<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

福成先生に詫びる その1

2016年01月20日 23時18分45秒 | Weblog

福成先生は美術の先生だった。さぶろうが通った中学校は村の小さな学校だった。それで先生は社会科の授業もされた。一度テストで満点をとった。すると先生がそれを褒めた。授業中に。そしてどうして満点がとれたのかきみの勉強法をみんなに披露せよと言われた。乗せるのがうまかったのである。さぶろうは大いに照れた。まっ赤になつた。それからは悪い点数がとれなくなってしまった。社会科ではとにかく一番になつていなければならなくなった。もちろん先生が大好きになった。先生も目をかけてくださった。日曜には先生はスケッチに行かれる。たびたびそのお伴をするようになった。野山を歩いた。先生は展覧会に出展されるようになられた。そして大きな賞をとられた。日展にもはいられた。佐賀県のリーダー格になられた。卒業しても交流が続いた。よく声をかけてくださった。若い画家たちが集まるアトリエにもしばしば通った。アトリエは淋しい山奥にあった。学校勤めを止めて、そこに一人で住んでおられた。夜には月見の会が催された。画家たちばかりではなく音楽家や文学者も集まり賑った。ご馳走を持ち寄って歌った。酒を飲んだ。賑やかな事がお好きであった。人が途絶えた日には呼び出しをもらった。さぶろうは既に結婚をしていた。先生がある日山奥から一人歩いて来られて、玄関に立たれた。二時間くらいを歩いて来られた。しかしその時さぶろうは鬱を患っていた。かなりの重症で人の相手ができなかった。睡眠薬が効いてふらふらだった。先生をお帰しするしかなかった。

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悪い癖

2016年01月20日 22時40分51秒 | Weblog

一寝入した。ダム放水に促されて目が覚めた。いま10時半。これから朝方まで随分とある。何をしたらいいのか。

明日は絶食してみよう。胃袋の動きが悪い。張ったままだ。すっからかんにならない。夕食も控えめにした。胃袋を休ませてあげるのがよさそうである。

枕元には本が山積みしてある。どれも読みかけ。中途半端。悪い癖だ。読みだすとまもなく止まる。触発されて考え事が起きる。アンダーラインを引く。メモをする。また読みだす。また止まる。これじゃ遅遅としている。一気読みができない。本の空白は文字で濁るばかりだ。回し読みはできない。弟のもそうだった。でも二人の間では回し読みがされた。そして語り合いがあった。二人とも仏教書をよく読み耽った。

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琴奨菊が単独トップに立った

2016年01月20日 17時58分43秒 | Weblog

やった! ついにやった。大関琴奨菊が横綱白鵬を破った。11連勝である。単独でトップになった。日本人力士の優勝が見えて来た。この10年、すべて外国人力士の優勝が続いた。国技の相撲が国技でなくなっている感がしている。琴奨菊の奮起で、長いトンネルから明かりが見えて来たようだ。

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往復18kmのサイクリングだった

2016年01月20日 17時30分01秒 | Weblog

昼ご飯は抜いた。どうしたことか、空腹にならない。昼過ぎから外に出た。青首大根を抜いて、そこにチューリップの球根35球を植え終わった。延期延期にして来た。やっと植え終わった。3時になってサイクリングに出た。今日は日の隈山の裏手を通り、西へ西へ向かった。金立を越えて大和町のスーパー、フードウエイで折り返した。ここまで9kmだった。途中、通りがかった神社に5社も詣でた。住吉宮、英彦山大権現、妙見神社、あとの2社は文字が読めなかった。村里には聚落ごとに小さな神社が祀られているようだ。行きは汗を掻いたが帰りは上り坂、スピードも出なくなって寒さを感じた。往復18km。もう少し距離を延ばさないと運動にはならないかもしれない。空にうっすらと昼月が出ていた。

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田を耕さず糸を紡がず

2016年01月20日 12時34分24秒 | Weblog

耕さずして食べ紡がずして着る者は不届き者か。この問いにお釈迦様は「我は心田を耕す」とお答えになった。お坊様の着ている袈裟は田が造形された図柄になっている。この田に「仏法を実る」とした。この心田を耕して「自覚覚他する」とお答えになった。経典の経スートラは縦糸横糸のことである。これで紡いでいる、と。

「自覚覚他」とは自らが目覚めて同時に他を目覚ましめるハタラキ、営為、実践、労働のことである。自覚ができた者(悟りに到達した者)は無為にして覚他ができるとも考えられていた。いまでも千日回峯行満行の大阿闍梨を慕って、道に座って彼の功徳を拝受する人たちを見受ける。

僧は田に出て労働をしない。工場に出て労働をしない。直接生産をしない。唯々他者から、仏、菩薩から、いただきものをいただくばかりである。(中国に渡った時、禅宗はこれを踏襲せず、「働かざる者喰うべからず」としたけれど、お釈迦様の頃の原始仏教では、「所持せず労働せず定住せず」だった)

お山に籠もって「我は完成せり」としたってそれは「お山の大将我一人」の自己満足に過ぎず、いっこうに他者へのハタラキがない。そういう非難を浴びて、ある時期からは橋を作ったり溜め池を作って洪水に備えたりの社会参加型仏教が擡頭してきた。一人で何役もこなそうと務めるようになったのである。

田に出て耕すこと、それこそが仏教修行だと考える一派も現れた。大乗仏教は出家仏教の境を越えてきたので、在家のままで仏道の修行をしようとした。いや、それこそが仏道の実践だとした。法華経もこの実践ということを盛んに説いている。実践する僧を菩薩と呼んだりもした。

観音菩薩様も救済が専門である。見て見ぬ振りはなさらない。困った人があれば即時に修行寺を出て救出活動をされることとなった。こうなればもう寺に戻ることは出来ないはずである。困った人はたくさんいる。彼はみずからが仏に成る「成道」を諦めるしかなかった。

聖人マザー・テレサも印度カルカッタの貧民街に趣いて終生キリストの愛の実践活動に専念された。社会活動を愛の中心に置かれたのである。日本の先頃の東北地方の地震や津波の被害者を救おうと立ち上がった仏教者は多かった。ボランテイア活動に没頭することで仏道の慈悲実践とされたようだ。

自覚(悟りに達すること)は不必要か。修行は無用なのか。無用だとした宗派も出て来た。仏性や仏智見はもともと具わっているとしたのだ。あるいは、利他に必要な仏智見は仏によって授けられていくと考えたのかもしれない。利他行こそが仏智見だとした。

ともかく自覚よりも覚他に比重が重くかかるようになった。目の前にいる困った者を助けることが何よりも優先課題になったのである。ではそうなっているか。困った者はなくなったか。活動によって減ったか。それもまた疑問である。覚他は自覚を犠牲にして成立するのか。自覚はほんとうに徒労なのか。

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さぶろうは実践家になっていない。社会に出ていない。家でぶらぶらしている。だから他者救済能力はゼロである。では、彼は非仏教徒だろうか。田も耕さず(非労働)心田も耕(=自己向上の修行)してもいない。直接生産も間接生産にも携わってはいない。(畑に出て気ままに草取りはしている。野菜を育ててはいるが、これは自給自足である)

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さぶろうは仏陀を仰いでいる者である。教えを聞こうとしている者である。それを喜んでそれで十分だとも思うのである。実践とはどういう実践であるべきなのか。

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他者への実践がなければ、彼の一生は「一人乗り」に過ぎない。一人乗りは自己への執着を深めるだけで、そうとすれば彼は終生が自己欺瞞の堕落者かもしれない。

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蟹を食べに日本海へ旅せむ

2016年01月20日 11時49分46秒 | Weblog

冬の日本海は蟹がおいしくなる。蟹に辿り着く旅をしたい。宿は湯がわいている温泉場がいい。道路凍結の恐れがあるから、車では無理だろう。電車を乗り継ごう。山口県からは普通電車がいい。旅こころをくすぐられる。ごっとんごっとんレールの響きを耳に収めるのがいい。

毎回書くが、肝心なののは費用の捻出だ。年末ジャンボ宝籤も買ってはみたが当選なし。もしやだけで終わった。どうする? 何にもしない自由だけで、何でも出来る自由へ移行していない。暇はたっぷりある。有り過ぎるくらいだ。だからその気になればなんでもできるはずだ。

これをさせないのが資本金欠落である。「わかった。それくらいならおれが提供してやろう」などと言ってくれる大金持ちを親戚筋に持たない。成金太っ腹氏も見当たらない。将来を見越して支援してくれるパトロンもいない。でも行きたい。たっぷり蟹が食べたい。ゆっくり温泉場に逗留したい。

笑っちゃうけど、最後の頼みはこれだ。笑いを押し殺して、財福の神である恵比寿・大黒・弁財天に打出の小槌を振ってもらうしかあるまい。日本の童話は思わぬ所から金銀財宝をいただく結論が多い。99・999%が不可能でも0・001%の可能が残っている。

降り続く雪の日の朝には、万に一つ、大判小判がざっくざく詰まった米俵がどっさり我が家の玄関に届けられて来るかもしれない。自称幸運財福男になりすましてみるとするか。

やっぱり笑っちゃうね。70年生きて来た寿老人が考えることはたったのこれくらいなのである。夢だけで現実味がない。「福は寝て待つ」という諺がある。寝るだけは寝過ぎるくらい寝たのだが・・・

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鮒の昆布巻き煮込みは見送り

2016年01月20日 11時30分52秒 | Weblog

昨日二十日正月は鹿島市浜町に鮒市が立つ日だった。あいにくの雪降り。遠くもあるし出かけるのを躊躇してしまった。ほぼ毎年ここに行って中玉くらいの鮒を10尾ほど買い込んで来て鮒の昆布巻きを作っていた。鱗を外してジゴロをのけて半分の切り身にするところまではさぶろうの役割だった。頭はつけておく。メスの卵も選り分けておく。それからそれらを大鍋で一昼夜煮込むのは家内。味噌出汁である。これに飴形を数本加える。昆布をぐるぐる巻きにする。大根、人参もいっしょに煮込む。鮒は骨が崩れるまでになる。翌朝にはテーブルに列ぶ。台所一杯に独特の香りがたっている。炊き込んであるから臭みはまったく消えている。冷えると煮こごりが出来ていてどろりとなっている。これを箸で掬って口に収める。巻いた昆布を箸で開いて中身を食べる。我が家だけで独占するのはもったいないので、タッパーに詰め込んで人様にお分けする。これは幾世代も続いていた。祖母が受け継ぎ、母も受け継ぎ、我が代になって家内が受け継いだ。これが晩酌の熱燗によく合うのである。今年は見送ることになった。鹿島まで行けば店に売ってあるが、甘さ辛さが自分の口に合わないのである。

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全豪オープン2回戦錦織圭の応援

2016年01月20日 10時06分45秒 | Weblog

メルボルンでテニスの全豪オープンが開かれています。もう2回戦まで来ています。日本の錦織圭選手がアメリカのクライチェク選手と試合を展開しているところです。世界ランキング7位の錦織がわずかにリードしています。相手はランキングが100位を割っています。彼は余裕の表情を見せています。NHKでテレビ実況中継を見ています。居ながらにしてメルボルンの試合会場です。クライチェクのサーブが冴え渡っているのに、錦織のファーストサーブがなかなか決まらなくなってきています。どうなるのでしょう。やや心配になってきました。

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美しい魂の曲

2016年01月20日 09時56分50秒 | Weblog

ヨハネス・ブラームスのララバイを聴いています。美しい美しい曲です。ヴァイオリンが鳴り響いています。続いてドヴォルザークのピアノとヴァイオリンのためのロマンスが流れて来ます。魂が癒されます。どうしてこんな美しい曲があるのでしょう。理由は分かりませんがあったのです。あったので、さぶろうが聴いているのです。生きている感動を味わっています。ブラームスやドヴォルザークをわが父母のように慕いながら。さぶろうのためではなかったとしても、結果をさぶろうが共有しています。さぶろうが癒されています。こんなに美しい魂の曲があったということが不思議でなりません。さぶろうがこれを聴いたということが不思議でなりません。

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世界の富の不均衡

2016年01月20日 09時40分02秒 | Weblog

今日の朝刊にこんな記事があった。あんまりだと思った。不均衡がひどすぎる。世界の最富裕層62人の資産が下位貧困層36億人(世界人口の50%)のそれに相当するらしい。NGOの調査「2015年世界の保有資産」に拠るもの。格差が急速に拡大している。最富裕層1%が残りの99・9%の富と匹敵しているというこの実態はなんなんだ! 不均衡が酷すぎる。5年前、2010年の同調査では、最富裕層388人が世界人口の50%の資産と同量の資産を保有していたのが、この5年で62人の最富裕層だけで下位50%のそれを保有するまでになった。彼らは税金逃れにさまざまな工夫をもしているらしい。凄まじいほどの税額だろうから。でも、いったいそれだけの富をどうしようというのだろう? とても一人で消費できる資産額ではない。人の胃袋は誰でも1個。しかも一日3食しか食べられないのだ。しかも人は誰でも死を迎えるのだ。富を携えては行けないのだ。どうして有り余る資産を貧しい人たちに分けてはあげられないのだろう? そうすれば愛というこころの富も得られるはずなのに。

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