<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

大悲は常に我を照らす 正信偈を読む ラスト

2020年06月30日 13時07分19秒 | Weblog

仏様の大悲は常にわたしを照らしています。始めから終わりまで照らし続けています。だから安心していていいのです。安心して生き安心して死んでいいのです。わたしたちは他力の中で生きています。自力の賢さにとらわれることはありません。

経典にはそんなことが、すらりと書いてあります。で、眼が止まりません、そこに。読み落としてしまいます。

無条件救済が述べられています。この先で救済するというのではありません。現に今わたしたちは光に出遭っています。照らされています。空気を吸っています。いまここで堂々と救済されているのです。わたしたちはみな一人残らず大悲のただ中に立っているのです。

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大悲は常に我を照らす  正信偈を読む その4

2020年06月30日 13時01分44秒 | Weblog

鼻から吸う空気も同じです。鼻先まで空気の方からやってきてどうぞ吸って下さいと、そういう方式になっています。選別がありません。

悪人善人の区別はありません。区別をするようならそれは仏様失格です。仏様を見る目が、見えている見えていないの違いも問われていません。摂取不舎なのです。一人残らず救済にあずかります。ありがたいですね。嬉しいですね。

自己規定は無用だったのです。わたしに価値があるかないか、わたしが優れているか劣っているか、わたしが賢いか愚かであるか、わたしがいいことをしたかしなかったか、そういうとらわれは不必要だったのです。

雨もそうです。誰にでも降ってきて濡らします。雨の降っている所へ出て行って濡れなかったということはありません。お慈悲は届いているのです。肌までじかに届いてきます。

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大悲は常に我を照らす 正信偈を読む その3

2020年06月30日 12時56分57秒 | Weblog

大悲は仏様のお慈悲のこと。救済の事業。それを光に喩えてありますから、<照らしている>という表現をとってあります。光は区別差別をしませんよね。無条件です。すべての存在を照らしています。わたしが悪人をして生きているから、「わたしは照らされない」というようなことにはなりません。仏様のお慈悲の働きも無差別です。条件がつけられていません。

よかったなあと胸をなで下ろします。でなければ、わたしが真っ先に外れてしまうところでした。わたしも摂取中だったのです。だから堂々としていていいのです。

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大悲は常に我を照らす 正信偈を読む その2

2020年06月30日 12時52分57秒 | Weblog

(ここからわたしなりの受け取りをこころみます)

極重の悪人(のわたし)は(自力のおごり・とらわれを捨てて)唯(ただ)(ひたすらに仏に向かい合って)仏のみ名を称えます。(ほかの手立てはありません)。

(上善人の人たちだけではなく)わたしも亦(阿弥陀仏の)摂取不舎(=すくい取って一人ももらさないこと)のまっただ中にありました。

(唯惜しむらくは)煩悩に障(さ)えられたわたしの眼には、(わたし宛の仏陀の救済のはたらきが)見えてこないのですが、

(有り難いことに)(阿弥陀仏の)大悲(の光明)が倦まずたゆまず、(手を緩めることなく)(一切無条件で)わたしを照らし(続けて)います。

 

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大悲は常に我を照らす 正信偈を読む。その1

2020年06月30日 11時37分02秒 | Weblog

極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我    

浄土真宗経典「正信偈」より

ごくじゅうあくにん ゆいしょうぶつ がやくざいひ せっしゅちゅう ぼんのうしょうげん すいふけん だいひむけん じょうしょうが

 

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わたしたちは始めから終わりまで守られている 阿弥陀経を開く

2020年06月30日 10時07分50秒 | Weblog

汝等衆生 当信 是称賛不可思議功徳 一切諸仏所護念経       仏説阿弥陀経より

にょうとう しゅじょう とうしん ぜしょうさん ふかしぎくどく いっさいしょぶつしょごねんぎょう

汝等 衆生よ 当(まさ)に信じよ、(阿弥陀仏の)この不可思議な功徳を称賛し、一切の諸仏が護念するところの(阿弥陀)経を。

ここにおられるみなさん どうか信じて下さいね。阿弥陀仏の不可思議なすぐれた功徳(衆生救済のために極楽浄土を建設されたこと)をわたし(=釈迦牟尼仏)が褒め称え、また(東西南北上下世界の)たくさんの仏陀が護念しているこの阿弥陀経の経典が説いているところ(=往生成仏)を信じて下さい。そして心安んじて下さい。わたしたちもみなこうして始めから終わりまで称賛され護念されているのです。守られて導かれているのです。

経典は、みなわたしたちに語られています。現在の私たちに、わたしに語られています。仏陀がわたしに語りかけているのが経典です。

安心して生きて下さい、安心して死ぬことができます、ということが口を酸っぱくして、手を変え品を変えして、諄々と語られています。

それを信じるか信じないかはこちらの問題ですが。(信じなくても、しかし、いいのです。信じた者のみが救われていくということはありません。仏陀の法の前では、無条件ですから)

 

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ここはやはり悩み多き娑婆世界

2020年06月30日 09時56分43秒 | Weblog

雨に濡れたカラスが我が家の西瓜畑に降り立っていました。

見つけたのでパンパンと両手を打ち鳴らして追い立てました。

畑には黄色い細い糸を張り巡らせています。

地球儀の半分の大きさの透明カプセルもかぶせています。

でもカラスは賢者ですから、すぐにからくりを見抜いてしまいます。

人間の浅知恵を笑ってかあかあと鳴いてギャング団よろしく西瓜泥棒をやってのけます。

かといって、西瓜畑に四六時中、見張り番をしておくこともできないしなあ。

持てる者の悩み。西瓜なんか作っていなければこんな悩みもこしなえないですんでいたわけですけど。

持てば持つで悩み苦しむ。持たなければ持たないで悩み苦しむ。

ここはやはり悩み多き苦しみ多き娑婆世界であったなあ。

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鞠のように弾んで飛び立っていった

2020年06月30日 09時52分03秒 | Weblog

おやおや、やってきたよ。これはカップルだよ。

仲良くついばんでいる。餌場に撒いたくず米をついばんでいる。

ときどき顔を上げて、食べるのを中止して、こっちを見ている。

小雨が降っている。

あ、もう腹一杯になったかな。こころ満ちたのかな。

まだ見るからに若そうな雀の夫婦が、鞠のように弾んで飛び立っていった。

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疑問が生じた。こういう疑問。

2020年06月30日 09時25分32秒 | Weblog

疑問が生じた。こういう疑問。

サツマイモや里芋やジャガイモなどは緑色の葉っぱで光合成をしてデンプンを地下茎に貯蔵する。貯蔵ができる。いざというときにはこれに頼ることができる。これは栄養分になる。次の生命体がここから生活をスタートさせることもできる。

カボチャにはカボチャの実がなる。ズッキーニにはズッキーニの実がなる。西瓜には西瓜の大玉が完熟する。樹木の梨や柿やブドウにも果実が実る。甘い果糖が貯蔵される。

山々は緑色をしている。これは草木が葉を緑にしているためだ。この緑の葉をつけた草木は、しかし、貯蔵をしない種類がある。

是はなぜか。これが今日の僕の疑問である。しないでいい理由があるためだ、ということは分かる。その、しないでいい理由とは、では、なんだろう?

幹を太らせておくことで十分なんだろうか? 根を太くして地中に埋めておくだけで十分としているのだろうか? そもそも貯蔵するという発想がないのだろうか? すんなりしているだけの草木も見かける。

どの草木も次の代の生命を育むために種子をつける。種子の周りに、その種子が根を出して発芽していけるだけの栄養素は準備しているはず。それが巨大化していないだけなのだろうか。

これは植物学の専門家の知恵をお借りしなければならないだろう。僕は無知だからこのへんのことも分かっていない。

サツマイモやジャガイモは、人間が人間に都合のよいように、人間の食料にできるようにと遺伝子操作をしているからだろうか。本来は、では、サツマイモもジャガイモもすんなりほっそりとしていたのだろうか?

貯蔵しないでいる姿が、草木の本来の姿なのだろうか?

あれだけ山野にあふれる草木が、せっせと毎日光合成をしておきながら、いったいそれをどうしているのだろう? 「必要な分だけの電力」の扱い方をしているのだろうか?

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今日も雨なので畑に出てはいけない。

2020年06月30日 08時58分40秒 | Weblog

九州地方全体には大雨警戒情報が流れているが、当地は降ったり止んだりしている。降っても豪雨とまでは行かないで済んでいる。

雨が小雨になった時を見計らって庭に出た。庭先の雀の餌場にくず米を撒いて来た。どさりと。雨が降っても水につからないような工夫をして。

ところが、今朝は雀たちが顔を見せない。朝ご飯はよそですませたのだろう。今の時期には毛虫青虫がたくさん生まれているから、すぐに発見できるだろう。

さて、今日もこの雨では畑には行けない。畑仕事はできない。サイクリングにも行けない。何をして一日を過ごそうか。やはり読書するしかないか、好きなクラシック音楽を聴きながら。

ベランダに鉢植えの朝顔が咲いている。大輪の種を蒔いて育てたのだけれど、大輪にはなっていない。でもそれはそれでまたかわいい。10鉢もあるから、色とりどりに咲いている。

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