<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

如来、我が往生を定めたまへり。

2023年06月30日 16時54分08秒 | Weblog

仏の方より往生は治定せしめたまふ。そのくらゐを、一念発起入正定之聚と釈す。

御文章より。

ここを読んでわたしはにっこりします。わたしがわたしを仏国土往生させねばならないとしたら、これはお手上げ事項でしたが、このお仕事は阿弥陀仏のお仕事でした。

正定之聚(しょうじょうしじゅ)とは、<この世に居ながらにして、仏国土往生がはっきりと定まったと確信できた人の集まり>ということでしょうか。阿弥陀仏のハタラキによって往生が定まった人たちは、安心の一念を発起します。信心歓喜の同朋同胞となります。

阿弥陀仏がこのたびのわたしの仏国土往生を、無条件で、定めてくださったのですから、もう不安は消えてしまいます。条件が付いていません。条件が付いたら、わたしはたちどころに除外の対象になってしまいます。阿弥陀仏がわたしを救うと願いを起こされたのです。願いは成就しています。わたしはそれを受理するだけでいいのです。念仏を唱えるのは受理の確認です。

・・・とかなんとか、またまたわたし流の解釈をしています。あちこち間違っているかもしれません。

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仏とわたしはワンセットである。

2023年06月30日 14時21分14秒 | Weblog

此処は無仏の此処ではない。わたしがいるということは、其処に仏がいるということである。

仏とわたしはセットなのである。お母さんとわたしがセットであるように。

だから何処へ行こうと、何処で何をしようと、どうなろうと、セットが解体されることはない。

わたしが生まれたところには仏が生まれているのである。わたしが死んで行くところ、死んで新しく生まれるところ、そこもやはり仏が生まれている世界である。

つまり、わたしと仏は行動活動がいっしょなのだ。

煩悩のわたし、苦しい悲しいわたしがいなければ、仏は仏を解任されてしまうしかないのだから、大きな顔をしていていいのである。捨てられるということもないから、安心していていいのだ。

いづこへもわれは行かましみ仏の いましたまはぬところ無ければ     岡本かの子

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み名をとなふる我が声は、

2023年06月30日 13時53分58秒 | Weblog

み仏のみ名をとなふる我が声はわが声なれどとうとかりけり      

甲斐和里子

仏を思って仏を呼ぶ。我が声で仏を呼ぶ。南無阿弥陀仏と唱える我が声が、そのまま尊い阿弥陀仏になる。

あり得ないことがあり得ていることに驚く。我が声でわたしと阿弥陀仏が等しくなってしまうのだ。同一になってしまうのだ。そんなことがあるか、と疑いたくなるが、そうなっている。

南無阿弥陀仏の南無はサンスクリット語<ナーモ>を漢訳した語で、<帰命する>という意味だ。<全託する><全託して悔いない>ということだ。

阿弥陀仏はサンスクリット語の漢訳語。無量寿無量光仏。思量が出来ないほとの不滅の時間を生きて、思量が出来ないほどの大悲の智慧を放って、煩悩のわたしたちに向き合っていて下さっている救済者の謂いである。

煩悩のわたしを救済するパワーを持つ救済者が阿弥陀仏である。わたしは孤独者ではないのである。わたしが此処に居なければ阿弥陀仏も此処にはいないのである。わたしがここに生きているということは阿弥陀仏が此処に生きているということに等しい。

・・・などなどと、僕は推論する。推論が推論で終わらないで、声になる。生きて、念仏の声になる。

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それでも向上を図ろうとしている。

2023年06月30日 13時37分00秒 | Weblog

瓜の蔓が、目をこしらえて、猪避けの柵の、編み目を見つけて、攀じ登ろうとしている。雨が激しく降っている。雨が、瓜の蔓を打ち付ける。それでも一心不乱に、上空を目指して、向上を図ろうとしている。植物とは言え、すこぶる健気(けなげ)だ。

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鬼になっているしかないのだが、

2023年06月30日 13時24分13秒 | Weblog

美しい風景の中に居る。美しい風景の中に居るわたしを、眺めてみて、それを成立せしめ得た多くのプラスの条件を思う。

それで十分足りていいはずだが、そうしないでいるわたしも発見する。欲の深さにぞっとする。

与えられても与えられても不足を覚えている己は、鬼だと思う。

鬼になっているわたしだが、それでも美しい風景を見ている。

悲しいことが沢山ある。苦しいことがたくさんある。だから、鬼になっているしかない。悲しんで悲しんで、苦しんで苦しんで、鬼になっているわたしが居る。

鬼の目に涙が浮かぶ。美しい風景の中にいられるわたしが愛しい存在に思えて来る。鬼の目に涙が浮かぶ。涙目が見ている風景が美しさを増して行く。

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悔いてばかりで老いた。

2023年06月30日 13時09分07秒 | Weblog

ああしすれよかっただろうに、と悔やむ。

こうすればよかっただろうに、と悔やむ。

でも、そうしたところで、解決を得たことにはならない。

悔やんで、いいことはない。

のに、悔やむ。悔恨に捕まる。動けなくなる。硬直現象を起こす。じめじめする。泣きたくなる。

ああすればよかったのに、と悔やむ。こうすればよかったのに、と悔やむ。

悔いてばかりで老いる。弱る。

そこまで来てやっと、悔やんだところでどんな解決にもならないということを学習する。

ある日、ふっとそこから開放される。自由になる。軽くなる。そういうときが来る。

人生を讃美すればいい、ということを知る。

しかし、そこに留まり得ない。

仕方がない。わずかに残っているエネルギーを、風景を讃美する努力に回す。

鉢植えの朝顔が咲いている。玄関を出て朝顔の前に立つ。

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浅くも深くも生きられるかもしれないけれど、

2023年06月30日 13時02分10秒 | Weblog

浅くも深くも生きられるのかもしれない。

でもそれで、損得の違いはないのかもしれない。浅く生きたとしても、深く生きたとしても。

どちらでもいいのかもしれない。

浅く生きたからよかったということもあるだろうし。

深く生きようというのは、それはただ欲の深い人の生き方なのかもしれないし。

今此処を足りていれば、浅さも深さもないのかもしれない。

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早晩、ブログも書けなくなる日が来る。

2023年06月30日 12時51分23秒 | Weblog

こうしてブログ投稿をしているが、いつこれが止むかは分からない。何がいつ起こるか。体調をいつまで維持できるか、これも分からない。しかし、早晩、書けなくなる日が来るだろう。

生きているうちにしか書けないのである。当たり前だが、死んだら書けないのである。

書いたから、しかし、それでいくばくかでも、社会貢献ができたということでもない。

わたしは生きています、生きているからものを思っています、ということをわたし自身に認知させているだけなのかもしれない。

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大雨が続いて、スマホに避難情報が流された。

2023年06月30日 12時43分53秒 | Weblog

気温はそう高くないのだが、湿度が高いからだろう、体がべたついている。シャワーに入ったらよいだろうが、面倒を覚えている。

我がふるさとは避難情報が流された。大雨洪水警報が出ている。よく降る。小雨にもなるが、また土砂降りに戻る。激しく打ち付けられた隣家の瓦屋根に、飛沫が舞い上がる。

わたしは老爺だから何処にも行かずに済むのだが、仕事に出掛けねばならない人は、お困りだろう。被害に遭わないうちに、どうか早めの帰宅をしてほしい。

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植物は、体の一部分から、全体を再生させる能力を持つ。

2023年06月29日 18時08分22秒 | Weblog

苗物屋さんに立ち寄った。西瓜苗は、しかし、もう売られていなかった。

西瓜苗は、1月ほども前に、もう10株ほども、我が家の畑に植えている。西瓜は実って猫の頭の大きさを超えている。

畑の一箇所に、ぽっかり空いている場所があったからだ。此処に何かを植えてあげようと思ったのだ。遊ばせておくのはもったいない、と。

畑にあいすまない、と。

西瓜苗が手に入らないのなら、どうしよう。

早くに植え付けていた薩摩芋の蔓が、畑の畝で、力強く伸びてきている。

これを摘んで、畝を盛り上げて、植え付けてみよう。そういう案を思いついた。

植物は、部分で、全体を再生する能力を持っている。神業を持っている。感歎する。

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