<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

長い長い目で見る

2016年01月15日 21時51分58秒 | Weblog

長い目で見た方いい。短い目よりも長い目で見た方がいい。長い長い目がもっといい。長い長い長い目の方がもっともっといい。長ければ長いほどいい。結果はすぐに次の原因になってしまうものだ。最終の結果だけが結果であって、あとはみな中途の原因に過ぎないのだから。これを最終の結果と見てはならない。誤ってしまう。今日の結果を明日の原因にすれば好転するはずである。長い長い目で己を見た方がいい。長い長い長い目で人を見てあげた方がいい。ゆっくりゆったりすればするほど間違いが少なくなるのだから。長息もそうだ。長い息をするようになればなるほど長生きになる。

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軽快な走り

2016年01月15日 16時25分56秒 | Weblog

ただいまあ。往復20kmのサイクリングを楽しんで来ました。ぐいぐいぐいぐいペダルを漕いで汗が滲みました。上峰JAでチューリップの黄色とピンクを買って、荷台の空き小箱(人参が入っていた)に収めました。35球がかさかさことことと鳴りました。できるだけ通ったことのない小径、行ったことのない聚落の中を走ろうとつとめました。「ひゃあ、どでかい(家の)構えだなあ」と何度も叫びました。あちこちに見上げるような豪勢な家の造りがあります。お金持ちなんだろうなあと思いました。さぶろうの住む家は安普請です。鬱蒼とした森の傍も2度通りました。小鳥の声が高く聞こえて来ます。ほとんど人と会いません。軽快に走れました。4時には戻って来ました。

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小さな器はすぐに満ちる

2016年01月15日 10時14分04秒 | Weblog

「宝塔偈」    日蓮宗経典より

此経難持 若暫持者 我即歓喜 諸仏亦然

しきょうなんじ にゃくざんじしゃ がそくかんぎ しょくぶやくねん

此の経(法華経)は持(たも)ち難(がた)し。若(も)し暫くも持(たも)つことあらん者あれば、我(釈迦牟尼仏)即(たちま)ちに歓喜す。諸仏も亦、然(しか)なり。

さぶろうはまたまた此処を読んでいる。そして嬉しがっている。いつでもここを通りかかるとこんなふうになる。嬉しがる。釈迦牟尼世尊が歓喜しておられるさまを想像するとこうなる。諸仏が釈迦牟尼を取り囲んでやっぱり同じように嬉しそうにしておられる図を思い浮かべる。どうして仏たちがそうしておられるのか。さぶろうが法華経を読んでいるのを喜ばれているからだ。と、思う。(これは明らかに曲解なんだけど。でもさぶろうも仏さまの救済の対象である、まちがいなく)ほんの暫くでもいい、と注釈してある。10行くらいを音読する。するともう愉快が届いて来る。諸仏の願は衆生をして仏の道を歩ませることにある。1行1mとしたら10行読んで10mの仏道である。それくらいでもう満ち足りる。さぶろうの器はそれほどに小さいのだ。

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冬の野原の小鳥

2016年01月15日 10時01分13秒 | Weblog

さぶろうという老人は小心者である。死んだ後のさぶろう。これが気になってしょうがないふうだ。死んだ後のさぶろうは今ここで実証が出来ない。それで勢い実証可能な「今此処」をかがやかそうという努力をし始める。きらきら。光の所へ移動すればきらきらになる。水浴をする小鳥のように光を浴びて、まみれる。そしてその姿を死後のさぶろうにそっくり重ね合わそうとする。そうだ。死後のさぶろうもこのように光にまみれているはずだ、と。きらきらしているのは簡単だ。光がそうさせるから身を任せてさえいればいいからだ。そうやっておいて、いま此処をきらきらすることが即死後のさぶろうをきらきらさせることだと信じたがる。まるで小鳥だ。老人でいながら冬の野原の小鳥だ。

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サイクリング日和

2016年01月15日 09時43分56秒 | Weblog

今日はサイクリングに出掛けるとしよう。光が跳ねている。天空でも跳ねて大地でも跳ねている。はしゃぎ回って、ターンにスピードが付きすぎて、このわたしたちのはしゃぎ回りを、力ある勇士よ、誰か止めてくれと懇願している。さぶろうが手を挙げた。力ある勇士の条件はちっとも満たしてはいないけど。風もなさそうだ。できるだけ遠くへ行ってみよう。自転車の後部車輪の上に先日荷台を付けてもらった。荷台に細長くて小さな空き箱が紐で固定されている。これが籠の代用だ。いらないときにはどければ軽くなる。ひとりでぷらぷらするだけ。日本の村里にはたいてい神社があるので、ここで立ち止まって休憩する。鳥居を入ると神社はしんとして鎮まっている。高い木がある。小鳥の声がしている。さぶろうはしばらくここで単行本を読む。藪椿が突然ぽとりと落ちて落下音が眠気をさましてくれる。また自転車に跨がる。先へ行く。踏まれた後の麦畑の麦が一斉に立ち上がろうとして、畑に気合いが満ちている。さぶろうはこれでまた元気をもらって進む。荷台の小箱に蜜柑が一箇ごろごろして騒ぐ。あはれ、さぶろうはひとりをこんなふうにして楽しむよりほかにない。やさしいメッチェンが傍にいてさぶろうが物語る御伽草子を聞いてくれることもない。面白く頷いてくれることもない。

 

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霜柱

2016年01月15日 09時33分32秒 | Weblog

今朝は霜がひどい。霜柱がつんつん立って畑がこちこちに凍っている。尖ってて触れば指が怪我しそうだ。そこへ朝日が照ってきた。霜はとろろんと解けていく。ベランダの下の鉢植えミヤコワスレが、「ああ、あたしも霜柱立ててみたい」と呟いたので、さぶろうははっとした。霜柱は凍った天の水玉。水が飲みたいときの水を地上のものに提供してくれる。乾いたままのミヤコワスレの中心に青紫の花が咲いている。彼女はお昼になっても水が飲めない。

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忸怩

2016年01月15日 08時22分59秒 | Weblog

ただただ明るく生きていればいい。胸を張っていればいい。晴朗にしていればいい。澄み切っていればいい。元気で快活であっていい。

暗いことを考えるな、さぶろう。重たいことを考えるな。見合う分価値の創造などということを考えるな。生かされているのだ。生かされているだけでいいじゃないか。生かされている、その恩恵に見合う分などを創造できるわけがないじゃないか。

何億トン何兆トンの力が掛かってこうなったのだぞ。さぶろうを生かそうとして大宇宙が躍動をして何億トン何兆トンもの愛情が掛かって来たのだぞ。おまえに1グラムの返却ができると思うか。

さぶろうはできないと思った。

だったら、押された分、支えられている分、ただただ明るく生きていればいい。胸を張っていればいい。天気晴朗にしていればいい。澄み切っていればいい。元気で快活であればいい。

それはその通りなのだろうが、さぶろうはまだ忸怩としている。それに甘んじていいという理論に没頭できないでいる。

日が東から昇ってきて空が輝きだして来た。

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それで許されている

2016年01月15日 08時07分24秒 | Weblog

さぶろうは今日を生きている。さぶろうが今日を生きていることにどんな価値があるか。価値とは他者に対する利益の提供度のことである。まずはおのれの利益を確保している者、彼にはそれ相応の価値が生まれてこなければならないはずである。

それなのにさぶろうはぼんやりしている。冬の凍てつく空を見ている。このぼんやり者は、どう見ても他者に対する利益などは提供できそうにない。己の利益に甘んじているだけで止まっている。それでもって安んじている。まったくわがままな男である、さぶろうは。

そこまで考えたところでさぶろうは泣きたくなって来た。涙をおぼえてきた。胸の奥がしとしと潤んできた。どうしてか分からない。ともかくそれですんでいる。それですまされている。それを許している。それが許されている。この日のさぶろうである。

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宿命

2016年01月15日 07時39分00秒 | Weblog

食べる。食べると、それがそれでなくなって、それからはそれがわたしになる。そしてそれがわたしを動かすことになる。わたしはそれを動力源にしてやりたいことをやり始めることができる。そうするうちに、わたしにエネルギーを吸収されてしまったそれはあっさり体外へ出されてしまう。でもそのときにはそれはもはやまったく元の姿を止めてはいない。わたしはロボット。わたしは物体。物質で出来ているものはこの通り。外部からエネルギーを確保しなければ生きてはいけない。そうしなければわたしとは呼べない。動かないままのロボットはわたしとは呼べない。わたしはそれゆえに食べる食べる食べる。毎日毎日飽きもせずにがつがつ食べる。生命体を食べる。食べるとそれはそれでなくなってしまう。わたしの中でものの見事に分解されてあっさり元素化する。それは元素化するが、わたしはそれで元気になる。健康を維持することになる。それが死んで元素化することをしかしわたしは一度だって悲しんだだろうか。自分の死は悲しいくせに。外部の生命体を殺して殺してしかこのロボットさぶろうは人間さぶろうとしては生きられない。そういう宿命を背負っている。では、そういう宿命を宿せたことを感謝しているのだろうか、さぶろうは。無数のいのちを殺害してきた宿命を懺悔しているだろうか。食べられたいのちがさぶろうの懺悔を要求はしていない。それをいいことにして放っておくばかりで。

 

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