<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

わたしたちは等覚体

2016年01月05日 21時48分04秒 | Weblog

与えられているものの総量は同じですから、やっかまなくてもいいんです。分かりやすい話、それを10回に分けてあるので、一回一回の多い少ないが気になってしまうのですが、10回生き死にをしてその全体量を測ってみると等量になっています。おこってほしいことも等量、おこってほしくないことも等量。幸福も等量、不幸も等量。裕福も等量、貧乏も等量。そうでなければ宇宙の愛が成り立たなくなってしまうからです。与えられているものはみな与えていかねばなりません。与えるためにはどんなことだって引き受けて体験しなければならないからです。与えられているものの総量は与えるものの総量です。みながそうやって等しく循環をして行きます。やっかまなくてもいいんです。驕ることもないんです。僻むことも蔑むこともありません。雨が大地に降った分はやがて蒸発をして空に帰って行きます。光を受けた万物は成育をして長い間で役目をすべて果たして行きます。わたしたちは等覚体です。平等一如の菩薩体です。全体で等しく進歩を辿って仏陀に近づいて行きます。

さぶろうは今日はここまでを考えました。間違いがあるかもしれませんが、もうやすみます。

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世の中捨てたもんじゃないよ

2016年01月05日 21時06分53秒 | Weblog

ふんだんにはないからなあ。遊びに行けないなあ。しばらくドロンをしたいのだけど、そういうわけにもいかないなあ。あるべきものがないとなあ。お金持ちだったらこういう悩みはないだろう。行きたいとなったら即行動が出来るだろう。待てよ、お金がなくてもドロンが出来る方法があるんじゃないのかなあ。ドコデモドアを借りてくるといいんじゃないかなあ。無料で。無料では貸してくれないかなあ。じゃ、足揉み肩揉みくらいはサービスしてもいいけどなあ。揉みは父親殿に毎晩ずいぶんやらされたからなあ。まだ効くと思うよ。ドコデモドア貸し屋さんの足や肩も凝っているだろう。あちこち走り回っておいでだろうから。さぶろうの握力は、この鍛錬のお陰で60kg握力もあるよ。たいていの凝りはもみほぐせるよ。なんて吹聴してもダメかなあ。さぶろうの詩がお金になってくれたらいいけどなあ。そうするとしばらく、5~6日くらいならわけなくドロンが出来るんじゃないかなあ。夢みたいな話だね。

「世の中捨てたもんじゃないよ」   李白黄

おいらのいいところを/買ってくれませんかね/いいところがなんにもないって/いいところだと思うんだけどなあ/そこを高価でぽんと買い取ってくれる人/そういう人だっていてくれるはずなんだけどなあ/世の中広いからね/世の中広いからね/捨てたもんじゃないんだよ/

辛抱して辛抱しているんだよ/いいところを出さないでいようとするのは/そりゃ難しいことなんだよ/出したいのを出さないでいる/こりゃ辛抱がいるんだよ/空白は虚心/虚心空白は量子力学の最大凝縮点/無は万有の蔵だ

おいらの万有の蔵を/買ってくれませんかね/蔵を開けたら/万有が飛び出してくること請け合いだ/そこを見てとってぽんと大金はたいてくれる人/そういう人だっていてくれるはずなんだけどなあ/世の中広いからね/世の中広いからね/世の中捨てたもんじゃないんだよね/

 

 

 

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朝に起きて世の荒穢を理(おさ)む

2016年01月05日 18時59分51秒 | Weblog

「帰田園」  陶淵明

種豆南山下/草盛豆苗稀/晨興理荒穢/帶月荷鋤歸/道狹草木長/夕露沾我衣/衣沾不足惜/但使願無違/

豆を種(う)う南山の下(もと)/草盛んなれば豆の苗は稀なり/晨(あした)に興(お)きて荒れ穢(つち)を理(おさ)め/月を帯び鋤(すき)を荷(にな)いて帰る/道狭くして草木(の影)は長し/夕べの夜露は我が衣を濡らす/衣の濡るるは惜しむに足らざれども/ただ願をして違うことなからしめよ

大好きな陶淵明の詩を取り上げます。わくわくします。

ほ。大好きな詩人さまは南山が見える麓の田畑に出て豆を植えておられたのか。ふうう。草が生えて生えて育ちが悪かったのか。ほほう。朝から畑に出て鋤を使って荒れた土地を耕しておられたのか。夕方、月が出るまでも精を出されたのか。田畑に通じる小径には草木の影が影を落としていて歩きにくかったであろう。夜露が足元の衣を潤してしとしとになってしまう。それはいい。それは我慢が出来る。ただ我には道教の道士としての利他の願がある。これだけは通さねばならぬ。豆を植えるのもこの願の実践である。この豆でまずは家族を、それから広く世の中を養わねばならぬ。「荒れた穢(つち)」をそのように解釈してみました。「沾」は「潤すこと」でしょう。

「願」の内容はさぶろうの当て推量です。彼は隠士。老子荘子の教えを信奉しているからこその隠者である。世に出ることを嫌っているのではない。隠者としてするべきことがあるからである。濁りの世を澄ますには泉の水が湧き出しておらねばならぬ。この労を執れるのは隠者に他ならない。

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隠者暮らしにゃ無関係

2016年01月05日 18時36分13秒 | Weblog

「春暁」   孟浩然

春眠不覚暁
処処聞啼鳥
夜来風雨声
花落知多少

春眠暁を覚えず、
処処に啼鳥を聞く。
夜来風雨の声、
花落つること知んぬ多少ぞ。


春の夜の眠りは心地よく、朝が来たのにも気づかなかった。あちらでもこちらでも鳥が啼くのが聞こえる。昨夜は一晩中、雨まじりの風が吹いていたが、花はどれくらい散ってしまっただろうか。     (さぶろうの訳ではない)

井伏鱒二の訳はこうだ。

ハルノネザメノウツツデ聞ケバ
トリノナクネデ目ガサメマシタ
ヨルノアラシニ雨マジリ
散ッタ木ノ花イカホドバカリ      (井伏鱒二著「厄除け詩集」より)

起きて働く真面目氏に/くらべりゃ、遅い春の朝/鳥の鳴く音で目が覚めて/酔いどれ眼で外を見りゃ/よっぴいて雨だったよう/どれほど梅が散ったとて/隠者暮らしにゃ無関係/

(彼は大酒呑み。世に容れられなかったのだ。昨夜は酒でも飲んでいたのだろう。少々はひねくれてもいただろう。さぶろうもひねくれのところで通い合う。それでこんな訳を試みてみました)

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駱駝が父と砂漠から来る

2016年01月05日 18時18分33秒 | Weblog

ラクダという厚手の下着には重宝する。防寒着だ。さぶろうは37年前に死んだ父親のそれを着込んでいる。まだ立派にしている。ときおり父親を思い出すにはいい材料だ。ラクダシャツは駱駝の毛から製した毛織物。いまは化学製品で嘘物。色だけが駱駝色をしている。現代は肌にぴったりする超薄物が流行しているようだ。

駱駝シャツの父を着込んでおりまして駱駝が父と砂漠から来る   李白黄

砂漠からはるばる来てさぶろうを温めております、この冬も。厚手の防寒の奥の奥に父の匂いがまだする。

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梅花はまだ

2016年01月05日 17時39分32秒 | Weblog

「洛陽訪袁拾遺不遇」   孟浩然

洛陽訪才子
江嶺作流人
聞説梅花早
何如此地春

「洛陽にて袁拾遺を訪(と)ふて遇はず」  孟浩然(689~740)


洛陽に才子を訪ねたれば
江嶺(こうれい)の地に流人と作(な)るらし
聞くならく彼の地は梅花早からん
此の地、洛陽の春に比していかならんか   (いい詩だなあ)


洛陽に才能あふれる友人袁を訪ねて行くと、彼は南の江嶺に島流しになったという。
聞くところによると江嶺は南に位置して気候が暖かく梅が開くのも早いと。この洛陽の地に比べて、春はどんな感じなのだろう。 (さぶろうの訳ではない。うまいなあ)

孟浩然は盛唐を代表する詩人。自然を歌ったものが有名。王維、李白、張九齢、王昌齢らと交わった。40才の頃に長安に出て科挙の試験に挑戦したが失敗。一時は張九齢の招きで任官したがすぐに止めてしまった。その後は江南地方を流浪して一生を終えた。背中にできものが出来て苦しんでいたところ友人の王昌齢がやって来た。意気が合って飲んでいると容態が悪化。急死してしまったという。世渡りの勝ち組ではなかったようだ、どうやら。孟浩然といえば「春暁」が超有名だ。国語の教科書で習った。

さぶろうの庭の梅花や遅し。蕾さえも見えず。わが友人の目白氏の訪問遅きはこのためか。孟浩然仙人を真似て、梅花と友人とを庭に待つも日暮る。

 

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隠栖隠遁もよろしい

2016年01月05日 16時45分24秒 | Weblog

わが庵は 都の辰巳 しかぞ住む 世をうぢ山と人はいふなり      喜撰法師


私の庵は都の東南の方角、宇治山にある。
こんなふうにノンビリ暮らしているよ。
それなのに世間の人は侘しい場所だなどと言うんだ。

ネットでこの和歌を拾ったらこんな素敵な解釈がしてあった。さぶろうなんかこれまで「しかぞ住む」は「鹿が住む」と思い込んでいた。(「鹿」と掛けてあるとの説もあり)「然ぞ住む」だったのか。「心静かに悠然と住んでいる」ということだったのか。「宇治」と「憂し」「憂事」を掛けてあった。「人はいふ」けれどもわたしはそうは思っていない、という反論だったんだ。喜撰法師は宇治山の僧侶。世を捨てても平穏に生きることは出来るようだ。六歌仙の一人。

さぶろうは隠棲隠遁をしているとは言えない。そういう意思はない。ないけれども暮らしぶりはハーミット級かもしれない、雲隠れに隠れたその陰のみは。

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幕引きがベストだ

2016年01月05日 13時43分55秒 | Weblog

お正月も5日が過ぎる。特別お正月らしいこともしていないのだが。なにもしていなくとも時間は過ぎていくもののようだ。これでいい。

朝方の夢に弟が現れた。手を振っていた。それだけで終わった。「やあ」というところだろう。若くなって元気そうだった。

夕方から雨という予報だったが、3時から降り出した。野菜を詰めた宅急便を出しに町まで行って来た。濡れるとさすがに寒い。

老夫婦というのは、やっぱり夫婦と言えるのだろうか。老同輩とどう違うのだろう。いたわり合うというのなら友人間にだってできる。老いたさぶろうは疑問を持つ。家内もそういう疑問を持っているかもしれない。

同じ屋根の下に住んでいるだけのような気がする。夫婦らしいことは何もしていない。老いた今、その夫婦らしいことってなんだろう。あらためて考えてみたって変わるものではないけれども。

寄り添うことがない、さぶろう夫婦には。あなたはあなた、わたしはわたし主義である、どちらも。互いに介入し合わない。寝室も別だ。食事の時にだけがいっしょだ。

若い頃からずっとこの主義で通して来たのだが、このところ何かしらむなしく感じられるようになってきた。これは老いのせいか。これ以上言うと愚痴になるようだ。(ここまででも愚痴に等しいか)

どちらかが病気をして一人では暮らせなくなって、相手を介護するようになると、急接近して少しは夫婦らしくなれるのかもしれない。相手が必要になるのかもしれない。傍にいてほしいと思うようになるのかもしれない。

若い頃だけだな。相手に恋文を出して熱を上げるというのは。いや、待てよ。老夫婦だってそういうことをなさっておられるカップルもあるかもしれない。固く結ばれたらいよいよますます熱くなる、磁力が強くなる、引き合っている、そういうタイプも、老いてなお、あるのかもしれない。

10

炊事と洗濯と掃除と着るものの世話をしてもらっている。それで十分ではないか。それ以上はないのではないか。そうだ。それ以上はないのだ。というところで幕引きをするのがベストだ。

 

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山里の冬は寂しい

2016年01月05日 12時56分03秒 | Weblog

山里(やまざと)は 冬ぞ寂しさ まさりける 人目(ひとめ)も草も かれぬと思へば            源宗于朝臣 『古今集』冬・315

都と違って山里の暮らしは、冬になるといっそう寂しさが募ってきます。会いたいあなたからは遠く離れ、見渡す限り草も木も枯れてしまうのですから。

そういって便りを書いた。和歌はそもそも愛を伝えるものであった。ぎりぎりに圧縮して愛を込め、ことばに託した。ことばが異常発酵して酒になった。相手はこれを飲んで酔った。酔わせるものが和歌であった。酔った者は人の世をこよなく美しくいとしく感じることが出来た。

「かれぬ」は掛詞。「離(か)れる」と「枯れる」が掛かっている。「人目を離れる」と「草木が枯れる」ことにでもなったかのように。「人目」は「人」と同義だろうが、さぶろうは敢えて特定の人、恋する人と読んでみた。作者は一冬都を離れることになったのであろうか。この和歌を届けたら、愛される彼女は牛車に乗って訪ねて来てくれたはずである。「愛される」人と「愛する」人でこの世はうまくバランスを取っている。「うまく」というのは「美しく」という意味合いである。

さぶろうの住んでいるところも山里である。寂しい。人目を離れているのは別に冬だけではなく一年通してである。「愛する」人となりたいのだが、それには「愛される」人がともに存在して、引き合っていなければならない。さぶろうの場合はだから、それすらもない寂しさである。

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それでいいんですよね

2016年01月05日 12時38分54秒 | Weblog

「ねえ、それでいいんですよね」さぶろうは聞き役を欲しがります。そして語りかけます。聞き役は、でも、人ではありません。青空です。今日は夕方かけて雨になるらしくてよどんでいます。人の方が自然なんでしょうが、そういう奇特な人は現れません。「ええ、ええ、それでいいでしょう」青空だったらいつもこう答えてくれます。我が儘さぶろうがこれで満足して安らぎます。同調をしてくれると安らぐのです。我が儘はけっこう単細胞です。独り善がりの極地です。「ねえ、それでいいんですよね」「ぼんやり暮らしていていいんですよね」さぶろうが語りかけます。「ええ、ええ、それでいいでしょう」冬の空が答えてきます。さぶろうのぼんやりに拍車がかかります。

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