<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

寝るしかない

2016年01月21日 19時35分29秒 | Weblog

もう寝る準備が完了した。まだ8時もない。でも寝るしかない。夕食も風呂もすませた。テレビを見るのも面倒だ。

食べる量を控えているから、体重が2kg減っていた。軽くなっている。腹八分というからこれでいいのだろう。明日も朝と昼は抜こう。食べなくとも支障はない。動ける。

今日は大寒。夜明け方に冷え込んだ。明日はもっと気温が下がるらしい。夜中のトイレ通いが苦痛だ。数回に及ぶからこたえる。一枚余計に着ることにした。

体重が減ったので背広のズボンが着れるようになったようだが、行くところがない。減量は無意味かもしれない。

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琴奨菊3横綱を撃破

2016年01月21日 17時57分36秒 | Weblog

優勝が見えて来たようだ。大関琴奨菊が横綱日馬富士を土俵際まで押し込んでそれからはたき込んでひっくり返した。撃破がなった。これで12連勝とした。3人の横綱をみな倒したことになる。重圧もあっただろうが、迷いがなかったようだ。11日間と同じく一直線だった。彼はお隣の福岡県柳川市出身。故郷が沸いているだろう。いやいや日本中が10年ぶりの日本人力士優勝を期待して沸騰しているだろう。

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野良に出る

2016年01月21日 16時55分45秒 | Weblog

昼過ぎから野良仕事をした。寒くて鼻水を垂らしながら。しかしその寒さがまた爽快だった。低い丸椅子に座って、えんやらえんやら草取りをした。青首大根を抜いて来て、外にある洗い場で洗った。洗い場の樽には氷が張っていた。ゴム手袋をして寒さを凌いだ。それから竹箒で外回りの小径を掃き清めた。箒の目がついたら、余計に清々しくなった。そのうち小雨が降ってきた。サイクリングには行かずに終わった。朝昼と食事をしなかった。夕暮れになってやっと少しだけ空腹を覚えている。

(野良の「ら」は接尾語らしい。何だろうかと思っていた。で、野良仕事は田仕事、畑仕事。ほっかぶりの爺様にふさわしい朴訥とした言葉だなあ)

 

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山頂を目指して登る者への激励

2016年01月21日 15時54分25秒 | Weblog

つとめ励むのは不死の境地である。怠りなまけるのは死の境涯である。つとめ励む人々は死ぬことがない。怠りなまける人々は死者の如くである。            法句経=ダンマパダより  (中村元訳)

法句経は釈尊の言葉を集めた原始仏典である。パーリ語ではダンマパダ、真理の言葉の謂である。全篇に423の詩が鏤めてある。

六波羅蜜には精進波羅蜜がある。精進とは勤め励むことである。仏道に励むことである。

怠けおこたる修行者を叱咤されたのだろうか。精進しない者は「死者の如し」とは厳しいが、精進する者は「死なない」とまで褒めあげておられる。

死をも乗り越えて行くということだろうか。それほどに修行を尊重されておられるようだ。

自覚覚他(じかくかくた)の段階まで進むにはそれ相応の覚悟が不可欠なはずである。まずは自らが覚(さと)らねばならない。そこで止まるのではなくさらに覚他へ移らねばならない。他者を覚らせるには自らを高めておかねばならないからである。犀(さい)の如くひたむきに歩き進めていかねばならない。

自力による修行完成を放棄して、ひたすら仏陀の力にあずかっても、それは同じだろう。自らを高める努力を怠る修行者はいまい。

仏陀は勤め励む修行者に対して語りかけておられるに違いない。人を見て法を説いておられるお釈迦様である。褒めるというところに力点が見られるように思われる。それにしても精進する者は死をも超えて行くとは。声を掛けられた修行者は大きな勇気を感じたであろう。彼は勇躍して山頂を目指したであろう。

怠け者のさぶろうには全篇が痛烈な張り手のようなダンマパダである。

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踊れない

2016年01月21日 11時57分30秒 | Weblog

ヨハン・シュトラウス二世の「美しき青きドナウ」の美しい旋律が流れてきます。手と足の先端がひとりでに動きます。ふたりでワルツを踊っているつもりです。相手は誰? 影のほかは誰もいませんから、およそ踊りにはなっていません。実は、さぶろうはまったく踊れないのです。不器用きわまるのです。音感も運動神経も皆無です。あったらどれほど豊かな楽しい人生を送れたか。でも、皆無だからここですべてがストップします。憐れむべし、です。今度はショパンのピアノ曲「雨垂れ」になりました。踊らなくてすみます。こんな具合です。なんにもしていません。どんな行動も起こさず冬空を眺めています。よくもまあ飽きもしないで、朝からずっと灰色の空を眺めていられるものです。

 

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渋面 しぶっつら

2016年01月21日 11時37分24秒 | Weblog

空が鈍重色をしている。すっきりとしない。サイクリング日和にならない。これでさぼる口実ができた。運動をさぼる。籠もっていよう。音楽を聴きながら本を読むとしよう。昼食は抜く。空の鈍重に右へ倣えだ。誘って来る者はいない。誘惑を掛けたい気持ちを、誰にも、愛の天使たちにも、まるでちっとも起こさせないのだから、いかにも面白くない男なのだ、さぶろうという男。なるほどよくみると無愛想だ。とことん渋面(しぶつら)だ。

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祝福を受けているのは鬼だ

2016年01月21日 11時21分05秒 | Weblog

わたしのまわりを神々が取り囲んでいます。祝福をしています。神々がそれぞれにあたたかい光を投げているのでややまぶしいのです。ちょうどいいくらいの光を投げていると思っておられるようなのだけど、ひとりふたりではないので重なり合うのです。光の輪は幾重にも幾重にも広がっています。ここへさぶろうが鬼になっています。隠れ鬼は両手を目に当てています。それでもまわりの存在が見えています。感じているだけかもしれませんが。鬼でいていいというところが嬉しいです。鬼になっています。でもこの鬼は胸に熱いものが込み上げている鬼です。祝福を受けている鬼、そんな鬼がいるという風景は珍しい風景かもしれません。わたしのまわりを多くの神々が取り囲んでいます。この存在のあり方を口々に祝福しています。

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ここがそこだ

2016年01月21日 11時01分02秒 | Weblog

川久保の野原の崖下に石に彫られたお地蔵様が立っておられる。石が光背になっている。全体で落ちかかる露の雫の形になっている。合歓の木が頭上を覆っているが、いまは冬なので、空が筒抜けになっている。足元には短い草笹の茂みが広がっている。枯れ葉がまわりを埋めている。風がここへ来て静かに遊んでいる。さぶろうはよくここへ来る。お地蔵様と対面する。お話をする。話が聞いてもらえるのでちょくちょく来る。でも長話はしない。「今日もここへ来ました。お地蔵様に会えました。あなたに会うと嬉しい気持ちになります。どうしてでしょうね」などと語りかける。安らいでおられるお顔を仰ぐ。そしてどうしてだかそれですべてを納得する。すべてを納得するだなんて大袈裟な物言いだけど、そんな不思議な気分になれる。<さぶろうが仏さまのいる世界にいる><ここがそこだ>ということが漠然と合点される。此処というのは宇宙一杯の広さを持つ此処だ。

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ミルク色の昼の空

2016年01月21日 10時41分07秒 | Weblog

今朝は畑に霜が降りた。土の粒がこちこちに凍った。海の断崖のような霜柱が立った。

しめしめ。これで白菜がおいしくなるぞ。甘くなるぞ。抜いて来て、断ち割って、ざくざく鍋物にして喰おう。

そこにあの人が来ていっそう世界が楽しくなる。そんな夢想はしないでおこう。昼の空がミルク色をして広がっている。郵便配達のバイクが止まる。

かじかんだ手指をお尻に下に差し込んであたためる。しばらくあたためるとあたたまる。ひとりでできることをひとりでする。

風もないのにベランダに吊した干し柿10個1束がわずかに揺れている。揺り籠がなくてもブランコはできるのか。これが彼らの自由で、それを楽しんでいるのか。

それぞれがそれぞれの工夫をして存在を楽しんでいるようだ。物音を立てて騒がしくするのが好きなものは物音を立て、それが苦手なものはそれもしないで。

 

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どんなふうに見えているのでしょう

2016年01月21日 10時21分33秒 | Weblog

ブルーベリー入りの青紫ヨーグルトをガラスの器に半分ほど満たして、これを朝ご飯にしました。緑茶も茶碗に2杯。今日はなるべく胃に負担をかけさせないでおこうと思う。昼は抜こう。

部屋の中なのに手の指が寒くてかじかんでいる。シューベルトの歌曲アベマリアを聴いています。庭の梅の木の枝にはつがいの山鳥。こっちを見ています。彼らにはどんなふうに見えているのでしょう、人間という生き物の姿が。

今日は大寒らしい。梅の木はあいかわらず裸木。紅い蕾は見えません。山里は静かです。パキスタンでは銃声が響いているというのに。北朝鮮は核実験の成功を国中で誇らしげに祝っているというのに。

山鳥たちにはどんなふうに映っているのでしょうね。ひとり地球を我が物にしている人間たちの営為が。もしも疑義を糾しに来たら、どう説明をしてやれば納得をするのでしょう。

 

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