<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

今夜はこの曲をバリトンで歌う

2016年01月14日 16時55分35秒 | Weblog

もう一度聴きたいドイツの詩歌曲「ローレライ」 

原詩 ハインリッヒ・ハイネ 訳詩:近藤 朔風(明治42年)

なじかは知らねど心わびて
昔のつたえはそぞろ身にしむ
さびしく暮れゆくラインのながれ
いりひに山々あかくはゆる

うるわしおとめのいわおに立ちて
こがねの櫛とり髪のみだれを
梳きつつくちずさぶ歌の声の
くすしき魔力(ちから)に魂(たま)もまよう

こぎゆく舟びと歌に憧れ
岩根もみやらず仰げばやがて
浪間に沈むるひとも舟も
くすしき魔歌(まがうた)うたうローレライ

「ローレライ(Loreley)」は、ドイツの作曲家フリードリヒ・ジルヒャー(Friedrich Silcher1789-1860)による1838年作曲のドイツ歌曲。Christian Johann Heinrich Heine(1797-1856)が詩を付けた。日本では明治42年近藤朔風が訳詞して広く愛唱されるようになった。聞いても聞いても名詩だ。

ローレライ(Loreley)は、ライン川流域の町ザンクト・ゴアルスハウゼン近くにある、水面から130mほど突き出た岩山の名。そしてここライン川の急流に身を投げた悲しい乙女の名。ライン川下りでも有名で、周辺にはフドウ畑や古城が点在し、ローレライの岩の上に登ることもできる。ローレライの岩のあたりは、川幅が少し狭く流れも急になるため、昔から遭難する船が多かったという。

魅惑の美声で人々を惑わす妖精ローレライ伝説に因んでこのドイツ歌曲が作られた。ローレライには、昔からいくつかの妖精の伝説が残されている。内容には多少の違いがあるようだが、ローレライとは不実な恋人に絶望してライン川に身を投げた乙女の名で、水の精となった彼女の声は漁師を誘惑し、岩山を通りかかった舟を次々と遭難させていったという。(以上 引用)

さぶろうも若い頃ここを旅したことがあった。ライン川下りの観光船に乗ってこの岩山を眺めた。悲恋というのは世界の何処にもあるようだ。これを歌にして歌い継いで、乙女の魂を慰めているのだろう。中学生の頃に音楽の時間に習ったので、歌いやすい。さぶろうは今夜この曲をバリトンで静かに歌っている。歌っていると恋する乙女の恋心が乗り移って来るようにも思われる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

相撲観戦

2016年01月14日 16時37分20秒 | Weblog

寒い。チューリップの植え付けは順延する。怠け者は我慢して外に出ていられない。すぐに寒くないところへ逃げる。逃げてきたところが炬燵だ。これでぬくぬく。で、大相撲を見ている。平幕の御嶽海、正代が強い。初場所を面白くしている。今日は両者が取り組んだ。正代が押し切った。6時まではテレビ観戦する。これまでにはあまりなかったことだ。昼からテレビにしがみついているなんて。老人だからかな、これは。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

彼もまたこの宇宙をわが宇宙にしている

2016年01月14日 15時22分12秒 | Weblog

冬の蝿が部屋を舞っている。大型だ。羽音がうるさい。寒いから行動は機敏ではないようだが、ガラス窓と天上との間を行ったり来たりしている。窓にぶつかって脳震盪を起こしても良さそうだが、そうはならないらしい。このままじゃここを出られない。だったら、今夜はここをホテルにするだろう。それまでにこの後も何度もガラスへ体当たりを敢行するだろう。自由の天地へ放してやるか。さぶろう、慈悲心を起こすなら今だぞ。小さい蝿だが、いのちの絶対価値に等級はない。さぶろうの一人に匹敵する1だ。彼もまたこの宇宙を宇宙にしているのである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

退屈を凌ぐ

2016年01月14日 15時01分44秒 | Weblog

買って来ていた白チューリップ20球の植え付けが終わった。草取りをした後に腐葉土を置いて、植え付けた。猫は柔らかい土を掘り起こす習性がある。糞をするためだ。これまでどれだけ被害を受けてきたことか。植え付けていた球根類は掘り返して後ろ足で放り投げている。そこでその防御策もすませた。これで一段落した。余裕でキャラメルを嘗めているところだ。

午前中に野菜類の収穫も終えた。一輪車3杯分だ。ご苦労なこった。これを揃えて切って洗って、水を切って干しておいた。箱にも詰め終えた。これからクロネコヤマトまで宅急便を出しに行ってくる。戻って来たら、赤チューリップ60球の植え付けを開始しよう。することがあって、退屈しない。退屈しないだけでこれで収入が増えるわけではない。

昼食時の後に里芋の白と赤を5個ずつ皮剥きした。ボール一杯になった。袖口が水浸しになってしまった。皮剥きはさぶろうの一手引き受けということになっている、我が家では。嫌いじゃない。むしろ好きな方かも知れない。こうした単純作業なら根気よく継続できる長所を持っている。不思議な老人だ。今夜は里芋の煮っ転がしが期待できる。これが熱燗の酒の肴においしい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Going my way

2016年01月14日 14時23分24秒 | Weblog

猫の三太夫がのっしのっし歩いて行く。でかい尻(けつ)をしている。これを左右に揺らす。威厳がある。何処へでも出向く。縄張りが広いらしい。華奢な小百合は縁側の日当たりで寝ている。これは雌猫。猫仲間ではきっと美女の誉れが高い方ではないかな。目が青い。毛が白い。三太夫は黒白の縞々模様をしている。もう一匹いる。これも雄猫。ドラゴンという名が付いている。略してゴン。茶色に白が雑じっている。これはいま小屋の前の蜜柑箱に収まり、首を縮めて丸まっている。寒いから宜なるかなだが。でかいくせに、だいたいが怠け者。怠けているところは、この家の主のさぶろうのようだ。

さて、と。さぶろうがこの3匹を観察して思ったことはこうだ。これは猫族全般に言えることかも知れない。彼らは働かない。優雅な生活を送っている。ときおり鼠を追い回したり、土竜を引きだしていたりするが、これも労働のようではない。労働すれば相応の賃金がもらえる。彼らはただそれを取って来て主に見せて自慢にして後はほっぽり出している。腹の足しにはしていないようだ。にゃあにゃあと鳴いて会話は弾んだように見えるが、今後のよりよい生き方をめぐって会議をしている模様でもない。議会もない。裁判所もない。

何か宗教も信じているふうではない。キリストもマホメットも釈迦も孔子孟子も信奉していない。かといって、日本の神々がおわす神社へ参拝に行くでもない。神社の境内をうろつき回ることがあっても、祭殿の前で柏手を打ったりはしていない。

結論を急ぐ。彼らは完成をしているのだ。ああでもないこうでもないの途中経過を終えているのだ。これがベストだと言う暮らしをしていて、もはや道に迷うことがない。だから後悔がない。善悪もない。本能のままに動いていてそこに善悪がない。是非ということがない。人間はまだ向上ということを信じているので、その点では常に途中にいることになる。彼らはこれがベストだと信じ切っているので、さらなる向上を目指すと言うことがない。現状が最高なのだ。

三太夫も小百合もゴンもゴーイングマイウエイだ。もう少しマシな暮らしがないかなどと考えたりはしていない。だから働かない。マシな暮らしを追いかけたりはしない。これでいいとして疑わない。徹底しているところが見て取れる。毎日毎日したいことをして生きて、したくないことはしないですんでいる。彼らは完成をしているのだ。この生き方が最善最良最高だとしているので、毎日のらくらしていられるのだ。さぶろうは自己否定の地獄をさまようことがちょくちょくあるが、彼らは地獄も天国も造らないで済んでいる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

畑へ

2016年01月14日 10時52分40秒 | Weblog

さ、これから畑に行きます。白菜と大根の収穫をしてきます。ホウレン草や人参、小松菜、蕪、フカネギ、高菜なども抜いてきます。箱詰めにして欲しい方に送ります。抜いて来てこれを冷たい水で洗うのが一苦労です。手が凍えます。でもこれでキルタイムができます。空き時間の消費が出来ます。どうせなら楽しむとします。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昨夜ふっとこんなことを思った

2016年01月14日 10時14分07秒 | Weblog

昨夜ふっと思ったこと、これは。物質だから肉体は終わりを迎える。肉体の方が先に終わる。わたしを構成しているもう一方の非物質は、終わらない。終わるのは物質の性質だが、非物質はこの通りではない。こころは諸行無常ではない。常在常住である。

この二者はカップルである。一対である。二人三脚をしている。互を補い合っている。こころは諸行無常の辛酸を嘗めることはない。常在で常住なのだから。するとどうなるか。冬のない春になってしまう。夏のない秋になってしまう。苦しみがないと楽しみも得られないのである。彼は、そうすると畢竟するに向上がないのである。一定だから。どんな変化をも生むことがない。それではつまらないだろう。

でも物質の肉体は諸行無常である。得たものも失われてしまう。失われるからまた得たい気持ちにもなる。絶望の後に欲望が湧くのだ。凍てついた冬の野山にさ蕨が立つように新しい欲望が芽立ってくる。苦しいこと悲しいことの連続のように見えて、再生のよろこびに迎えられることができる。

昨夜ふっと思ったこととは、こういうことである。つまり、こころが先に死んでしまったら残された肉体はどうするだろうか。そういうことを思った。そんなことがあるだろうか。判断をする主体者のこころを失った状態というのはありそうにも思える。徘徊をする惚け老人たちは、案外このケースなのではないか。0になるわけではないだろうけれど。

こころとからだの構成比が2:8だとか3:7ほどになると支障を来してくる。感情移入が出来ない。喜び悲しみが表現できなくなる。その逆に7:3だとか8:2とかになると、旺盛なこころはからだの憔悴をひどく敏感に感じてしまうだろう。近似値だったら安定をしているだろう。バランスが取れているだろう。互が互の力量を発揮して互を讃え合うだろう。幸福だろう。

こころだけが若々しくしているというのもどうだろうか。これが結論である。にくたいの老いに応じてこころも老いてくる。これでいい。いいのかもしれない。顔に皺が増えるようにこころの皺も増えて老耄老衰が起きる。これはベストなことかも知れない。生命体10の構成比のうちの、こころが2,からだが2。後の6は、じゃ、何が受け持つことになるか。こころが1、からだが1に縮まったとき残りの8はどうなっているのか。

空白でもいいのだが、そこを春の光が埋めてくれたらいいと思う。光の雲が埋め合わせてくれたらいいと思う。1と1がしばらく雲に浮いて遊ぶだろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

気長に春を待つ

2016年01月14日 09時48分06秒 | Weblog

新聞の投書欄に「はや蕗の薹」の記事があった。春の先駆けがもう見付かったのだろう。で、急いで我が家の畑へ飛び出していった。兆候はなかった。日当たりもいいところだけど。慌てないでもいい。気長に待とう。春が来ないわけではない。我が家の畑にも春は来るだろう。施肥をしておくことにする。

諏訪内晶子さんのヴァイオリンを聴いている。何曲も何曲も。朝からずっと。いい気持ちだ。音を聞くだけなのにどうしてこうも気持ちが良くなるのだろう。メロデイーになっているからだろうか。演奏が巧みだからだろうか。聴きたいというこちらの気持ちがあるからだろうか。これを満足させてくれる。

朝ご飯はお餅だった。味噌汁にしてもらった。黴が臭った。わずかだけど。餅の黴は体によくないと新聞に書いてあった。暮れの30日に、我が家の餅つき器で大量に搗いた餅である。水餅にしてあるが、それでも黴の攻撃を受けてしまったようである。早めに食べなきゃということで連日餅料理ばかりで、少々飽いてしまった。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

100年後、1000年後

2016年01月14日 01時51分57秒 | Weblog

100年後、ここには誰が住んでいるのだろう? さぶろうはとっくに死んでいる。さぶろうの知る人達も恐らくいなくなっているだろう。この家はまだ建っているだろうか? 建っていても誰も住んではいないかもしれない。人手に渡ってどこの誰とも知れない者が住んでいるかも知れない。狐狸が住んでいるかもしれない。風だけが通り過ぎているかもしれない。1000後になればどうだろう? うっそうとした森になっているかもしれない。その時には、日本にだって日本人が住んでいるかどうか。地球にだって地球人が住んでいるかどうか。わかったものではない。人のたましいすら住んではいないかもしれない。思い出だけがうようよしているかもしれない。空が思い出をひとりで食べているのかもしれない。いや、何一つ変わらず、人々は仏を思い仏も人々を思ったままで豊かに平穏に暮らしているのかもしれない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする