<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

雲雀の囀りが止むときがありません

2018年04月30日 10時00分35秒 | Weblog

有田陶器市臨時列車に乗ります。いま駅のホームにいます。ここは小さな駅。駅の向こう、麦畑が一面広がっています。雲雀の囀りが止むときがありません。臨時列車みで客が混んでいるかもしれません。座れたらいいですが。風があって、少し肌寒く感じます。

家内は、わたしが旅に出たら、せいせいするでしょう、さぞかし。煩わしい存在はいない方がいいに決まっていますよね。

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わたしはわたしの予測を超えていくはずである その3

2018年04月30日 09時23分15秒 | Weblog

現在のわたしは物質と非物質とで成り立っている。割合がどれくらいかは調べていない。5対5なのかもしれないし、7対3かもしれないし、3対7であるかもしれない。人それぞれでまちまちかもしれない。

ここにあらたに「物質+非物質」ではない新たな要素が加わってくるかもしれない。それは現在のわたしでは予測できない。でも、わたしが進歩をして行く限り、わたしはわたしの予測を超えていくはずである。

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わたしはわたしの予測を超えていくはずである その2

2018年04月30日 09時21分11秒 | Weblog

たとえば、詩である。詩は物質ではない。物質ではない詩によって、わたしが元気になったり慰められたりする。

わたしは変化を遂げていく。そう思っている。そう思っているから、いつまでも同じ物がエネルギー供給源であったりはしないだろう。

変化を遂げていく、というのは、わたしの変容を謂っている。わたしを構成しているものが、変化をしていくということだ。

 

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私は私の予測を超えていくはずである その1

2018年04月30日 09時07分41秒 | Weblog

肉体は物質であるから、物質の栄養補給をする。それがエネルギーとなって肉体が活動することができる。

でも、わたしは肉体ですべてではないから、物質以外の栄養補給も摂る。そしてそれがわたしを活動させるエネルギーを供給することもある。

 

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エッセー「小の中にも大がある」 その4

2018年04月30日 09時06分21秒 | Weblog

日暮れ方には背中に月を背負って充実感を味わえることもある。暇もある。世の中への興味もそれほど失せているわけでもない。少しの楽しみを大事にする。老いたらこういう遊びが待っていてくれたのである。

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エッセー「小の中にも大がある」 その3

2018年04月30日 09時04分48秒 | Weblog

 わたしはすでに老いた。派手には生きられない。選択肢は当然うんと縮小される。
 ひとり小さな畑で一日を過ごすことを覚えた。そんなに広い畑ではないが、茄子、胡瓜、トマトが育つ。四月は夏野菜の植え込みの時季。草取りだけでも結構忙しい。収獲した野菜を売りに行くことはない。家庭菜園の範囲内である。ときには人様にお分けして喜びを共有する。

 

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エッセー「小の中にも大がある」 その2

2018年04月30日 09時03分14秒 | Weblog

 例えば、労働という過剰エンジン音を小さくする。人生のブレーキを軽く踏む。するとその隙間を休息が埋めてくれる。大金を費やさないでも地道に人生を楽しむ暮らし。それは現代にも生きていよう。遊びを大胆に大袈裟にしないで、生活そのものを楽しむ。働きつつ遊ぶ。楽しんでいればそれが遊びになる。小さな休息を大きく楽しむ。小の中にも大がある。これが生涯を楽しむ知恵になる。

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エッセー「小の中にも大がある」 その1

2018年04月30日 08時59分06秒 | Weblog

「小の中にも大がある」

 暇があるときには金がない。働いて金が出来たら、今度は暇がない。暇が出来たら、いつのまにか年を取っていて、遊ぶだけの興味と元気が失せている。どのみち、一生遊べない。なら、どうするか? 手はある。
 そういう生活そのものを遊びとすればいいのである。それを少しだけセーブして楽しいとすればいいのである。この知恵があった。

 

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春の鳥が来て鳴いています さも嬉しそうに ラスト

2018年04月30日 07時47分39秒 | Weblog

春の鳥な鳴きそ鳴きそなが鳴けば 外の面の草に日の入る夕べ   北原白秋

いろんな読み方があっていいでしょう。わたしはそんな風に読みました。

大好きな作品です。高校生の頃に国語の授業で取り上げてもらいました。衝撃を受けました。どうしてだかはっきりしないのですが、衝撃だったのです。内容が示すところにではなかったかもしれません。ただ音韻に酔い痴れただけだったのかもしれません。

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春の鳥が来て鳴いています さも嬉しそうに その7

2018年04月30日 07時45分23秒 | Weblog

春の鳥な鳴きそ鳴きそなが鳴けば外の面の草に日の入る夕べ    北原白秋

でもそんなふうに楽しく嬉しくして鳴いている春の鳥の声を聞いていると、それがいかにも「かりそめである」ということを思い知らせて来ます。楽しみの極が高ければ高いだけ、苦しみの極へ引きずり込まれてしまいます。その落差に泣くのです。

 

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