来る>や<ぴったり当て嵌まる>の意の<適う>でもあります。現状が適合している場合でしょうか。思いが実行と適合することでもあります。

願っていたことが叶う。あるいは叶っている。それを発見する。もしくは自覚するとそこでにっこりできます。にっこりは自分を元気にさせます。幸福の畑で獲れる幸福感は自覚から産まれる農産物です。

自分のことで何も叶っていなくてもにこりとできる人もいるかもしれません。愛する人や愛する家族、愛する仲間や愛する故郷の嬉しいニュースを聞いてにこりとなるというのもいいですね。

この頃、あなたがにこりとした体験は何ですか? そんなことは何もなかっただなんて言わないでくださいよ。思い出したら2つや3つはきっとあるはずですから。

おいしいものが食べられた。ぐっすりやすめた。いい夢を見た。快便ですっきりできた。誤解が解けた、或いは誤解を解いた。友情が芽生えた。好きな人ができた。愛の告白を聞いた。苦しめていた病状がある日から快方に向かった、完治した。こちらの善意が届いた、或いはこちらへ善意が届けられた。垣根に薺の花を見つけた。幾らでも幾らでもありそうです。

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卯の花が咲きホトトギスが鳴く月 明日から四月

2015年03月31日 16時04分44秒 | Weblog

今日は3月31日です。ということは? 明日は4月1日、エイプリルフールです。まわりの者といっしょに笑い転げるための嘘を考案する日です。宝籤で3等賞が当たりましたので、温泉宿にしばらく楽逗留できます。ご一緒してくださる方募集します。もちろん費用はこちら持ちです。

<(人は一日に)嘘八百>と言いますから、日頃から毎日たくさんたくさん嘘をついているはずです。ならば、わざわざ801個目の嘘をつかなくともいいのかもしれませんが。

弥生三月が卯月四月に変わります。卯月は<苗植え月>とも<卯の花月>とも呼ばれます。卯の花はウツギのことです。山へ行くとあちこちにこの花が見られます。<卯月鳥>とはホトトギスのことです。これからこの鳴き音が新緑の間に聞こえて来ます。四月は新学期が始まる月です。学校を終えた人が職場に入る月でもあります。ともかく万物が新しい顔をして活動を始めます。活動は世界を明るくします。いいですね。

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珈琲タイム

2015年03月31日 15時45分52秒 | Weblog

珈琲タイムになりました。珈琲とどら焼きがテーブルにのりました。珈琲は濃くありませんので飲み終えました。どら焼きは甘いで半分ほどを食べました。眠気に襲われてきました。

あっという間に死んでしまっていたらよかろうな、眠気に誘われながらそんなことをふと考えていました。長年月、痛い苦しい目にあうのはご免です。この頃、体のあちこちが軋んだり痛んだりします。どのみち死んで行くのですから、長さには固執しないでおこうと思います。でもどんな死に目に会うかは分かりません。死に様もこちらの選択肢にはありません。命ある者は一人残らずこの一本道を辿って行きます。

でもこれは肉体の死です。これで物質界とはお別れになります。次の世界に進んで行く条件が整ったということでもあります。100%厭うべきことではないようです。次にはよりよい世界に進んで行けるのであればこれを楽しみにできます。

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仏陀である条件、仏陀に成る条件を問う

2015年03月31日 15時10分40秒 | Weblog

A:おんなのひとを思っておって、それで「しばらく我は仏陀なり」はなかろう。仏陀はおんなのひとを思わないのだぞ。

B:そうか。おんなのひとを思わないのが仏陀だと言うのだな。仏陀は木石か。

A:おんなのひとは修行の妨げになる。不清浄をもたらす元凶になる。

B:仏陀はそれくらいで修行の妨げになるのか。であれば仏陀とは言えまい。木石になる修行をしているわけではあるまい。

A:ともかく仏陀に成りたいのであればおんなのひとを思うな。思わないのが条件ではないが、思えばそれだけ重い足を引きずることになる。

B:お金はどうだ。やっぱり修行の邪魔になるのか。お金持ちは仏陀にはなれないのか。位はどうだ。王位にある者は覚りを得られないのか。家族はどうだ。家族を守る者は仏国土に至れないというのか。

A:そうだ。執着になるものはすべて捨て去って軽くなることだ。執着する物がある間は仏陀にはなれないだろう。この世を執着する者は到彼岸がかなわないだろう。

B:しばらくも仏陀になることは難しい。この世に居て仏陀に成ることは難しい。では死んだらどうだろう。

A:執着をしている間はやはり難しいが、あの世に行けば執着は軽減されるであろう。

B:仏陀に成る条件を満たすために死者の国に往生するのか。

A:そうだ。それも言いうるのではないか。擲って行く。捨てて行く。放棄して行く。これで条件が緩和されるのだ。

二人は問答を続けたが結論は見付からなかった。仏陀に成るために、それを目的として死ぬというのであれば、そこに幾分かの希望が見えてくるようにも、二人には思えたのだった。

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わたしが仏陀にならないのなら仏陀は悲しむであろう

2015年03月31日 14時38分25秒 | Weblog

「なんじ仏陀たれ」

A:わたしがここでいますぐに仏陀に成る? 

B:おまへになれるはずはなかろう。

A:だが、仏陀が命令をしているのだぞ。

B:仏陀になれるのは仏陀であって、おまへではない。

A:わたしが仏陀にならないのならば、仏陀は仏陀にはなれないのだ。

B:仏陀におまへを仏陀にするその威力神力があるというのだな。

A:そうだ。それを信じるのだ。わたしを仏陀にする力があるということを信じるのだ。

B:信は行を伴うのだぞ。信の証明は行なのだぞ。実行を以て初めて信が生きるのだ。

A:その通りだ。だから、これは傲慢ではないのだ。その誹りは当て嵌まらないのだ。

B:それは怪しい。傲慢が過ぎた考えではないのか。

A:わたしが仏陀になることを仏陀はよろこぶであろう。わたしが仏陀に成らないことを仏陀は悲しむであろう。

B:これも怪しい。仏陀はおまへを喜んだりはすまい。

A:明るい者は仏陀だ。徹底して明るい者は仏陀だ。仏陀はそれゆえに光である。無量光である。光は智慧である。仏陀の智慧は徹底して明るいのだ。

B:おまへの言うことを受けてやろう。だが、おまへは明るさを失わないでいられるか。明るい仏陀を何処まで演じられるのか。いつまでそうしていられるというのか。

A:すぐに明るさは失われるであろう。その通りだ。だから、いまのいま、1分だけの明るい仏陀だ。しかし、これは仏陀とは言えないな。たしかにそうだ。

B:ずいぶん引き下がったな。

A:わたしは1分だけの仏陀である。よって1分だけの間、明るくしていられる。こう訂正をしよう。

B:そんな期限付きは仏陀ではあるまい。

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正覚者・仏陀の大音声を聞け

2015年03月31日 13時42分39秒 | Weblog

空模様が怪しくなってきました。天気予報ではこれから数日は雨マーク。乾燥していた土がこれで潤うことができそう。土に生えている植物たちが手ぐすねを引いて待っているのかもしれない。だが、咲いたばかりの桜の花は悲惨な目に遭いかねない。こっちは水撒きをしないでよくなる分は楽になる。これから公園へ繰り出して花見の宴を当て込んでいた人たちはがっかりするだろう。

こころに潮が満ちているときには感じられないが、引いていくと途端になんだか言いしれない空虚な思いが頭を擡げてくる。妙なものだ。潮は満ちたり引いたりするからいちいちこれに反応などしなくていいと言い聞かせるが、不安になってそわそわしだす。何かが足りないと思うのだろう。愚かなことだが、バケツに水を掬ってこれを埋め合わせようとする。潮は、そんなことをしなくとも、時が来れば沖合が膨らんできて押し寄せてくるのだから、じっとして待っていればいいはずなのだが。

正覚大音 響流十方 しょうがくだいおん こーるーじっぽう  「讃仏偈」より

正覚者(法蔵菩薩の師とする世自在王仏)の放つ大音声は、おお、偉大なるかな、響き渡って十方に流れ広がって行く。

正覚は正しい覚り。もはや何物にも揺らぐことはない。何物をもこれを妨げることはできない。不動だ。自信に満ちた正覚者・仏陀の大音声は宇宙にまで響き渡って火砕流のように圧倒的威力で以て流れ広がって、救済を必要とする者の犇めく大地へ広がって行く。

<広大なる宇宙に響き渡る正覚者・仏陀の大音声>を聞け。聞けばどうなるか。これをイメージしてみる。これを耳に聞く者はすぐさま己の迷いや煩悩や不安や不足の思いを砕かれてしまうであろう。ならば、さぶろうよ、これを聞け。これを聞け。耳をつんざくばかりの大音声、正覚者の雷音を聞け。

大音声は何を語っているか。何を命令しているか。それは「なんじ仏陀たれ」ではないかとさぶろうは思ってみた。「さぶろうよ、なんじ明るい明るい仏陀たれ」と。  

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必要な条件が全て整う

2015年03月31日 13時06分48秒 | Weblog

一斉に、一斉に一斉に、春になって行く。天も地も、海も山もやわらかくあたたかく春を迎えている。必要な条件がすべて整ったのだ。よかったよかったと思う。

春にならない条件がこれまでは圧倒的だった。これはこれでいいことだった。万物が、じっと忍耐をするべき冬を通り、これをやり過ごして行く。これも大切なことだったに違いない。

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仏さまは名料理人

2015年03月31日 08時31分13秒 | Weblog

吾誓得仏 普行此願 一切恐懼 為作大安 ごぜいとくぶつ ふぎょうしがん いっさいくく いさだいあん   「讃仏偈」より

吾誓うらく 仏となり得なば 普(あまね)く此の願を行ぜん 一切の恐懼をして 為(これ)を大安と作さん

わたし(法蔵菩薩)は(師の世自在王仏に)お誓い申し上げます。もしもわたしが仏となり得たら、あまねく次なる此の願を行じて参ります。この世を覆うありとあらゆる恐懼(くく 恐怖心の雲)を払い去って、これを大安心の青空にして耀かします。これがわたしの願行です。

人々のこころに巣喰う恐懼(くく)を大安に切り替える。心配や不安や恐怖心といった暗雲に光を当てて掃き去らせ、これを澄み渡った大安心の青空にして耀かせる。この願いが行じられたらそれはまさしく仏となった証になるでしょう。苦の原因になるもの(=一切恐懼)を変換してさしあげ、人々に信楽の結果(=大安)を展開させてあげられれば、まさしく仏として仰がれるでしょう。

こうするために必要なこと、それはわたしが仏に成ることです。もちろん守り手、導き手が要ります。これは先に仏と成った大徳の威神力に依ります。仏が説かれた仏法がその教えとなります。教えを信じて、教えを無駄にすることなくして、わたしが大安心へ進んで青空のように耀いていることです。  

さぶろうは今日はこんなことを考えて午前中を過ごしています。そうでありました。いつもいつも安心を耀かせているのは青空でありました。これをわたしとすればいいのでした。満開になった桜が、これに倣って、青空の下、花の色に光り耀いているのでありました。

恐懼という材料を使って大安心という料理をこしらえる料理人は仏さまという料理人ですね。

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孫を空港へ送ります

2015年03月31日 07時16分53秒 | Weblog

今日で孫たちとお別れです。26日に空港まで迎えに行ってから我が家で5泊6日を過ごしました。毎日あちこちへ連れて行きました。楽しい6日間でした。怪我をさせないですみましたのでほっとしています。今日の11時半の飛行機に2人を乗せます。飛行場まで送っていきます。わたしはすでに古稀を過ぎましたので高齢者です。老病死の陣地がスペースを広げています。確実な明日がありません。今生では、ですから、これが最後になるかも知れません。

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