仏(ここでは大通智勝如来)この経(法華経)を説きたもうこと八千劫に於いても未だ休廃したまわず。 「化城諭品第七」より
八千劫もの長い間法華経を休みなく説いておられます。その間にビッグバンが何度起こったでしょう。お休みになりません。そのように物語っているのは法華経の教えを垂れているお釈迦様です。
お休みになっておられないのでさぶろうにも今日現在もその教えが届いて来ています。さぶろうはアンテナを揚げてこれを聞きます。聞けるだけでももう十分です。お声が聞けるだけでもう十分です。渡してもらわなくともここであらかたは済んでいます。
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この後にこう続いています。
一々に六百万億那由侘の恒河沙の衆生を度(わた)して、示・教・利・喜せしめ、アノクタラサンミャクサンボダイ(無上正等正覚の菩提心)を発(おこ)さしむ。
度(わた)しているのはこの法華経の教えを聞いて菩薩になられた面々です。衆生済度の実践活動を始めておられます。那由侘(なゆた)は数詞で、<不可算、算数できないくらいの>という単位です。恒河はガンジス川のこと。恒河沙は<ガンジス川の砂の数ほど>ということ。夥しい数ということです。それだけの衆生(人間だけではありません、あらゆる生き物です)を仏陀の真実真如の国に渡して行きます。そして仏陀と等しい菩提心(悟りの智慧)を発動させています。示・教・利・喜は衆生済度するときの段階です。
<示>はあらかたをざっと見せてくださること。全体像をちらりと示してくださるわけです。
<教>はそれを一々説いてくださる段階です。
<利>はそうすると向上が生まれて来ます。ジャンプが起こるのです。
<喜>は<ああ、よかった>という安堵安心をもらう段階です。
そして無上正等正覚(むじょうしょうとうしょうかく)の菩提心へと導かれて行きます。仏となんら変わらない悟りを得るのですから、免許皆伝というところです。
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さぶろうはそのスタート地点の<示>の段階に来て、ただ驚いているばかりです。法華経の世界をちらりと見せてもらって茫然自失しているところです。<驚喜>して口をぽかんと開けています。
これからが楽しみです。大丈夫、時間はたっぷりあります。八千劫もあります。この間を全部驚喜していてもいいのです。口をぽかんと開け続けていてもいいのです。慌てることはありません。怖じることもありません。耳には法華経の教えが届いて来ます。ガンジス川の砂の数ほどのたくさんの仏陀の声も届いてきます。
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こうして、法華経の教え通り、宇宙と同じ年齢を生きているさぶろうです。