<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

帖見温泉でのこと その1

2016年01月27日 19時35分04秒 | Weblog

明日からまたふらりと帖見温泉あたりへ足をのばしてきたい。さぶろうはそう思った。帖見温泉は鄙びた温泉である。山間にある。渓谷の急流がややおさまった辺りの川筋に立っている。いつ訪ねて行ってもここには家鴨が泳いでいる。橋の上からは鯉がたむろしているのも見える。女将はもう年増だ。温泉宿はそこに二軒ある。川の右岸と左岸だ。右岸が本家本元らしくて荘重な構えだ。左岸の宿の女将は、察するに曰く因縁の女だったのではないか、先代の。老いてもどこかあでやかで色っぽい。そんな邪推をほしいままにする。今は本家も代替わりして若い主人になっている。といってももう40過ぎだ。先代よりもスマートにしているのは二代目だからだ。二代目は苦労をしていない。やっとしかしこのところ客足が遠退いてきてねじり鉢巻きをし出したところだが、スマートが信条の二代目に策があるわけではない。ここの湯がさぶろうには不思議によく効く。腰痛にも効くし飲んだら糖尿病にも効果がある。湯の色は茶色だ。飲んでもいい。やや臭みがある。といって飲めないこともない。ラムネの味もする。さぶろうが利用する部屋は一階だ。一階には湯船があるからだ。宿は三階まである。川が洪水で氾濫してどぶ水が一階までつけてしまったようで、畳が黴臭い。料理長はとっくの昔に逃げ出しているので夕食も朝食も本家から盆に載せて運んでくる。盆にはご飯と吸い物と煮魚か焼き魚が控えている切りで、一泊8000円は高すぎる。お手伝いが3人いてそのうちの2人は足さえもよろよろしている。1人は若い。何処にも行かずに家に引き籠もっていたところを女将が預かって社会見学をさせているつもりらしい。ときどきこの娘が盆を運んでくる。入り口から先を入って来ない。とんとんとドアを叩いてそこで盆を渡す。足がよろついている2人のうちの一人はこの仕事に慣れているらしく、部屋に上がってしばらくビールの相伴をしていく。そして「あたしももう随分男の肌には触れていないよ」などとぼやく。「じゃ、今夜辺りこっちへ渡ってきてきたら」と言いかけそうになるが、渡ってきた後のことを考えると言葉にならない。こんな女に伽をしてもらったって楽しいことはあるまい。さぶろうは寝る前にも湯を浴びる。湯を浴びていると一人の男が入って来た。背中に斜めに手術の跡がある。壁一つ隔てた女風呂から女の声が飛んでくる。あまったれた声だ。他に誰もいないと思ってのことだろう。男がさぶろうの方を向いて「しょうがない奴だな」と嘯いてから「堪忍してくださいな」と殊勝なことを言った。「おかまいなく」さぶろうもそう答えた。それからその男がこんなことを話し出してきた。二人は駆け落ちをしてきたというのだ。そのままの言葉だと「ずらかってきたんですよ、二人は」だったが、それが何処かただならぬことのようにも聞こえた。

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瀬田すずという女 その1

2016年01月27日 18時59分43秒 | Weblog

「瀬田すずという女を知っているだろう」と林宗二が言った。聞かれたのは良造で、宗二のいる村を昨日訪ねて来た若者だった。髭の濃い男で顔中が髭になっていると言っても言いすぎにはならない。目がぎょろっとしている。樵夫だ。樵夫でありながら熊を追っている。熊なんかを追ってどうすると言われてもお構いなしでとにかく追っていれば気が済むらしい。熊は見付からない。どんな熊でもいいというのではない。だからいよいよ難儀を極めているのだ。熊とその女瀬田すずとはどう結びつくのか。他の者には分からないが宗二には分かっていた。だから念を押すように言ったのだ。良造は答えなかった。答える義務はない。しらっぱくれた。三十になった宗二がいらついてきた。寺男だ。導師に従うので伴僧と呼ばれている。読経はするがまだ得度をすませていない。得度をするにはあまりに欲望が雑多すぎた。白足袋が擦り切れていた。すずは17で村首(むらおさ)の娘だった。鼻の尾根の右の崖のところに小さな黒子がある。色白で涼しい目をしていた。事件の巻き添えを食うような目ではなかった。すがしかった。宗二はすずに懸想していた。

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高齢者デイサービスを覗く

2016年01月27日 17時31分40秒 | Weblog

「もみじ温泉」に入ってあたたまってきました。ここは市の施設。一階はデイサービスが出来る高齢者センターになっていました。湯を浴びた後で、友人と二人ここを覗いてきました。3時。おりしもデイサービスが終了してみなさんが送迎のマイクロバスに乗り込む時間でした。バスがいぱいになっていました。友人が窓口に「われわれも参加希望です」などと言うものだから、窓口の方がそれを本気になさっていろいろと細かいことまで説明をして下さいました。65才以上の健康な高齢者なら利用できるようです。1週間に1回。10時から15時までの5時間。お弁当付きで800円。一階にも湯船がありました。施設は去年新しくなったばかり。エレベーター付き、送迎バス付き、冷暖房付き、休憩所付きだから利用価値がありそうでした。ときどき遠足もあるそうです。最高齢は93才がいらっしゃるそうです。健康であるという医者の診断書が必要のようでした。車椅子の人は除外でした。さぶろうは杖をついています。大丈夫かなあと思いました。高齢者デイサービスなんて人ごとにしか考えていませんでしたが現実味を帯びてきました。

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念仏は追善供養の具なのか 歎異抄を紐解く

2016年01月27日 15時55分09秒 | Weblog

親鸞は父母(ぶも)の孝養のためにとて念仏、一返もにても申したることいまだ候らず。     浄土真宗経典「歎異抄」第五章より

 

わたし親鸞は亡き父母の追善供養のためという理由で念仏を唱えたことは一度もない。

人が死んだら葬式がある。七日七日にお逮夜がある。一周忌三周忌がある。七年忌十三年忌三十三年忌五十年忌と続く。お坊さんが来て念仏を唱え読経する。

「あれは追善供養ではない」とお坊さんは言う。「亡き人たちが生きた人たちに念仏を勧めに来る日だ」と説明するのをさぶろうは聞いた。そうであろう、宗祖親鸞聖人は念仏に追善供養の力があるとも、お坊さんにその力が具わっているとも公言していない。追善供養されているのはわれわれ生きた者たちだ、という説明であれば、この矛盾を回避できる。続いて第五章はこう書かれている。

わが力にて励む善にても候わばこそ、念仏を廻向(えこう)して父母をも助け候わめ、ただ自力をすてて急ぎ浄土の悟りを開きなば、六道四生のあいだ、いずれの業苦に沈めりとも、神通方便をもってまず有縁を度すべきなり。

<六道>=苦しみの絶えない六通りの生存の方法とその世界、即ち、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六世界。

<四生 ししょう>=胎生・卵生・湿生・化生の四つの生まれ方をする生物たちの世界のこと。

古来インドでは、死後もこの迷いの世界である六道と四生を輪廻して経巡っていくと考えられていた。

高森顕徹氏の訳ではここはこうなっている。

念仏が自分で励む善根ならば、その功徳をさしむけて、父母を救えるかもしれないが、念仏はわたしの善根ではないからそれはできない。

ただ、はやく本願を計らう自力の心を捨てて、浄土で仏の悟りを開けば、どんな六道・四生の迷いの世界で、苦しみに沈んでいようとも、仏の方便力で縁の深い人々から救うことができよう。

念仏は仏が差し向けるものであるから、わが自力の善ではない。だから自力でする念仏で以て死者の追善供養はできない、と。死後、一旦浄土往生して仏に成ったのであれば、仏の力を頂いて有縁の人をも救うことが出来よう、と。還相廻向の考え方である。

しかし、已に阿弥陀仏は誓願・本願によって「必ずわたしが救う」と約束されているので、その通りに、死者は完全に完璧に救われているはずである。阿弥陀仏が救うとして救われた死者たちを、<いや、救われていない、迷っている>と決め付けて、生きている者が救わねばならないのだろう。どうしてそんな脅しに乗ってしまうのだろう。

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南無阿弥陀仏の念仏は死者の追善供養のために唱えるものではない。そんなことをするための念仏ではない。念仏は阿弥陀仏とわたしとの愛情交信である。阿弥陀仏とわたしとの約束の会話である。阿弥陀仏からの信頼であって阿弥陀仏への信頼である。

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歎異抄は異なることを歎いた抄本である。元に戻そうとしたがなかなか元には戻らず今日まで異説異行がまかり通っているという実態もありそうである。遺体遺霊の前でわれわれは合掌をして念仏を唱える風習を残している。

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こちらから死者への安養、追善供養にはならずとも、亡くなった者からの安養、追善供養にはなっているのかもしれない。葬式を出して読経をしてもらうことで、こちら見送った側が安心をするという側面がたしかにあるからである。

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お坊さんには「この世とあの世の橋渡しが出来る力がある」と人々は考えたがる。そう考えて安心を得ようとする。お坊さんに超能力を持たせることで、死者の安寧を保証してやりたいという心が動く、それも確かである。

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仏界浄土の阿弥陀仏と穢土のわれわれとの仲立ち役をお願いするということもある。念仏は、仲立ち役を立てないで、まっすぐ阿弥陀仏とわたしとが直接交信できる力を持っているのだが、仲立ち役の僧侶が唱える念仏により大きな効き目(功徳)があるように思えてしまうのかもしれない。

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湯を浴びに

2016年01月27日 13時52分49秒 | Weblog

友人が電話をしてきた。これから湯を浴びに行くがどうだというから、OKをした。老人専用の市の施設である。たぶん、市内在住者は安いはず。近くにある。車でほんの20分そこらだ。行ったことはない。2~3人ほどが入れるくらいの小さな湯船らしい。一時間ほどぶるぶらしてくるか。どうせ暇を持て余している。たぶん昼間から酒は飲むまい。500円玉一箇で釣りが来るだろう。

 

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アンドロイドは色男

2016年01月27日 12時43分12秒 | Weblog

動けなくとも動かせばいいのである。物語を作ってそこで影武者を動かせばいいのである。ほんものは動かなくたっていい。アンドロイドでいいのである。ほんものは醜男でもアンドロイドはイケメン色男にすることもできる。そうすればあまたの美女に引っ張りだことなる。めでたしめでたしではないか。醜男のさぶろうにはうってつけだ。ほんものは極貧に甘んじていても影男を富豪にしてラスベガスで豪遊ということも可能だ。隠居老人がいきなり国会議事堂で世界平和の大演説をぶつなんてのもかっこよさそう。ほんものと自称していてもどこまでほんものなのかは分からない。偽物とかわるところがない。いっそ仮面舞踏会のおもしろさを満喫するか。小説家、脚本家、詩人、歌人、いずれもこの芸の芸達者である。空想と現実に境目なんてない。行き来は自由だ。だったら往来しないという手はない。昼間のA氏は夜のB氏。漲る若さの二十歳の次は、威風堂々まみどり色の正装をした五十歳。今日のジャガーのX夫人は明日の雌鹿Y淑女。性別も役どころも問われない。そうなれば鬱をかこって顰めっ面なんかしてなくてすむ。こうもなれるああもなれる。おお、この世は常時かがやいて夢の殿堂だ。ジキルとハイドだけを楽しませて、こっちは指をくわえているなんて慎ましさは遠くへ放り投げたらいいのである。

 

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食べても食べなくてもどうでもいい

2016年01月27日 12時27分32秒 | Weblog

お昼。でも、食べても食べなくてもいいな。ひとり。労働をしたわけでもないし、これからする当てもない。ごろりごろりしているばっかりだから、一切カロリー消費もしていない。興味の持てそうな所だけ新聞を読んだ。それっきり。起きるのも遅かった。まだ普段着に着替えてもいない。怠け者をしているさぶろう。隠居老人にはこれが不思議にフィットしている。雪の下から一階の瓦屋根の奥が見えて来た。金の価値を持つ古い友人から電話をもらった。やっぱり雪に閉ざされていたらしい。ときおり冬鳥が庭に来て遊んで行くだけで、胸を焦がす誘惑は降っても来ない。空はどんよりしていてはっきりしない。矢のごとき光陰が、今日も真昼の位置まで飛んで来たが、この間の<びっくりぽん>はない。単に視力感覚力が衰えているからか。

 

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昨日は訪問者数が最高記録でした

2016年01月27日 12時09分10秒 | Weblog

1月26日、昨日一日のアクセス数が見られる。このブログ「おでいげにおいでおいで」を開いて下さった方が分かるようになっている。訪問者数が245人。これはこれまでの最高記録だった。その方達が記事を読んで下さったその閲覧数が述べで996回となっている。一人が約3個の記事を目にされた計算だ。1000回を越えたことも数回あったようだ。こうしてここへこれだけたくさん接続して下さる方があると思うと、なんだか書く励みになる。だから、お礼を申し述べねばならない。みなさんありがとうございます。一度「では、はい、さようなら」をされた方ももちろんいらっしゃるはずであるが、読み続けていて下さる方もあるようで心強い。もう10年ここ無料gooサイトの恩恵に与ってのらりくらりと書いています。「おでいげ広場」「おでいげ休憩所」などそれまでにも幾つかのサイトで書き続けてきました。そろそろここも腹一杯になっているかも知れません。新しくしないと最初の頃に書いたものが消滅してしまうようです。亦その時にはご贔屓にお願いしますね。

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みんなごまかし

2016年01月27日 10時42分31秒 | Weblog

ごまかしごまかしごまかし。みんなごまかし。ごまかしてばかり来た。真実なんてなんにもなかった。掴んでなかったから、これしかなかった。人様をごまかしごまかし、己をもごまかしごまかし。もうすぐ死んでここを去ろうとしているというのにまだごまかしごまかし。生きたという事実もごまかして。相も変わらず。真実を掴んでいないのだからどうしようもないのだ。これでいいとは思っていない。思ってはいないけどどうしようもないのだ。ふうと吹けば飛び散ってしまうような軽量のままのさぶろう。羽毛のように軽い存在の彼は、吹かれて行って遠い雪原の、雪解けの音を耳に追っている。谷水が溢れ出している。岩を廻って流れている。聞いていればそれでどうなるというのでもないけれど、耳を澄ませている。全身しんとして。

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千のダイアモンドの千の光

2016年01月27日 10時02分25秒 | Weblog

日が射している。日差しの中には雀が遊んでいる。親雀を追って小雀が続く。雪が解けだして雪嵩は徐々に低くなっていくようだ。畑にやっと白菜の緑色の頭が見える。車は日を浴びてまるでいましがた湯から上がってきたみたいにして艶々して光っている。二階の屋根から落ちてくる雪解け水がベランダのスレートに落ちてきた雨音が高い。解け終わった侘び助の千の葉っぱの葉末からは、千のダイアモンドの千の光の雫が垂れて、とてもこの世のものとは思えない。いきなりここがアナザーワールドになっている。

さぶろうは何を喰ったのだろう。食い合わせが悪かったのか、ひどい下痢をした。もうすっからかんだ。朝食は小さめの椀に白ご飯をよそい、これに挽き割り納豆をのせてたべた。味噌汁の菜は青首大根の千切り。昆布出汁の白菜漬け。デザートに八朔入りのヨーグルト。これには蜂蜜をたっぷり垂らした。隣家の低い屋根に積もる雪の丘に光が跳ねて弾いて、まぶしい。どうだろう、今日くらいはサイクリングができそうか。道路の雪は解けきってはいない。端っこに汚れて黄ばんで堆く残っている。

さぶろうは朝方夢を見た。リーダーの授業に行かねばならないが、前の晩に飲んで飲み回って勉強が出来ていない。教科書をちらりと見る。教える自信がない。どうやってここを逃れようかと思案をしていると生徒たちがこちらのその苦境を覗いて笑っていた。教壇を去って随分と長い歳月が流れたというのにまだ夜通し苦しめられている貧才の哀れなさぶろう。よくもまあこの鈍物がのらりくらりとは言え、30数年一家の暮らしを立ててこられたもんだ。

 

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