<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

お昼を抜く

2016年01月29日 13時02分36秒 | Weblog

昼を回った。腹が空かない。小さいのを一箇だったのに、朝の焼き芋がもたれている。焼くと表皮に蜜が流れるんだものなあ。誘惑が断ちがたい。さぶろうを誘惑してくるのは焼き芋ぽっち。

昼は抜くとするか。小雨が降っているから、サイクリングには行かれないし、畑には出られないし。時に北海道から電話。毛蟹のお土産店からの誘惑。2匹で1万円。そんな余裕はないわい。

市役所からのマイクが聞こえて来る。市の公共施設「もみじの湯」を今日から三日間老人に無料解放するらしい。ふううん。洒落た誘惑。やや気が動く。でも行かない。群なす賑わいはご免。

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喉が笑って止まらない

2016年01月29日 12時34分35秒 | Weblog
益田太郎冠者作詞「コロッケ」

一、
  ワイフ貰つて、嬉しかつたが
  何時も出てくる副食物はコロツケ
  今日もコロツケ
  明日もコロツケ
  これじや年がら年中コロツケ
  アハハハ、アハハハ
  こりや可笑し
二、
  晦日近くに、財布拾つて
  開けて見たらば金貨が
  ザツクザク ザツクザク
  株を買はうか、地所を買はうか
  思案最中に、眼が覺めた
  アハハハ、アハハハ
  こりや可笑し

こんな歌もいいね。アハハハがいいね。可笑しく可笑しくがいいね。笑い飛ばせるんだね、こんなふうに。コロッケ一つでも笑える。夢一つ見ても笑える。

 戯れ歌「田圃のびっき」

けろっけろっけろっ/喉が笑って止まらない/びっきの喉は/けろっけろっけろっ/雨の田圃は/大水で/おらもうすぐ流される/それでも笑いは/止まらない/喉が笑って止まらない/

けろっけろっけろっ/出目が笑って止まらない/びっきの出目は/けろっけろっけろっ/雨の田圃は/雷で/おらもうすぐ死んじまう/それでも笑いが止まらない/出目が笑って止まらない/

けろっけろっけろっ/疣(いぼ)が笑って止まらない/びっきの疣は/けろっけろっけろっ/雨の田圃の/雨が止み/おらもう生き返った/こうして笑いが止まらない/疣も笑って止まらない/

けろっけろっけろっ/空が笑って止まらない/びっきの空は/けろっけろっけろっ/雨もよいよい/晴れもよい/おらもう悟ったぞい/こうして笑いが止まらない/空も笑って止まらない/

即興でつくってみました。曲ができてこれが当たって大金持ちにならないかなあ。そうしたら3日4日5日ほども温泉宿の湯治ができるんだがなあ。

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この間にビッグバンが何度起こったでしょう

2016年01月29日 11時57分48秒 | Weblog

仏(ここでは大通智勝如来)この経(法華経)を説きたもうこと八千劫に於いても未だ休廃したまわず。  「化城諭品第七」より

八千劫もの長い間法華経を休みなく説いておられます。その間にビッグバンが何度起こったでしょう。お休みになりません。そのように物語っているのは法華経の教えを垂れているお釈迦様です。

お休みになっておられないのでさぶろうにも今日現在もその教えが届いて来ています。さぶろうはアンテナを揚げてこれを聞きます。聞けるだけでももう十分です。お声が聞けるだけでもう十分です。渡してもらわなくともここであらかたは済んでいます。

この後にこう続いています。

一々に六百万億那由侘の恒河沙の衆生を度(わた)して、示・教・利・喜せしめ、アノクタラサンミャクサンボダイ(無上正等正覚の菩提心)を発(おこ)さしむ。

度(わた)しているのはこの法華経の教えを聞いて菩薩になられた面々です。衆生済度の実践活動を始めておられます。那由侘(なゆた)は数詞で、<不可算、算数できないくらいの>という単位です。恒河はガンジス川のこと。恒河沙は<ガンジス川の砂の数ほど>ということ。夥しい数ということです。それだけの衆生(人間だけではありません、あらゆる生き物です)を仏陀の真実真如の国に渡して行きます。そして仏陀と等しい菩提心(悟りの智慧)を発動させています。示・教・利・喜は衆生済度するときの段階です。

<示>はあらかたをざっと見せてくださること。全体像をちらりと示してくださるわけです。

<教>はそれを一々説いてくださる段階です。

<利>はそうすると向上が生まれて来ます。ジャンプが起こるのです。

<喜>は<ああ、よかった>という安堵安心をもらう段階です。

そして無上正等正覚(むじょうしょうとうしょうかく)の菩提心へと導かれて行きます。仏となんら変わらない悟りを得るのですから、免許皆伝というところです。

さぶろうはそのスタート地点の<示>の段階に来て、ただ驚いているばかりです。法華経の世界をちらりと見せてもらって茫然自失しているところです。<驚喜>して口をぽかんと開けています。

これからが楽しみです。大丈夫、時間はたっぷりあります。八千劫もあります。この間を全部驚喜していてもいいのです。口をぽかんと開け続けていてもいいのです。慌てることはありません。怖じることもありません。耳には法華経の教えが届いて来ます。ガンジス川の砂の数ほどのたくさんの仏陀の声も届いてきます。

こうして、法華経の教え通り、宇宙と同じ年齢を生きているさぶろうです。

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koneko no hokekyo

2016年01月29日 11時21分20秒 | Weblog

法華経は妙法蓮華経。サッダルマ・プンダリーカ・スートラ。白蓮華のようにかぐわしい幽妙な仏(釈迦と諸仏)の教えの織物。全30章余り。前書後書を加えて。さぶろうは40過ぎまで食わず嫌いだった。喰いだしたら止まらなくなった。止まらなくなったが不可解。可解していない。行けども行けども深い深い霧の中。ただ手玉に取られた子猫のよう。以来30年余、子猫のまんまでじゃれているばかり。これで愉快がっているから甚だお粗末である。だよねえ、さぶろうがわずか一生くらいで合点が行くはずがない。過ごして来た億劫の無明長夜が明けるはずがない。目が覚めるはずがない。それでもゴーオン。進め進め。この教えの中を進め。進んでいればいい、どう転ぼうと仏陀に行き着く。ということくらいが薄目に見えて来た。たいしたもんじゃないか。この世に生まれた甲斐が果たされた。

 

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面白い世なのか面白くない世なのか

2016年01月29日 10時38分42秒 | Weblog

面白くない世だからこそ面白くしなければならない。そういう戯れ歌風のがあった。明治維新の志士ではなかったか、作者は。

面白い世をこちらの不手際で一方的に面白くさせないでいるということもある。

ここは面白い世であるのか。そうではなくて面白くない世なのか。判断は二手に分かれそう。どっちがどっちでもいい。それで得をすれば。損得なしでもそこに美を感じれば。真を垣間見られたら。

面白くない世を面白くすることができるのも才能。面白い世をそのまま面白くして生きるのも能力。才能、能力は開花するものだ。熟達もするものだ。限りなく深く限りなく高く。

でも面白い世を面白くさせないでいるというのも変種の能力かも知れない。そこに美学が潜んでもいるかもしれない。自虐性がありそうだけど。それですまし顔にもなれるところが妙だ。

面白い世を面白く見ていれば二乗三乗するかもしれない。面白く見ないでいてもそうかもしれない。それも二乗三乗するかも知れない。

仏教はどう見ているか。浄土の教え、禅の教え、密教の教えなどなど多岐にわたっているから統一見解はないかもしれない。それとも一刀両断、空の一字で片付けるかも知れない。無実態というかもしれない。「面々のおはからいなり」と知らん顔をするかもしれない。

じゃ、さぶろうはどうか。さぶろうは素直でいたい。素直に面白く生きていたい。面白い世であろうと面白くない世であろうとおかまいなしに。我の受け取りを唯一絶対にしてにんまりしていたい。それじゃお山の大将だと揶揄されようとも。我を生きているのは我なのだから。揶揄もお山の裸木。

じゃ、問う。さぶろうお前何が面白いか。

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法華経が面白い。

11

法華経を玩具にしているのか。幼いさぶろう。

12

不届きか。幼くしていてはいけないのか。

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一生不届き者でいていい。法華経の全篇がさぶろうを面白くさせていることに違いはない。

14

「このブログの結末が面白くないよ」だって? そりゃまずかったなあ。

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あんたはあんた。あんたでこの世を面白くすればそれですむことだ。勝手し放題なんだから。

16

無碍(むげ)は自由自在ということだ。勝手し放題ということだ。遮るものはない。障害物はない。「一瞬の仏を生きてもよし」と仏は勧めている。

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天界からの使者自認の小鳥

2016年01月29日 10時29分42秒 | Weblog

よく来る。覗いて行く。ガラス戸の中に居るさぶろうを。よほど気になるのか。慰問をしているのか。死んでいるのか生きているのかを見届けに来ているのか、紋付きを着た鳥のジョービタキは小型の山鳥。尻尾を頻繁に動かす。首を曲げて首を低くしてこちらを覗き込む。ベランダの物干し台の物干し棒に乗っかかって。人を怖じない。わざと近くによって来る。ピッピッと鳴く。挨拶をしているつもりか。情にほだされてしまってさぶろうの方でもついつい声を掛ける。するとますますやっこさんは親しく身振り手振りで応じてくる。憎めない鳥だ。紋付きなんか着込んで来て天界からの使者を自認しているらしい。

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ケチはいつも手ぶらだ

2016年01月29日 10時12分27秒 | Weblog

おい中尾たまには土産買って来いケチなお前はいつもてぶらだ   佐賀市 東家芳寛  (佐賀新聞読者文芸短歌部門入選作)

さぶろうには上手下手は分からない。土産を買ってこないのはケチだからなのか。ふうん。そう思った。にたりとした。歌は人を突(つつ)いてにたりともさせる。

さぶろうも滅多に人には買って来ない。自分宛にはすることもある。しかしこれも極めて稀だ。友人はそうではない。やたら買い込む。いっしょに旅行をすると紙袋2杯くらい次々と買い込む。贈る人がそれだけいるらしい。さぶろうにはそれが第一いない。いても贈ろうなどという気を起こさない。この違いはどうだろう。それだけやさしさが冷え切っているということか。人情が薄いということか。そうかもしれない。そのくせもらうと嬉しがっている。これは矛盾している。

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今日の引力は強い

2016年01月29日 09時37分25秒 | Weblog

なかんづくこれが出色だった。ベテランの野中美佐子さんが書いた作品だ。出色で雲を衝いたので、他のがみんな平べったく映ってしまった。

なぜか今日地球の引力いつもより強くはないか 皿二枚割る   小城市 野中美佐子

(佐賀新聞読者の文芸短歌欄。江副選三席)選者評はこうなっている。「今日に限って二度も皿を割った。握力の衰えや不注意を棚に上げ、引力の所為にした機知あるユーモア。落ちるも落とすも引力の所為だと恍(とぼ)けたところが味噌」

皿二枚は地球に引力が働いていること、そしてとにもなおさずそれがこのわたしにも働いていることをはっきりさせたのだ。お手柄だった。どうだ、この緊密な、親子のような繋がりは。彼女はそう思ってにんまりしたはずだ。<引力が強く働いた>のは引き寄せるわたしの力がこの日とりわけ一段と強かったからだ。感受性も強い日と弱い日がありそうだ。さぶろうはこの歌にこの日強く逞しく捕まってしまった。生きていることをこうも鮮やかに瑞々しく切り取ってみせてくれる短歌というのはつくづくに頼もしい。

あ。そういえば、さぶろうは先だって丼を割ってしまった。洗って布巾で拭き上げているときに滑らせてしまった。旅先で買って来たちょっと高価な土産品だった。でも、この日も、鈍感で通すさぶろうは強くなった地球の引力を感じることはなかった。

地球の引力は、それはわたしの引力でもある。二つのものの間に引き合う力がないと引力は働いてこない。そして万物はおのずからに引き合っている。あなたの引力は、それゆえ、わたしの引力である。常に作動してはいるが、それがはっきり発動するには、しかし、意図して強く感じ合わねばならない。わたしは美しい人にそれを感じてはいるが、彼女の方でだけそれが極端に弱いだけだ。

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ご褒美が来る

2016年01月29日 09時18分55秒 | Weblog

ドヴォルザークの曲を2時間余り聞いて過ごした。ピアノが弾んでヴァイオリンが踊った。魂が光を浴びたクリスタルのようにきらきらきらきらし出した。そして「ご褒美ありがとう」と言った。「ご褒美をもらうようなことをしたからに違いないけど、何をしたのかは思い出せない」と一人で勝手にフォローした。さぶろうは頬が崩れてくすりとした。<ご褒美をもらうようなことをした>という受け取りが明朗で微笑ましかったからだ。今はベートーヴェンのシンフォニーNO5を聴いている。室内の気温は10度。外とはそぼ降る雨。屋根から滑り落ちた大量の雪はそれでも解けずに居直っている。次から次にご褒美が来る、魂は楽天家、そんな受け取りをしているだろう。

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ぐずり出す腹の虫

2016年01月29日 05時44分34秒 | Weblog

またぞろ虫が起こっています。腹の中で虫がしきりに旅ヘ誘います。行こう行こうと言います。ところがそうはできません。支度ができません。金子が用意できないのです。貯金通帳は使い果たしてとっくに空になっています。あれこれ方途を考えては見るのですがないものはないのです。虫を宥めるしかありません。家内にそう言えばなんとかして用立てしてくれるかもしれないのですが、しょっちゅうそうしているでいい加減自分でもそれが嫌になっているのです。髪結い亭主に甲斐性がありません。虫がぐずります。ほんとうは虫以上にさぶろうの方が浮足し立っているのです。それに合わせたように外の雨音がいよいよ高くなつて来ました。

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