<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

超怠け者の誕生日

2007年03月26日 10時26分44秒 | Weblog
 本を読む気にならない。外は春。春があふれていて、あふれる春につきあっていると時間はたちまちに日暮れている。障子を閉めて本を読むしかない。春の怪気炎に対抗できるほどの書があるか。あるにはあるだろうが、途中まで読んでいて、ほっぽりだしてしまう。つまらなく思ってしまう。そしてまた外へ出て行く。草が萌えている。草が花を着けている。一本二本の数ではない。家の周囲はみな春だ。どれにも念入りに挨拶をして回っているとたちまち昼、たちまち夜だ。夜は疲れて酒を飲んで読書をしないで寝てしまう。超怠け者のぼく。ぼくは今日62才の誕生日。家族から昨晩のうちに、誕生プレゼントをもらった。縞縞シャツ。ハンガーに吊している。怠け者がハイカラを身につけるのは、ちとそと恥じられる。
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ユリきちがい

2007年03月21日 10時51分15秒 | Weblog
 今日は春分の日。昼が夜の長さになる。うれしい。それだけ長く庭に出ていられるから、うれしい。庭のあちこちに、鹿子ユリがあたらしい青い茎を伸ばしている。それを見ている。ほとんど一日中見ている。飽きないで見ている。成長をしていくのが嬉しい。一日ずっと見ていたってそんなに見る間に成長をしていくわけではないけれども、それでもいい。夜は、枕元に小さな鉢を置いて、小さな子どものユリを見ている。灯りをつけて見ている。そして眠る。花にはあまり興が乗らない。花よりも花に至るまでの茎の成長過程が好き。興味関心のない家族の者は、ばかげたことをしている父親を、もはや為す術がないとあきらめて、非難もしなくなった。椅子を持っていってユリの前でずっと見ている。何を見てるの? と訪ねてくる人が声をかける。目の前には草丈10cmほどの一輪の草しかないのだから、変に思うのも無理はない。
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朝の空を見ている

2007年03月20日 09時56分35秒 | Weblog
朝の空がきれいだ
空を見ている

空は空いろの単一色
雲はない

朝日に輝いて明るい

明るいということだけで
これでもう完成品である

見ているだけでいい

加えるべきなにものもいらない
目に掬っていただくだけで
おいしい

目に掬って空をいただく

空は胃にもたれない
滓も残らない
どれだけ食べても
こちらの斤目が増すわけではない

神の登場を待たない
如来の登場を待たない

わたしの朝に
朝の空が広がっている

愛する人といっしょに見なくとも
美はすでにすっかり成立していて
動じることがない

空を仰いでいる

雲雀が鳴いて駆け上がるが
余計なことである
シェレーの詩を吟じるのも
やはり余計なことである

わたしは
わたしの朝の
朝空を見ている
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千手観音ご開帳

2007年03月18日 09時13分01秒 | Weblog
 新聞に千手観音ご開帳の記事が載っていた。唐津市夕日義宗寺の千手観音である。ご開帳は17年ぶりとある。昨日今日までとあって急ぎ拝みたくなった。これから行ってみる。仏像を見ることがとても好きである。恭しく拝むことはもちろんである。
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ヘメロカリスを株分け

2007年03月17日 22時57分37秒 | Weblog
 ヘメロカリスは甘草によく似ている。発芽した新緑の姿形がそっくり同じである。花売り業者が、野道の甘草を観賞用に造り替えたものかもしれない。甘草よりもヘメロカリスは胴と首が長い。一重咲き。

     *

 秋に肥料をたくさんやっていたので、今年の発芽の数は多い。地植えを掘りあげて大きめの鉢に移してやった。株分けをして増やす。ヘメロカリスは朝顔みたいに一日花である。6月頃になると毎朝、新しい花をつける。これを見に行く。見て誉める。「きれいだねえ、きみは」と褒める。
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椿の花の花蜜はおいしいか

2007年03月13日 12時39分03秒 | Weblog
@ 切って食べさせる蜜柑がない メジロが鳴いて鳴いて    釈 応帰

      *

 椿の花の花蜜を吸っているらしい。メジロは葉の陰になって見えないが、ゆらりと揺れる枝がある。ずっと食べさせていた蜜柑もどうやらおしまいのようだ。椿の花の花蜜はおいしいか。ほんのわずかな花蜜だろうに。
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悪人を先ず救うというのが仏である

2007年03月03日 12時06分58秒 | Weblog
「善人なおもて往生をとぐ。いわんや悪人をや。」歎異抄の悪人正機説である。

     *

 この世で善をなした人でさえも阿弥陀仏の浄土である極楽へ往生することができる。だったら、悪をなした人がどうして往生できないはずがあろうか。悪をなした者こそがもっとも阿弥陀仏の正機(目当て)である。阿弥陀仏は苦しみ悩む者を救うという願いを建てられた方なのだから。・・・というのである。

     *

 川に溺れている者を助けるのが先のはずである。この世の地獄の川で溺れているのは悪人である。善人は上手に川を泳ぎ切っている。土手に立って見ているわれわれだって、溺れている人にまず浮き袋を投げるだろう。まして仏である。泳ぎの巧い人を助けるのは仏のする仕事ではない。

     *

 善人は自力で浄土に往生できる人のことである。悪人は自力ではとても往生はできない。他力つまり仏の力を頼むしかないのである。わたしの力ではどうにもならないと諦めた者に仏の力が宿るのであろう。ああ、よかったと思う。悪人正機が用意されていなかったら、死ぬに死ねないところだった。
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