黙々と、黙々と畑仕事をしていた。外の気温は15度cだから、寒くはない。ジャンパーは脱いでいい。まずは草取りをした。それが済んで耕して、(鍬を使うと腰痛を招くので、小さな移植鏝を使ってだから、まったく捗らない。でも、いい。急ぐことじゃないから。慌てることはない)そこにジャガ芋を植え込んで行った。牛糞の施肥をしながら。時間は可成り費やしたが、仕事量は高が知れていた。夕方6時になって切り上げた。でもそれからでも、することがある。ブロッコリーの脇芽を摘んで来た。それからアネモネが鉢に咲いたので、これを玄関に移してあげた。できるだけ多くの人に見てもらえるように。
「兄さん、そっちは仮の世で、こっちがほんものだったよ」「こっちへ来てみてそれが分かったよ」などとメールを寄こしてこないかなあ。死んでしまったら、たしかにこちらではもう弟の元気な姿は見られなくなった。それを悲しいと思っている。逝かれてみればさみしい。ひょいひょい淋しい。ひょいひょい風が吹いてくるように、淋しさが風になって吹いてくる。僕は、ここがほんものと思っているので、本物の世界を去った弟を悲しがっているけど、行った先で弟が、「兄さん、そっちが仮の世で、こっちがほんものだったよ」「僕は此処へ来てよかったよ」「此処は真如界。いいところだよ」などと報告をしてくれたらどんなにこころ安らぐだろう。死後の世界とはそうあってしかるべきだ、仏陀の世界だから、そこに辿り着けた弟は喜色満面にして楽しく暮らしているはず、などと僕は漠然とそんなふうに当て推量をして、確信に近づいたようにして、己を慰めては居るのだが。そっちにも紅梅が咲いているのだろうか。クロッカスは黄色い色をしているのだろうか。もう山林の斜面の落ち葉の下から福寿草が顔を見せてるだろうか。
おっはよう。そう言いたくなってそう言ってみた。これは弟が我が家に来るとき、玄関先を歩いて来るまでに、踊ったような足取りをして、少し高い声で乱発する口癖みたいなものだった。それを屋内で聞きつけて、「お、弟だな。やって来たな」というふうに感知したものだった。それを言ってみたくなった。やや素っ頓狂に恍けたようにして。
今朝は春の光が外に跳ねている。霜が降りて、夜明け方寒かった。お布団の中で縮こまった。
弟は、上がってしばらく台所のテーブルの椅子に座ってなにやかやとお喋りをして、帰る頃に、「白菜をくれんやあ」「高菜をくれんやあ」「大根を抜いて行くよ」「フカネギがおいしかろうね」などと言ってねだりものをした。こちらも「どうぞどうぞ。よかしころ取っていかんやあ」などと対応した。
その「おっはよう」が聞こえなくなった。こちらで再現してみるしかない。生きている内にもっと大切に扱うべきだった。飲めない酒でも飲ませてあげるべきだった。そうしなかった。そのうち病が進行してうまいものも喰えなくなってしまった。体に悪いからなどとさもさも医者が言うような台詞を吐いて、食べさせなかった。それやこれやが悔やまれる。いまになって悔やまれる。
どうしているのかなあ、弟は。この世を死んでしまっても、あの世を生きているはずである。そこでも「おっはよう」を飛ばす相手がいるのかなあ。
人はみな高みへ高みへ昇っているようだ。天空へ無数の階段が立ち上がっている。どれも螺旋階段のようになっていて、それがみな渦潮の渦に見えている。
15)見ている僕と見られている僕と、更にその図を見ている僕というふうに僕が縦列横列に列んでいる。
16)その僕がみんな励ましている。ねぎらっている。背中を押している。彼らはみんな精神界の中で増殖した僕のようだ。
17)僕の姿が見られているということはどういうことだ? 見られている方の僕はまだ物質を保っているのかもしれない。
18)・・・・ これは今朝の僕の内的イメージである。
19)イメージを楽しんでいられるほどに、僕は寛いで、広々となって、やけに落ち着きがあって、やれやれ、のんびりしたもんだ。
20)実は、こう。こういうことをはっきりさせようとしていたんだった。つまりこの位置、今日の現在地点、朝の珈琲を飲みながら書斎に座っている自分がその高みに届いていた自分であったってこと。それを。
21)それをはっきりさせようとしていたのだ。ここまで登り詰めてきている自分だったってことを再認識させておこうと思ったのだった。おしまい。
8)耳に「おおい、おおい」の声がする。誰の声なんだろう。僕の魂なのだろうか。体内のあちらこちらで快感ホルモンがどっさり分泌されているらしくて、ここちよい。ひどくここちよい。
9)「1000段の階段がもう1000回続いてもそこで行き止まりにはならないから、安心して昇って来て下さい」という標識に書いてある。それを読む。安心していいなら安心をすることにしよう。
10)行き止まりがないということはどういうことなんだろう。無限大ということなのだろうか。無限の高さということなんだろうか。どうして僕をここへ、この高みへ引っ張り上げて来たのだろう。
11)意図を探りたくなるが、はっきりしていない。ただやたらとドパーミンやアドレナリン、βエンドロフィンが分泌されるので僕は瞑想状態の僕のようにハイになっている。
12)達成感もある。成就感もある。孤独感はない。誰かがしきりに話しかけてきている。静寂を保つほどの音楽も鳴っている。
13)僕の送受信の波動も明らかに高くなっているので、いやにすっきりして、温かみがあって、もうかれこれ雑念のようなものに邪魔されることもない。
14)僕は1000段上がるごとに僕の変化を楽しんでいられるようだ。そういう僕が僕に見られている。
1)天空へ石段が1000段続いている。そこまで登り詰めるとまたそこから1000段の石段が続いている。
2)それを数十回。もう随分高い。息がふうふうする。一休みしたあとへ更に1000段が続いている。綿雲のところまで来た。
3)雲を抜ければもう石段はないかと思っていたが、まだある。手招きをしている手も見える。
4)左足麻痺の僕は杖を突いてでないと上っていけないので、時間が健脚の人様の倍の倍かかる。とぼとぼとだが、意欲は衰えない。次の1000段を昇る。
5)ここまで来ると大きな青い海が眼下に遠く見渡せる。ここで一服。お茶が運ばれてくる。これを飲み干す。もういいだろうと思う。空がぎらぎらして眩しい。
6)でもそこにもまた1000段が設けられている。勾配はそれほど険しくもない。螺旋階段ふうに捩りながら上を目指すことになる。すたこらすたこら登り詰める。
7)地上の風景の何もかもが小さくなっている。1000段の石段の500回目の頂きに出る。この踊り場で小休憩。
おはようさん。東の空を昇って来た大陽さん、おはようさん。僕の書斎の障子戸を明るく照らしている光さん、おはようさん。そおおっと障子戸を開けると、今度はそこに庭が開けていて、朝の紅梅が咲いている。うつくしい紅梅さん、おはようさん。目を挙げると祇園山のこんもり木立が緑色にしっとり濡れている。わたしの前にすでにもうちゃんと展開しているさわやかな朝の風景さん、おはようさん。生きているわたしのための生きている時間と空間さん、おはようさん。今日は日曜日。朝食はまだ。万事が安定を得て、ゆっくりゆっくり動いている。それに倣ったようにして、僕に付随したスピリチュアルワールド、精神界も至極安定をしている。
ああ、そうだったね。おいしいとこ取りをしていればいいようにしてあったんだ。お膳立てはみんな済んでたんだ。そこへ僕が誕生する。僕は、僕の誕生を喜べばいいようにしてあったんだ。僕が誕生するまでのさまざまな経過なんてひっくり返さなくて、何にも蒸し返さないで、いまのそのままを喜ぶことがスタートだったんだ。そこからスタートをしていいよって。いいとこ取りをしてもいいようにしてもらってたんだ。上前をはねるなんて言葉があるけど、それをちゃっかりやってたんだ。緑の山をよろこぶ。青い空をよろこぶ。深い海をよろこぶ。涼しい風をよろこぶ。明るい光をよろこぶ。さあどうぞどうぞって。よろこびが出来上がっていますから、あなたはそれをお食べ下さい、どうぞどうぞ好きなだけよろこんでいていいのですよ、という具合に。何もかも準備は整って完了していた。僕が喜びからステート出来るように、何もかもが整えられてそこに列んでいた。後は僕がそれをよろこぶだけになっていたのだった。そういう完了の中に居る自分を僕はよろこべばよかったんだった。事実は完了していた。僕は感情だけで生きて行けたのだった。それを感謝する感情に埋もれて生きて行けるようにしてあったのだった。
一人で嬉しがっていればそれでいいのである。人から見たらそんなことは嬉しがることではないと思われるようなことでも、当の本人がそれを嬉しがっていれば、それは確かに嬉しいことなのである。これでなければ嬉しがれない、嬉しがってはならないなどということはないのである。何をどれだけたくさん嬉しがるか、それは個々人の全くの自由裁量なのである。
昔、峨眉山山中に一人の隠者が住んでいた。この男は始終笑い転げている。貧しい暮らしだし、粗末な服しか着ていないし、贅沢ができそうな財産もなさそうだし、王族の生まれというわけでもないし、とてもとてもそんなに笑い転げるほどの幸福材料などはあるはずがない。そこでそれを不審に思った役人が遣いをよこして問い質させた。
何を喜んでいるのか、と。何がそんなに嬉しいのか、と。何が汝を笑い転げさせているのか、と。見れば着ている服もずたずに破けている。それを荒縄で縛り付けて帯としている。何処からどう見たって、幸福材料の量が人より抜きん出ているふうには見えない。ただ瞳がらんらんと輝いていて明るい。瞳が太陽のようだ。あたたかい。
男はやおら答えた。儂には笑っていいことが三つだけある。いやたくさんたくさんあるのだが、今のところはこの三つだけで足りている。笑い転げるにはそれで十分だ、と。一つ目は、儂は人間に生まれた。二つ目は、儂はここ峨眉山を我が住まいとしていられる。三つ目には、儂はこの通り今日を生きている。と。遣いは、「そんなことだったら、自分もその三つともみんな叶っている、だがそんなありふれたつまらないことでは笑う気にもなれない」と言い捨てて、がっかりして戻って行った。
事ほどさようなのだ。笑える者もいるし、笑えない者もいるのだ。人が隣からちょっかいを出すことでもないのだ。笑おうと思えば何だって笑えるのだ。春風が吹いてきただけでも笑えるし、そこに梅が香っているだけでも嬉しがれるのだ。