初場所13日目。大関琴奨菊に土。連勝がストップした。勝ったのは平幕豊の島。彼も二敗に踏みとどまった。白鵬も一敗で並んだ。10年ぶりの日本人力士の優勝はあるか。優勝の行方が混沌としてきた。
1
「日々(にちにち)是好日(こうじつ)。人々(にんにん)これ真人(しんにん)」 禅宗経典「宗門安心章」より
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来る日も来る日も仏に遭う日。会う人会う人みな仏。
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そしてこう続く。「平常にして無事。無事こそこれ貴人」
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仏に遭う、これが平常である。この平常以外に何が必要か。日常無事を味わうことが出来る者こそ富貴の者である。
2
さぶろうはこう味わってみた。
日々是好日。好日をこう解釈してみた。仏に遭える日だと。それが日常で、それを誰もが平常にしている、と。真人とはすなわち仏だと。
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その好日を過ごしておきながら、それを非好日にしてしまって、他にもっともっといい日が来そうなものだと期待をするが、今日の好日を見据えることが出来ない者が、他の何を見据えるというのだろうか。
3
今日、山を見た。今日、空を見た。今日、光を見た。それが何よりの証拠じゃないか。仏に遭ったという証拠じゃないか。
今日、人とともに山を見た。今日、人とともに空を見た。今日、人とともに光を見た。それが何よりの証拠じゃないか。仏に遭ったという証拠じゃないか。
仏に遭った自己(じこ)も真人貴人であった。仏に遭った他己(たこ)も真人貴人であった。
4
仏に遭った者でなければ山を見ることはできない。
仏に遭った者でなければ空を見ることはできない。
仏に遭った者でなければ光に遇うことはできない。
仏に遭った者でなければ人に遭うことはできない。
5
仏教は絶対肯定の宗教である。此処を今を、今此処にいるわたしを絶対肯定する。わたしを今此処で仏に遭っている者、すなわち奇特な真人貴人だとする。
今此処で仏に遭っている者は此処を浄土とすることができる。仏国土とすることができる。
いま此処で遭ってもいいし、先々で遭ってもい。この世で遭っておいてもいいし、あの世まで待っていてもいい。この世で予約を取っておくのもいい。この世で実感してもいい。
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絶対肯定の絶対とは比較の対象なしということである。仏陀を超える対象がないからである。
否定をしても否定をしてもそこへ到達してしまう。絶対肯定へ到達してしまう。仏教は転の宗教でもある。
人間には22000個の遺伝子がある。そのうちまったく手つかずの遺伝子がたくさんあって、何十年も奥の奥に隠れたままになっている。引っ張り出されなかったために眠ったままになっている。それは未使用だから、思い切って使ってみたらそこで一発逆転の可能性が秘められている、らしい。その可能性は死ぬまで続く、らしい。才能というのは幾種類もある。どのフィールドで発揮されるかはチャレンジをしてはじめて明らかになること。しかし、大抵の場合はチャレンジすらもされないで蓋をされる。そうするとその分野で大活躍できるはずの遺伝子が、そこにあったことすらも証拠されずに消されてしまう。だから、「60才の手習い」でも「70才の手習い」でもとにかくやってみるべし。やったら当たり籤を引くこともあるという説。そういう説を提示されると、微かな希望が湧いてくるではないか。
行って来てよかった。自転車に乗って城原川をいつものように下って行った。川面に浮かぶ鴨の群れを右に眺めながら。鉄道線路の踏切を越えたところで小雨がひどくなってきた。濡れては風邪を引く。今日は往き道10kmを進もうと力んで出発したが、引き返すことにした。堤防を離れて街中に下りて行った。花壇に金盞花が見事に咲いている家の前でしばらく立ち止まった。ここにはもう春が来ていた。背振連山を遠くに眺めながら県道を北上した。何か父兄会行事が組まれていたのか、小学校の校庭が車で埋まっていた。4時に帰宅した。往復で10・5kmだった。これくらいでは運動にならなかったかもしれないが、けっこう清々しかった。
橅(ぶな)植えて百年待つといふ人の百年間は楽しと思へり 長野県 木内かず子 (お題は「人」 歌会始の儀入選作)
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橅は山毛欅とも書く。高山に生えている。長寿の木で百年千年を生きる。山に入って行って山毛欅を植林した人たちのことをスクリーンに映し出している。山毛欅はすぐに商品になるわけではない。子、孫、曾孫、やしゃ孫まで待っても天を衝く大木には育っていない。それでも待つ。植えた以上は待つ。「百年千年待ちますか」「百年千年も待っていられる。ここがいい。気が遠くなるくらい待つ。これも至楽じゃないか」樵夫と樵夫ではない人との間で、そういう会話が成立したのかも知れない。「楽しと思へり」だから、やや傍観者である。作者は林業に携わってはいない。「ほう、そんなに暢気に構えている人たちがいるのか」と慨嘆しているだけであるが、植えた人の思惑を測ってみて楽しんでいる風でもある。
人は死ぬ。死んでも待てるか。待てそうな気がする。その間ずっと彼は山毛欅の森林を見て回る楽しみを得ている。森は青々と青々となっていく。
休憩所の日向に手袋干しならべ除染の人らしばし昼寝す 福島県 菊池イネ
お題「人」。歌会始の儀の入選作。起こって欲しくないことが起こってしまった福島。大震災と津波と東京電力原子力発電所の倒壊。チェルノブイリ事件の恐怖を上回った。核に汚染された大地と海。住民は閉め出されて無人になっている。ここに身の危険を冒して除染の作業に邁進している人たちがいる。脅威はまだ消えてはいない。日夜の作業で疲労困憊に達しているであろう。休憩所が一棟備えてある。そこにしばし昼寝をして疲れを癒している人たち。除染に使う手袋が無造作に日向に干されている。現代が抱え込んだ危機を救う代表者として献身される人たちをねぎらいたいが、埒外に身を置いた者としては言葉にならない。彼女はそれを歌にして歌った。
「歌会始の儀」今年のお題は「人」。太平洋戦争の激戦地パラオ・ペリリュー島を訪れて慰霊碑に献花された天皇陛下はこの歌を捧げられた。
戦いにあまたの人の失せしとふ島緑にて海に横たふ
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戦争の傷跡が消えてその島は緑あおあおとしておだやかに海に横たっている。ここでは激戦が繰り広げられて多くの死傷者が出た。平和の島に戻ったことが鎮魂になってほしい。戦争が侵した残酷・非人道は、しかし、70年の歳月が償って償いうるものでもないかもしれない。戦いなまなましい戦跡をも見て回られたであろう。戦死者をお題の「人」に選ばれた天皇陛下のおこころをはかってみる。地球の海がいつまでもこの緑豊かな島を残していますように。
宝籤また来年へ夢たたむ 唐津市 江頭あけみ (新聞読者文芸川柳欄入賞作品)
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ふっふっふ。宝籤は多空籤。当たらないと分かっていながら空(から)籤の宝籤を買う。ほんのちょっと、ちょっとのちょっとの当てを当てにして。そして当選日が過ぎる。もちろんカスを掴んだだけである。どきどきはらはらをしたのだから、それでもそれをよしとする。年末ジャンボ宝籤と来年こそは相性が合いますように。しれっと笑って今年の夢はたたんでおしまいにする。川柳は笑いの文学。人を笑う川柳もあるがここでは己の癖を笑っている。
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宝籤買う日泣く日が降り積もる 李 白黄
海鼠食ぶ娘の小言聞きながら 佐賀市 寺戸英子 (新聞の読者文芸俳句欄入選作)
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巧い下手は分からない。海鼠(なまこ)に刺激された。わたしは摺り大根たっぷりにして酢を多めにした薄醤油で食べる。こりこりしておいしい。歯が丈夫ではないから呑み込むまでに幾分時間がかかる。その間、娘の小言が続いている。「脱いだままにしないでよ」「部屋を片付けたら」などとくにゅくにゅ。「いいじゃないか、それくらい」と口がとんがる。噛み合わないがどうしようもない。娘の目にはそう映るんだから。この作品はちょっとユーモラスでもある。
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海鼠とはユーモラスなりそを喰らふ 李 白黄
喰ったらこっちまでユーモラスになりそうな。海の底にいるちょっと得体の知れない不気味な生き物。黒海鼠、赤海鼠。疣疣がある。足がない。目がない。鰭がない。でも案外陽気な性分で、あるいはそこで屈託なくユーモラスな生活をしているかもしれない。
為すよりも為さざることを老いしわがこころざしとせむ年の初めに 佐賀市 八坂孝純
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これは本日の佐賀新聞読者文芸入選作。共鳴が起こった。八坂さんはわが尊敬する歌友。清廉な人柄だ。
足し算よりも引き算が我が身に似合うようになってくる、それが老いかもしれない。あれもこれもは重たい。重いものをあれこれ抱えていると膝が笑ってしまう。減らして減らして行くのが賢明である。しないでいいことはしないでいよう。するべきことが減らせないのなら、しないでいいことはしないでおこう、できるだけ。そう思う。若い頃のような欲心は起こさない。もう起こせなくなっているのだろう。欲心を抜いて体重が軽くなればその分遠く散歩も出来る。
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欲心を削げば老いさき軽くなり野が遠くまで誘いかけ来る 李 白黄
あれもしたいこれもしたい。死ぬまでに少しくらいはいいこともしたい。人助けもしてみたい。扱いやすい老人だと褒められてもみたい。そうだろうがあれこれは身が持たない。もういいじゃないか。身の振りお構いなしでいいじゃないか。そろそろそういうことは棚上げにして老い先を天空にあずけてしまうという手がありそうである。