OBERON 日記

1999年1月25日。パソコン通信から始まった公開日記。
できれば、死ぬまで続けたい・・・(爆)。

レンジローバーに乗る人は・・・💛

2024-08-21 13:26:10 | Weblog
超小ネタ・・・わたし的にはあり得ない短さです・・喜ばしいでしょ(^^;。

以前から、言い続けているんですが、欧米のドラマや映画を見ていると、かなりの頻度で"お金持ちの悪者"が、我らがレンジローバーに乗っています。もちろん、その時点での最新モデルです。

我が家の最後の男たちの一人、レンジローバー君が、そのような扱いをうけることを、わたしは内心、悔しく思わなくもなかったのですが・・・

イギリスのドラマ『ヴェラ〜信念の女警部〜』で、メインキャラのヴェラ警部の愛車が、古~いレンジ君なのが、ずっと心の支えでした(←大げさ)。

でも、近頃、新シーズンがCSで放送されたフランスのドラマ『マルロー警部のフランスさすらい事件簿』で、主役である女性警部マルローが乗っているのも、古いレンジ君なのです!前放送も見ているはずなのに、ずっかり失念してしましたね、申し訳ない(^^;。

ということで、お金持ちの悪者も乗るけど、癖のある女警部が好むのも我らがレンジローバー! ただし、悪者は最新モデルで、警部たちは旧車、なのでした💛

ちなみに、我が家のレンジ君は、最新モデルではないけど、旧車というほどは古くない、中途半端なあたりなんですが・・・美しさと愛らしさは最高なのであります!!

年に数日、太陽信仰に目覚める奴・・・

2024-08-17 17:46:40 | Weblog
太陽信仰って理解でいいのかな・・・インカ帝国の太陽神殿とか・・・たしか春分だったか秋分だったか、もしかしたら夏至だったか冬至だったか、とにかく太陽運行の重要な日の日の出だったり日の入りだったりに、神殿のある部分に太陽の光がさすみたいな構造で建てらいるって聞いた気がするんですよね・・・

そういうのを聞くと、ただただ「凄いなぁ~」って思っていました。漠然と季節の移ろいを感じたりはしますが、それをそんなに強く意識することなんかないよなぁ~って。でも、「いや、そんなことないや」って、ここ数日で実感しています。「平凡な感覚の人間でも、日常の生活の中で、否応なく、強烈に太陽の運行を意識することってあるや」と実感しています。とはいっても、毎年、ある一定の期間、体験してきたはずで・・・なのに、その時だけで忘れてしまっている自分が情けなくはありますが(^^;・・・だからこそ、今年は、それを記録しておきましょう・・・もしかしたら、今までに何回かは、今回のように感じて記録してきたことも忘れている可能性はありますが・・・

とにかくです・・・

毎朝、車で夫を最寄りの電車の駅まで送っていくことは、よく話題にしていると思いますが、その帰り道のことです。そのいつもの道は、南北に細長く伸びる小山を一つ越えていくのですが、帰り道は、西から東に小山を越えるので、要するに朝日に向かって帰っていくことになります。とですね・・・ここ数日は、帰りの時間、ちょうど太陽が小山の頂上に見える角度になるんです。とですね、あまりの光の強さで、まったく前が見えなくなるんです。対向車がいても、歩行者がいても、全く見えません。車は、強烈な光に向かってただ走っていきます。だから、ものすごく怖いんです。対向車が来ていませんように、人がいませんようにと祈りながら、そろりそろりと走ります。そして、これが何日か続くわけです・・・

毎日じゃない、毎年、この時期だけ・・・ああ!!太陽運行!!!

毎朝、天気予報で、本日の日の出日の入りの時間は発表されます。でも、それを強く意識することなんかありません。知識としても実感としても、夏は日が長く冬は日が短いとは分かっていますが、だからどうだと言われても、なんのコメントも出てきません。当たり前だと思っているし・・・だからどうなの?

なので、古代の人たちが、太陽の運行に対して信仰心をもつことも、「昔の人は知識もないし、大げさに感じてたんだね」くらいに思っていましたが・・・いやいやいやいや、いやいやいやいや、わたし、思わず、信仰してしまいます、あの光に向かって車を走らせるときには・・・

そして、それをただ畏敬するだけでなく、観察し、記録し、その規則性を見つけ、何かしらの形で表現した・・・すごいことです。ほんと、すごいことです。毎年体験し、きっと、その度に驚きと感動をおぼえているはずなのに、すぐに忘れてしまっている私とは大違いです。

もちろん、現代人のわたしは、どんなにスゴイ存在でも、太陽を神様だなんて思いはしません。けど、私たちの暮らしの、ひいては私たちの精神的な部分でも、太陽は真ん中にある存在だなとは感じます。太陽なしに、我々は生きられない・・・神様でなくても、信仰するに値する存在だなと、心から思います。

さて、来年の今頃、わたしはまた、同じことを言っているんでしょうかね・・・(^^;。


正誤ではなく、好き嫌いで選びます

2024-08-07 07:05:49 | Weblog
昨日、「たぶんディベートは得意だったと思う」と話してから、なんとなく考えてたんですが・・・

ディベートが得意だったろうと思う根拠は、詐欺師的口の巧さというのもあるんですが・・・(自分で言うのもなんですが、今はともかく、若いころはそうでしたね~。しかも、それを内心自慢に思ってたふしもある、情けない奴です)・・・本当のところ、一番の理由は、"テーマを決めた議論の場では、好き嫌いを持ち込まない"という、一種のポリシーを持っていたからです。

"どんなことにも良い面と悪い面、メリットとデメリットがある""どんな主張にもそれなりの言い分がある"と思っています。そして、議論の場では、それらを多方面から吟味する。だから、自分がどう感じるかは関係ないと、そう思っています。そう、これに関しては、今もそう思っています。だからこそ、相手の発言を否定したとしても、それは相手の人格を否定することにはならないんですね。もちろん、その逆、発言を否定されても、わたしの人格が否定されたわけじゃないでしょ。

でも、じゃあ、あなたはどっちを選びますかとなれば・・・それは100%、自分の好き嫌いで選びます。ここは、理屈じゃなく、自分の好みの問題だと思っていますから。だって、それぞれに主張があり、それぞれにメリットとデメリットがある、そんな中で選択するとなったら、正誤ではなく、好みしか判断基準はなくないですか?

きっと、優秀な商売人さんだったら、その人(その人が属する集団)にとってのメリットとデメリットを算出して、メリットが多い、あるいはデメリットが少ない方を選択するというスタンスなのかもしれませんが・・・わたしは、まったく商売下手なので、100%好き嫌いで選びます。

それにしても、"信念"のある人は、自分の主張のみが完全に正しくて、相手の主張にはまったく聞くべき点がないと思っているんでしょうか。なら、わたしは、まったく信念などありません。

若いころは、よく"選択"という言葉を使っていました.そうですね・・・今も使ってますね(^^;。わたしは、何かを決めるとき、誰かに保証された正義などではなく、自分一人の責任による、しかも自分の個人的好き嫌いを基準にした"選択"をしたいと思っています。もちろん、その根っこには、色んな人の影響、社会の影響が色濃くあるには違いありませんが、そのうえで、わたし個人の好みに従って、わたし個人の責任において、選択していけたらいいなと思っています。

それが踏みにじられる世界だけは嫌だ、嫌いだ・・・と、そう思って、それに基づいた個々の選択をしていくと思います。

そういえば・・・二題 (わたしの根性の悪さの証拠)

2024-08-06 08:36:13 | Weblog
昨日、『ニュース雑記帳』の方で、"陰口"を容認する発言をしたんですが・・・その系統の話でいえば・・・わたしって人に"裏表"があることも、肯定的に考えてるなって思いました。

"裏表のない人"といえば、とても"いい人"というイメージになりますよね・・・少なくても、わたしはそう感じます。でも、本当に"裏表"のない言動で、人を傷つけなくてすむ人は、ごくごく一握りだと思うんですよね。真正の根っから善人。腹の底から善人。そういう人じゃなきゃ、いっつも本音を吐き出して、人を傷つけずにすむはずがない・・・って、性悪人間のわたしは思うんです。だって、わたしなら、本音を言ったら、相手を傷つけてしまうようなこと、しょっちゅう思ってますから(爆)。

でも、わたしとて、極悪非道の輩じゃないですから、わざわざ意味なく人を傷つけたくはない。だから、たいていのことは、本音でしゃべらず、オブラートに包んで言ったり、ときには心にもないことをいったりするわけです。本物の善人になれない身としては、"裏表"を使いこなすことで、周りの人を傷つけないようにするという・・・一応、これでも、せめてもの善意なのです。

世の中には、そういう、わたしのような、極悪人じゃないけど、けっして善人とも言い難い人は、たくさんいると思います。そういう人たちには"裏表"を許してほしい・・・と、わたしは強く、願うのであります。

で、もう一つ思い出したのは・・・もうずいぶん前ですが、近しい人に「あなたは信用ならない」といわれたことです(^^;。

当時の私は、ほんとうにペラペラと口がよく回る人間で、複数の人から、冗談で「教祖様になれるよ。一緒に壷を売らない?」なんて言われていましたっけ。で、そのころ、身近にいた人に「ディベートとか得意でしょ」って言われたんですね。で「したことないけど、たぶん得意な方だと思うよ」って答えました。「まったく違う意見の、どちらを振り分けられても、そっちが正しいと相手を説き伏せられるでしょう」って言われたんで、「たぶんね」って答えたら、「やっぱりね。あなたの言葉から、あなたの本心は分からない。あなたが何を言っても、それがあなた自身の声なのか判断できない。だから、あなたは信用ならない」って言われて、なんだかビックリしました。

わたしとしては、近しい人には誠意をもって接しているつもりだったから、なんでそんな風に思わせてしまったのか、見当もつかず、ほんとうにビックリしました。最初に話したように、いつもいつも本音で話していないのは認めます。相手を傷つけないための小さな嘘は、日常的についているとは思います。けど、肝心なところで、身近な人を裏切るような人間じゃない・・・そうは思ってもらえてなかったのか・・・ふむ・・・

まっ、仕方ありませんね・・・たしかに、そうかもしれない・・・その時、わたしはそう思いました・・・で、「あっ、わたしってなんて冷たい人間なんだ」とも気づきました。わたしは近しい人に「信用ならない」と言われて、驚きはしたけど、あまり傷ついてはいなかったんですよね・・・そうなんだぁ~、そうかもしれないねぇ~って、なんだか簡単に受け入れちゃいました。たぶん、究極の自己中人間だからなんだと思います。

わたしが思うに、そう言った人は、きっとわたしを傷つけたかった。傷つけるほど、ちゃんと向き合った人間関係を築きたかった。でも、わたしは、そういう人との関係の作り方が苦手です。そういう近づき方をする人は苦手です。お互い、自立した個人として、ある一定の距離を保ちながら尊重し合いたい・・・なんて、キレイな言葉で纏めましたが、結局は、自己愛が強くて他者に興味がない冷たい人間だってだけなんですけどね・・・

植物の剪定と、人間の教育は・・・

2024-08-05 09:24:15 | Weblog
グリーンガーデン計画より先に、手が付けやすいため実行できているのが室内での鉢植えを育てること。観葉植物を中心に十数種を育てているのだけど、その中に頂き物のアンスリウムがあります。最初は、花屋の店先でよく見かけるような小さな株で、葉も花もシュッと姿よく伸びていました。それが、どんどんどんどん育って増えて・・・今は、直径30cmくらいの鉢が三つ、それももう溢れんばかりにモサモサと茂っています。

それを見ながら、剪定しなくちゃいけないんだろうけどなぁ~・・・って、ため息が出ます。

外に植えている草花に関しても同じなんですが・・・植物の育て方なんか検索すると、たいてい剪定について書かれています。切り戻しだとか摘心とか、そういうの・・・。最初は"姿かたちを人間の好むように整える作業"だと思っていましたが、病害虫を防ぐためにも必要なんだそうですね。それを知っても、やっぱり、なんだか・・・抵抗があります・・・せいぜいが株分けくらいかな、わたしが出来ることって。あと、枯れて落ちて、葉っぱにくっついている茶色になった花を引っぺがすことくらい・・・かな。

たぶん・・・無意識に、人を育てることと重ねているのだと思うんですよ、わたし。植物と人間、決して同じじゃないんですけど・・・

人を育てるって大切なことだと思うんですよ。基本的な学問や技術の教育とか、道徳教育とか、個々の子の才能をさらに活かす指導とか・・・すごく大切・・・絶対に必要・・・うん、それには何の異議もないし、疑いも抱いてません・・・

それでも・・・他者が美しいと感じる姿を得るために、何かを切り取ったり、押さえつけたり・・・

ほっておいたら病気になるよ、長生きも出来ないよ、キレイな花も咲かせられないよ・・・お前の為なんだよ・・・

ん~ん・・・

答えが出ません・・・ただ、どうしても、心が気持ち悪がるんです・・・なぜか、嫌だっていうんです・・・ふぅ~・・・

桂離宮の庭が超絶美しいという奴がほざくのも何なんてすが・・・

いや、ほんと、維持管理って大変なんだから・・・

2024-07-28 08:56:51 | Weblog
今年も、やってしまった・・・瞼、パンパンに腫らしてしまった・・・(涙)。

つくづく、庭仕事には向いていないと自覚している。ましてや、お百姓仕事なんてとんでもない。だから、父や母が守ってきた田畑は、すべて何かしらに転用した。それでも、自宅周りの母の家庭菜園的な畑は、何ともしがたく・・・何度も言っているように、イングリッシュガーデンに仕立てたいと考えたのだ・・・けど・・・ああ~、気をつけて防護して作業したつもりで、やっぱりこのザマなのだ・・・・・

それにしても、父も母も、こんなに大変なことを、当たり前のように、ずっとずっと続けていたのだなと思う。生まれてこの方、彼らのことはずっと見てきた、すぐそばですべてを見てきた・・・なのに、何も分かっていなかったのだなと思う・・・

先日、友人たちと桂離宮に行ってきたのだが・・・まず思ったのが"維持管理がどれほど大変だろうか"ということだ。どれほどの人手、どれほどの労力、どれほどの時間、どれほどの費用・・・しかも、人手は誰でも集められればいいというものではない、専門的な知識と技術をもったひとでなくてはいけない・・・その人たちが、人知れず、手入れし続けなければ、この庭園は維持できないはずなのだ・・・

けれど、我々は誰も、その人たちのことを知らない、気にもしない・・・

どんな天才が作庭した、どんなセンス溢れる貴人が造らせた・・・それは語り継がれ、称賛を受け続けるだろうけど・・・それを維持管理するために、生涯を費やしたかもしれない人たちのことには、だれも興味をもたない。

きっと、かれらはそれでいいのだと思う。注目などいらない、称賛などいらない・・・無知な連中からみれば、毎日毎日、代り映えのしない地味な作業を、ただただ繰り返すだけの人生のように見えたとしても、そんなことは少しも気しない。それに、きっと彼らは、自分たちの仕事に喜びと誇りをもっていたにちがいないと思う、誰に分かってもらえなかったとしても。

こういうことは、言われるまでもなく十分に理解していたつもりだった。あらためて、そういうことを語る人がいたら、「はいはい、当たり前のことを、偉そうに聞かせてくださってどうも」なんて、少々小ばかにして聞いていた気がする。

けど・・・いや・・・そうなんだけど・・・

世界は一握りの天才が動かしているのじゃないと・・・いやもう、ほんとに、わたしのこのパンパンに腫れた瞼が言ってます。自分の周りの、あたりまえ・・・ほんと、ほとんどのことが、マジで当たり前じゃないから・・・自分が出来ることって、あまりにもちょっとだけだから・・・

「そりゃあそうでしょ・・・そんなの、あらためていうこと?」って思ったでしょ。でも、違うんだって、その理解、ぜんぜんダメなんだって。いや・・・わたしだけなのかもしれない・・・ほんと、頭でっかちで傲慢だからね・・・そんなことも、ちゃんと芯で理解してなかったのは自分のせいだから、他の人を一緒に考えちゃ失礼か・・・・ふうむ・・・・・・

これからの読書について・・・

2024-07-17 10:18:21 | Weblog
二カ月ほど前に、『"高橋たか子"さんを読み返すのが恐ろしく思われるのは何故・・・』という日記をUPしました。で、そのまま忘れてました(^^;。

それが・・・Audible で、とってもライトなアンソロジーを聞いて・・・ライトなのは嫌いじゃないけど、これはちょっと違うかなぁ~なんて思ったとき、また、高橋たか子さんのことを思い出しました。で、KindleじゃなくてAudibleなら、再読も可能なんじゃないかと思いたち、Audible版が出ているかどうか検索したんです。と、二冊ほど、ありました。『怒りの子』と『誘惑者』。ついでに、高橋克己さんの『黄昏の橋』も合わせて、ダウンロードしました(^^)。まだ、聞いてはいませんが(^^;。

とね・・・音声化はされてないけど電子化はされていたり、単行本しかない作品も、一応、検索結果として、上がってくるじゃないですか。その中に、わたしが高橋たか子さんを読まなくなって以降の作品も、何作かあったんです。エッセイとか日記とか、晩年、超晩年の言葉を集めたもの・・・興味を引かれました。わたしも年を取りました。そんな今の私として、高橋さんが年齢を重ねられてからの作品、読んでみたいなって思いました。

で、どの作品にするかなと、いつもはあまり読まないレビューを、何気に見ちゃったんですよね。するとね・・・いくつもあるレビューの中で『これがあの「高橋たか子」なのか……』というタイトルが目に留まりました。で、思わず読んじゃったんです・・・んん~・・・

わたしはまだ、そのレビューの書き手の方にそう言わしめた作品を読んでいません。だから、その感想が的を得ているとも、頓珍漢だともいえる立場にはありません。けど・・・なんというか・・・二カ月前に、わたしが漠然と感じた"嫌な感じ"が、そのまんま言語化されているような気分がしました・・・高橋さんには申し訳ないけど「ありえることだ」とものすごく強く思ってしまいました。そう思わせるものが、大大大好きだった当時の高橋たか子作品の中に、すでに見え隠れしていたんだと思います。

で、じゃあ、わたしはどうするかです・・・とりあえず、晩年のエッセイや日記は、しばらく読まないようにしようと思います。私が夢中で読んでいた頃の作品のAudible版、つまり、今回ダウンロードした『怒りの子』と『誘惑者』は、聞いてみようと思います。で、聞き終わったときに、その後作品とどう向き合うか、あるいは向き合わないかを決めたいと思います。

余談になりますが・・・高校生の頃、大ファンだった役者さんがいます。地方の小さな劇団の役者さんですが、わたしは世界で一番"ウマい役者"さんだと信じて疑いませんでした(^^)。その方は、一生を共にしたい大切な女性に出会って、役者を辞められたんですが、還暦も近くなって(正確な時期は覚えていません、あくまでもわたしのイメージでこの頃じゃないかと思っています)、またお芝居を始められました。わたしの親友が、そのことを知らせてくれたんですが、その時、彼女は「今はまだ、見ない方がいいかも」って言ったんですね。長くお芝居からはなれていらしたから、勘を取り戻すのにしばらく時間が必要だと思う、と。だから、わたしは、彼女のOKが出るのを待って、復帰されたその役者さんのお芝居を拝見しました。なんていうか・・・当然、若かったころの彼とは違っていました。今も、世界で一番"ウマい役者"さんかと問われれば、はいとは言いづらいかな(爆)。でも、やっぱり好きですよ、はい。ちゃんとファンです。大ファンです。

何が言いたいかというと・・・作家さんであろうと、ミュージシャンさんであろうと、役者さんであろうと、いえどんな職業の人だって、人は必ず変化していきます。その人の周りの人間、その人から影響をうけていた人間たちも変化します。だから、過去の関係のままではいられない・・・けど、変わらないものもある・・・うん、変わらないものもある。そして、何よりも確かなのは、今がどうであれ、過去のその時にもらったもの、得たものは、決して嘘じゃないし、消えないし、色あせない・・・うん、けっして色あせはしないですよね、うん。



なんだか、今日の私は、深刻なブラックです・・・

2024-07-15 08:41:46 | Weblog
ときどき顔を出す、短めの呟き集です(^^;。

〇代り映えしないのは、テメーの感覚だろう!
 毎日、ぼんやり庭を眺めていて気付く・・・
 気づていてなかったことに気付く・・・
 花は、ある日突然咲くわけじゃない・・・
 日々に変化し、その過程の一つとして花が咲いている
 花にしか気づけない奴の感性なんて・・・感性とは呼べない
 代り映えのない己の日常も同じ
 代り映えがしないと思っているテメーの感覚が終わってんだよ
 
〇無の境地ってなに・・・
 眠っていないときに、何も考えないでいる時間、ある?
 わたしはない・・・
 たいしたことを考えているわけじゃない
 断片的というか・・・スライドショー的な思考なので
 そこから何か有益なものが生み出されることはないんだけど
 とりあえずは、何かを考えてる、いや、思い浮かている、いや、よく分からんけど・・・
 なので
 がんばって、何も考えない努力をしてみる・・・と
 せいぜいが、言葉ではなく映像になるくらいかな・・・
 頭を空っぽにしようと頑張っていると
 妙に、鳥の囀りなんかが聞こえてきて・・・
 姿が見えない鳥が、空を舞っている様子などが思い浮かぶ・・・
 言語化されてはいないけど、これだって"考えている"ってことだよね
 少なくても、無の境地ではないもんなぁ~・・・

〇頼る頼られるのこと・・・
 当たり前みたいに人に頼る人がいる。
 頼って拒否されたら、それを恨みに思うようなタイプの人たち。
 助けてって言ったのに助けてくれなかった・・・
 なんで、それで人を恨めるの?
 あんたは、その人のこと、助けたことあるの?
 少しでも、その人のこと思って何かしたことあるの?
 絶対にないよね。
 でも、いくら困っても人に頼ろうとしない人がいる。
 頼らないことで、もっとひどい状況になるから
 自分の為だけじゃなく、他の人のためにも頼ろうよって言いたくなるような人がいる。
 で、結局、人は人に頼った方がいいの、頼らない方がいいの?
 頼っても批判され、頼らなくても批判され、どうしろっていうんだって思うよね・・・そうだよね。
 結局、わたしは、人が苦手なんだ・・・

〇人間は醜い
 人という生き物は、ほんとうに醜い
 なのに、厭いきれないのは・・・
 自分が、その人の一人だからか
 人には、厭うべきところ以外に、愛おしむべきところが多々あるからか
 いや~・・・いやいやいや~・・・やっぱり、人間という生き物は、醜すぎる・・・

なんだか、今日の私は、深刻なブラックです・・・

彼の名を・・・

2024-07-07 14:49:11 | Weblog
CSで放送していた、中国ドラマ『開端』を撮りだめして、最終回を迎えたのを待って一気見している。すると・・・彼の名が出てきた・・・主要登場人物の父親の台詞の中に「母さんは、レスリー・チャンと三毛が好きだった」って・・・

ただそれだけなんだけど・・・心臓をつかまれたみたいに、きゅ~っとなった・・・

これは、2022年のドラマだけど、業界で彼を忘れないでいてくれる人が、いまでも沢山いてくれるということだと思う・・・ありがたい・・・うれしい・・・

こういうことが、今でも、時々ある・・・ほんとうに、彼は愛されていたんだと思う・・・だから、中国ドラマを見るのをやめられない。

正直、まったく好みじゃないタイプのドラマもたくさんある。彼と共演した俳優さんたちは、今やベテランで、ドラマにはめったにでない・・・あるいは、日本で放送されるドラマには出ていない・・・けど、それでも、彼の仲間や後輩たちが作っているんだと思ったら、見続けなきゃと思ってしまう・・・私一人が見て、業界に何の貢献もないけど・・・彼が生きた世界を守りたいと・・・微力すぎるんだけど、せめてと、出来るだけ中国のドラマや映画はみようと頑張っている・・・

科学は発見で、発明じゃない?

2024-07-06 13:16:53 | Weblog
『巷の名言集』の方にUPしようかと思ったの、どうも腑に落ちなくて、こっちでブツブツ言ってみようかと・・・(^^;。

「科学は発見」なんて、どこかの有名人が言ったセリフとして、その界隈の人には常識になっていそうな言葉ですが・・・わたしが遭遇したのは、ごく最近のことで、しかもドラマのなかの台詞です。今、CSで土日に集中的に再放送している『NUMBERS 天才数学者の事件ファイル』っていうドラマです。

実は、ずっと前に一度、少しだけ見かけて止めたドラマなんです。かなり好きな設定だったので楽しみに見たのですが、いささか強引というか・・・ドラマへの数学の組み込み方というのかな、一番の肝の部分にハマれなくて見るのを断念したのですが・・・なんだか、心境の変化でしょうか、一度しっかり最初から見てみようと、チャレンジしている途中なんです(^^;。

で、上記の台詞ですが・・・主人公の天才数学者が、その知識を駆使して、犯人逮捕に大いに貢献するんですが、その犯人というのが、捜査の過程で出会った、彼が応援したいと思う若き研究者なんですね。この犯人は、自分の恩師であり上司が、地域ごとの評価を算出して、どこに手厚く支援すべきか、逆に言えば、どこの地域は見捨てるべきかを判断するソフトを開発しているのを知って、それが政府の手にわたって使用されるのを防ぐために恩師を殺し、プログラムを消去したんです。彼を非難する主人公に、彼は「自分の仕事は、すべて正義のためだと?僕の生き方を批判したけど、自分のことを鏡で見たら?」っていうんです。それで、主人公が悩みこんじゃって、信頼する同僚に「ずっと信じてきたんだ。数学ツールをん開発し、賢く使ってもらうことが僕の役目だと。間違っている?」と聞くんですね。そしたら同僚が「人類が素粒子を発見した結果は?恐ろしい爆弾がうまれ、世界は一変した。だが、エネルギー源や命を救う技術ももたらした。貴重な科学ツールだ。だがこれは(殺された学者が作ろうとしていたプログラム)は科学じゃない。真の科学は発見だ、発明じゃない。真実はすでにある、発見できなくてもね。」っていうんです。(セリフはすべて、テレビ番組の翻訳通り、のはず(^^;。)

なんだか、納得しながらも、なにかが腑に落ちない。何が腑に落ちないのか・・・自分でも、よく分からないんです・・・ん~

科学の定義なんて、わたしには荷が重すぎるから、その部分に異論があるわけじゃないと思うんですよ。少なくても、基礎科学に関しては、素人ながら"科学は発見"というのに、なんの異論もないですし・・・応用科学に関しては・・・ん~・・・よく分からないですが、その道の専門家の人たちが"応用科学も当然ながら立派な真の科学"だと思われるならそうだろうし、"科学とは違うけどね"と思っておられるなら、それはそれでそうなんだなぁ~って思うだけで、どうこう口を挟む知恵も知識も資格もないと思ってますよ。そもそも、科学なら偉くて、科学じゃなかったら価値が下がるなんてこともあり得ませんしね。

じぁあ、何に引っ掛かるのか・・・

科学的発見が、善にも悪にもなる、使い方次第、というのは以前から言われていることで、もう一般常識の域に達していると思うんですが・・・だから、そこにも、何も引っ掛かることなんてないんですよ・・・

じゃあ、どこに引っ掛かるんだ・・・引っ掛かるところなんて、どこにも残ってないじゃないか・・・・なのに、ひどく納得しながら、何か引っかかる・・・その正体を知りたいのに・・・と、喉にひっかかった小骨のように、チクチクと甚振られて、ちょっと辛いのであります(^^;。