<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

向こう岸へ着くまでは不安

2016年05月31日 20時49分31秒 | Weblog

「どうする?」

「どうするって?」

「乗るのか乗らないのかってことさ」

「どうしよう」

「選択は難しいよ」

「だね」

「正解なのかそうでないのかがその場では分からない」

「行ってみての勝負になる」

「こんなことならどうして早く来なかったんだろう、ということもあるし、その逆もある。来るんじゃなかった、と臍を噛むことも」

「どうするか分からないときには、任せてしまうという手がある」

「任せてしまうんだから、後悔はなし。でなくちゃならない。賽の目がどう出ても」

「それに随う。どうせ随うならよろこんで、ということになる。嫌々ながらよりはこっちが楽だから」

「お迎えがもうすぐ来るよ」

「乗るか乗らないか、決める必要はない。いわば強制的だから」

「それでいいよ。それがいいよ。選択肢がない」

「行きます、それでいい。あとは大船に乗っていればいいから」

「大船の甲板で走り出したりはしないだろうね」

「走ったところでそうにもならない」

「行き着く先に着くまではどうにもならない」

「だったら、昼寝をしていた方がましということになる」

「昼寝ね。ぐうすうぐうすう鼾を掻いている内に着いているだろうね」

「だろうね」

会話が続いている。向こう岸へ着くまでは不安な二人のようだ。

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わたしがさわさわさわと鳴っている それっきり

2016年05月31日 15時52分39秒 | Weblog

ああ、さわさわさわと風が渡って行く。緑の野原を渡って行く。風に雑じる。緑に雑じる。わたしがさわさわさわと鳴っている。それを聞く午後のひととき。それっきり。それっきりであるから、いまはなんにも要らない。

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「修行」と「修業」は違う

2016年05月31日 15時02分10秒 | Weblog

これはさぶろうに言い聞かせるために書いたものである。よって正当性はない。論は出鱈目である。あらかじめ言っておかねばならないことだ。

己を利するためにするのが「修業」で、他を利するためにするのが「修行」だということを知った。ふううん。ちゃんと区別があったのだ。

こと職業の場合は、修業がなると普通は暖簾分けを頂ける。これで己の腕で飯が食えるようになったことになる。たとえば寿司屋さんの場合、修業が終わり己の店を持つと一人前の扱いだ。次の段階へ来ると彼は弟子を抱えて、自分がそうしてもらったように次の代を養成することになる。で、利他の「修行」に入ることになる。お店に客が来る。客においしいものを食べさせる。客がよろこぶ。これも歴(れっき)とした利他になっている。

小乗仏教では己に悟りが開けることを目標地点とした。そこでからりと空が晴れ渡った。

だが、大乗仏教はそれで満足しなかった。小乗は小満足だとした。己一人を喜ばせてそれで解決したのか、という疑問を突きつけた。

一生掛けて生きて、生きて生きて、やったことはおのれ一人の満足で、その域を一歩も出なかったというのであれば、なるほど井の中の蛙を笑えまい。

小乗仏教では阿羅漢(もしくは羅漢。アラハンもしくはアラハット)をもって長い精進の暁とした。仏道を進む者の最高域の地位に達した人と見た。これで彼らは周囲からの尊敬に値する人となった。彼は登り詰めて山頂に立ったのである。彼は燦然とそこで輝き渡った。

大乗はそれを否定した。そこが究極だとはしなかった。山を下りて行け、と自らに命じた。苦悩する大衆の中に入る実践を重んじた。これを修行とした。山頂に立つのはそのために欠かせない前準備だったとした。己が完成したのは利他の実践の能力が完成したことに過ぎなかった。己が燦然と耀く「お山の大将」であることを嫌ったのだ。

彼は忘己をした。相手は己ではなかったのだ。満足させるべきは己ではなかったのだ。「己とは何か」の命題解決から次なる道に出た。彼は菩薩(菩提薩埵・ボデイサットヴァア)と呼ばれるようになった。彼は仏陀の遣いとなった。衆生救済事業に邁進が出来る能力を備えるようになった。

人間は区別が好きだ。区別をしていかないと頭の整理がつかないのだろう。阿羅漢と菩薩をこういうふうに区別した。同じ仏道の実践・実行にも自利のためと利他のためとの温度差があるとした。

唐突だが、青空はこれをしない。木もこれをしない。草もこれをしない。山も海もこれをしない。彼らは「己とは何か」「己の救済と己以外の救済のどちらを優先させるべきか」などということを命題に挙げていないのかもしれない。救済のためのサイレンを鳴らさない。彼らは走り回らない。不動のまま堂々としている。涅槃と寂静に入っている。あんがい小乗仏教徒なのかもしれない。

導いた結論らしきものがハチャメチャで申し訳ない。さぶろうのトロッコはすぐに脱線するのだ。

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訪問して下さった方がいきなり249人に

2016年05月31日 14時28分10秒 | Weblog

どうしてだか分からない。記録の示すところに寄ると、5月30日、月曜日の訪問者数が249人とこれまでの(たぶん)最高だった。お礼を申し上げます。これは全2514000のブログ中4007位とある。閲覧回数は923回。これはいつもよりは多いが、それほど圧倒的というものでもないようだ。

5月30日は2個のブログしか書いていない。いつもよりはうんと少ない。2個とも東京のことについて書いたからだろうか。でもたくさんの人が読みに来てくださったことを示しているから、嬉しい。どうしてだかは分からない。特に得がたい情報を提供したわけでもない。読みに来て下さったけれども、しかし、読んでみて、内容にがっかりして急いで帰られたかもしれない。だったら、申し訳がない。

樹陰で夏鳥のホトトギスが鳴いている。近くでも遠くでも鳴いている。五月は今日で終わり。全国統一して明日からは6月だ。麦刈りが終わって田植えに入る。水田をツバメがすいすい飛び交うようになる。オタマジャクシから進化した蛙が、進化のお礼に雨乞いの行を始める頃になる。卯の花が咲き乱れる。五月は五月の花が咲き、六月は六月の風情が溢れるようになる。何処に居たって、いつを迎えたって、よろこびのオンパレードをしてもらっているので、生きとし生けるいのち達はこれに素直に随えばいいことになっているらしい。東京を去る。

 

 

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老爺は泣きとうなっております

2016年05月31日 09時23分46秒 | Weblog

泣きとうなっております。なんだかこう泣きとうなっております。熱いものが込み上げております。ぽろぽろぽろりと涙が頬を垂れたらよかろうという気持ちがしております。なんのことはない。ここはいいところだ、という理解が生まれた、それだけのことです。おれはいいところに生まれていたんだ、という漠然とした把握が届いて来てそれでほろりとなっております。他愛ないことです。いいところで暮らしてきたんだ、それが実感を伴って来て、ひらひらした情感の膜を突くのです。ここというのはここです。移動をしていく先々がここです。

人嫌いが人に会っています。「この川はなんという川ですか」僕の質問に通りがかりのおっちゃんが答えてくれます。「しゃくじいがわ」「え?」「しゃくじいがわ「え?」僕はその妙な名前が聞き取れないでいます。おっちゃんはもう一度今度は一言一言丁寧に。「へええ」おっちゃんはそれから、この谷川が何処を流れて来たか何処へ流れ込んでいくかまでを説明しました。おっちゃんはジョギングをしている最中なのに、僕に付きあってくれたんですね。「ここは初めて?」「何処からおいでになったんで?」彼は僕を覗き込む。僕は返す、「九州です」「佐賀です」。そうすると「地震は大丈夫でしたか」とそこまで聞いてくれたので、僕はついにほんのりあたたまってしまって、「ええ、大丈夫でしたが、初めての震度5クラスは恐かったですよ」と答えたら、「お互い元気で居ましょう」と添えてから彼はまた走り出して行った。茂みのとっぺんあたりで小鳥の鳴き声が響いていた。木漏れ日が静寂を緑色に染めていた。

それをさっきから思い出していたというわけです。それで僕の薄っぺらな情感の膜が突かれて破れそうになったというわけです。閻魔さまに「東京へ行ってわたしめはいいところを占めておりました」「これで決算できます。わたしめが生きたところはいいところでありました」「人々の情の厚きこと天の川の如し」「へ、いかなりと、なんなりとご処分くださってもらって結構です。文句はございません」そう事後報告が出来るような気持ちに誘われています。大袈裟ですか。そうかもしれません。ときどきこの老爺の性分はへんてこりん。ときおりこうして熱くなりたくなるのでしょう。

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東京は情けが濃いところだったよ

2016年05月31日 09時09分45秒 | Weblog

サイクリングの途中で立ち寄った板橋区仲宿商店街のお総菜屋さんのおばちゃん、ありがとう。ほっとしたよ。東京は情けが濃いところだったよ。こんな老爺にも親切に向き合って、会話を成立させてくれたんだから。客で立て込んで忙しい時間帯だったのに。いい顔をしてたな。触ったわけじゃないんだけど、肌がすべすべして張り切っていた。女将としての風格があった。色白で目が輝いていた。赤子を諭すように丁寧に、時間を掛けて帰り道を教えてくれた。僕はついついふらりと豚の角煮を買ってしまった。ついでにハンバーグも。自転車の前籠にこれを積んで帰り、夕食の肴にして冷えた缶ビールを飲んだ。帰り着くまでに何度か道に迷いそうになったけど、川の潺の音のする方へ戻ってくればそれで解決した。

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同じところを行ったり来たりしている

2016年05月31日 04時28分15秒 | Weblog

おはようございます。都電がふっとかわいそうになりました。同じところを毎日毎日行ったり来たりしているからです。行き先が書いてあってそこへ向かってひたすら走っています。そこへやっと到着すると今度は折り返しになります。ぐるぐるぐるぐる巡っています。でもそれは都電だけではなかったのですね。少し広域にはなるのですが、新幹線だってそうでした。電車はみんな軌道のあるところ、線路が敷いてあるところしか走れませんから、そこをひたすら走るだけです。そうなっているから、それでいいのです。毎日同じところを行ったり来たりしてて、それでいいのです。可哀想だと思う方が間違いなのです。

われわれ人間だってたいして変わりはありません。会社まで、職場までを行ったり来たりして過ごしています。すし詰め電車に揺られながら。もっと行動半径の広い人もいます。自由に線路を選べる人もいます。でも地球を逸脱することはありません。この日常性が破られるときがやがて来ます。するとそこで死者はいきなり完全な自由を手に入れます。ここは単線運転で行き先へ向かうばかりの旅です。

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死者の国からの旅人がかみしめる

2016年05月30日 11時31分59秒 | Weblog

石神井川(しゃくじいがわ)がすっかり気に入ってしまった。両岸はところどころ森だ。古木が鬱蒼と茂っている。小鳥が鳴いている。水量は少ないが潺潺として川底を水が流れている。もう紫陽花も咲いていた。うっすらした空色の花が群れていた。人が小径をしずしずと行き交う。雑踏東京を忘れさせてくれる。東京人は粋だ。こういうところを大切に残しているのだ。僕は、ここをもっと味わいたくて、自転車を降りてしばし憩う。汗を拭く。夕風が吹いて来る。日が暮れそうになるがもっと居たくなる。一人でいたってちっとも淋しくならない。もしかしたら、僕は死者で、僕一人ここへ遊びに来ているのかも知れないなどと思ったりする。死者の国からの旅人は、美しい生活をしている生者を観察する。ほほえましく思う。なつかしく思う。擦れ違う人は僕を死者の国からの旅人だとはちっとも思っていない。僕も思わせていない。なあんだ、死者になってからでないとこんなことも分からなかったのか、と僕は思う。生きていることの暖かさをやっと僕はここへ来て噛みしめている。お総菜屋さんがある。ここへふらりと立ち寄ってみる。生者の列のうしろに列ぶ。そして買い物の楽しさを分けてもらっている。

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東京の真夜中さま

2016年05月30日 04時08分51秒 | Weblog

おはようございます。真夜中さまに朝の挨拶をいたします。いささかヘンです。早すぎますか。でももうすぐ空もしらんでくるでしょう。

おとつい、サイクリングをしているときに、行く手の路上に舞い降りてきた鳩をタイヤで踏みつけてしまいました。避け切れませんでした。殺してしまったかと思いました。鳩はびっくりしたことでしょう。すぐさまばたばたばたと樹上まで飛び上がって行きました。ごめんねごめんねを言って詫びました。産毛がたくさん散りました。さぞかし痛かったろう痛かったろう。あれからどうなったろうかと心配です。

東京の真夜中かさま。あの傷ついた鳩をどうかお癒ししてください。産毛を散らして寒がっているかもしれません。悪いことをいたしました。

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「しゃくじいがわ」だった

2016年05月29日 05時58分53秒 | Weblog

「石神井川」は読めなかった。ジョギングをしている方から「しゃくじいがわ」と呼ぶと教えてもらった。昨日ここには「石神川」と書いてしまった。記憶が曖昧だった。両岸の緑が深かった。こんもりしてた。静かだった。東京を見直した。

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