津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

■肥後の牛若丸、喜連川家を出る

2017-03-23 08:41:43 | 歴史

 喜連川藩という何とも不思議な藩が存在する。
源氏の長者である徳川家としては、由緒正しい足利氏の末裔は疎かにはできないので、5.000石を与え100,000石の家格とした。

喜連川氏は足利尊氏の次男で室町将軍代理家だった鎌倉公方足利基氏を祖とする名家である。

細川齊護公の五男・良之助様は天保13年(1842)9月7日熊本花畑邸生まれ、嘉永3年(1850)5月には喜連川左馬頭熙氏の養子とり、金王丸・左兵衛督紀氏(細川護美)と改名した。
喜連川藩の次の藩主とはいえども座り心地が悪かったらしく、八年後の安政五年(1858)の自らの意思で今日離縁した。若干17歳である。
脱走を図ったという話も残されている。
熊本に帰ってからは以前の良之助を名乗り、兄護久が藩主となると志を一つにして藩政改革に奔走した。
京都での活躍は「肥後の牛若丸」ともてはやされた。維新後は藩知事となった兄・護久を支え大参事として藩の改革に尽力した。
一方、良之助に離縁された喜連川家はどういう経緯があったのか、安政5年12月細川宇土支藩の一族である孝常が養子となり宣氏を名乗った。

 

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■甲斐青萍・熊本町並画集

2017-03-22 14:25:07 | 書籍・読書

                     

    

                    編著者  :伊藤重剛(いとう じゅうこう)
                    体 裁  :AB判、並製本、160ページ
                    定 価  :本体価格2,500円+税(税込:2,700円)
                    ISBN :978-4-87755-555-9
                    発 行  :熊本日日新聞社
                    制作・発売:熊日出版

2017年3月27日発売(予約受付中)

内容紹介

並外れた記憶力と筆力で熊本の町並みと人々の暮らしを描いた日本画家・甲斐青萍(かいせいひょう)(1882~1974)の絵を画集として1冊にまとめた。本書に掲載された絵のほとんどは記憶を元に何年も前の風景を描いたもの。空撮など無い時代、町並みは建物の形までしっかり描かれており、当時の風景をそのまま切り取ったかのような精密さである。威容を誇る熊本城、藁葺き屋根が残る市街地、田畑がつづく水前寺など、現在の姿からは想像もできないかつての風景が広がっている。町歩きがしたくなる一冊。詳しい解説付き。

著者紹介

熊本大学大学院先端科学研究部(建築系)教授、工学博士。昭和26年熊本県氷川町生まれ。昭和50年熊本大学工学部建築学科卒業。その後、同大学院を修了し、アメリカ・ミズーリ大学、ギリシア・テッサロニキ大学へ留学した。帰国後、熊本大学に赴任。平成18年~27年には熊本大学五高記念館館長を務めた。専門は建築史(特に西洋古代建築)。熊本では明治以後の洋風建築の調査や保存運動に当たってきた。(平成29年3月現在)

             尚、4月1日より島田美術館において甲斐青萍の作品も展示される展覧会が催されます。

       肥後・熊本画壇の分かれ道

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■スーパーオープン

2017-03-22 09:37:20 | 熊本地震

 熊本地震から1ヶ月後、奥方が奔走して現在のMに転居した。
すぐ近所にスーパがあり大した建物被害も見受けられず、一月もすれば開店するだろうと勝手な憶測をしていた。しかしいつまでたってもその気配がない。
日頃の生活は元に戻りつつある中、毎日の奥方の買い物が大変で、アシスト自転車を駆って数キロ先のスーパーへ出かけていた。
どうやら経営者が変わったらしく、大改修工事が始まったのはようやく今年に入ってからである。
建物の内外装、波打っている駐車場の舗装のうち変え、看板などの設置なども終わって、ようやく今日がオープンとなった。
我が家から約300mほどの距離、まことにありがたい次第である。
私自身はあまり出かけることはないのだが、オープンの賑わいが収まったころ、ちょっと覗いてみようと思う。
県道沿いの立地で且ては賑わっていたお店である。周辺に活気が戻ってくることだろう。
11ヶ月余にしてようやく奥方の苦労が和らぐことになる。 

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■相撲取り

2017-03-21 10:50:20 | 歴史

 久しぶりの日本人横綱・稀勢の里の誕生で相撲人気が復活したようだ。宇良などというとんでもない技を駆使する小兵力士も魅力的だ。

熊本にはかつて相撲の神様・吉田司家があったがせいか、結構相撲が根付いている。
栃光以来大関以上の力士が誕生しないが、関脇・正代に大いに期待している。

かって細川藩では、家老松井興長が若い藩主・綱利の相撲好きに対して諫言したことがある。酒や贅沢な浪費を含めてのことだが、「細川家をお暇する」とまで言わせている。綱利公の相撲好きは本物で、熊本のお墓の横には二つの力石が置かれているが、80キロあるというこの石を持ち上げて自ら体を鍛えておられたらしい。
そうなると民間においても流行することになる。藩庁はこれを取り締まるのに躍起となるが、これは追い掛けっこ状態であったようだ。
「熊本御城下の町人・古町むかし話」に「相撲取り取締り」という一文がある。

    在の者が近年猥に相撲取りになり、百姓に不似合な風俗をするが、これは町の者とても同じこと。
    在中に対しては御郡代から惣庄屋へ詳しく示建に及んだとて、文政三年三月熊本の町々へも触れを
    出した。御郡代の達左の通り
      町在の者共、力量これあり角力取りに相成り申度の親類五人組村役人も、故障これなき筋の願出
      候者は、とくと相糺し其様子に応じ差許され候との儀については、去る文化十年(七年前)委細
      に御達しに及び置候処、然る処近来在中に於て聢と力量これなき者共も無願にて内分角力取に相
      成り居り候者もこれあるやに相聞へ、間には前髪立て或は異躰の衣服提げ物等御百姓に不似合の
      身なりいたし候者これある様子相聞こへ、村役人衆も等閑に押し移り置候にてはこれなくや、彼
      是れ不埒の至りに候、之に依っては以来左様の者は村役人より屹度差留め、もし承引致し申さゞ
      る者もこれあり候はゞ、各手先へ達せられ候様、左候はゞ速に召取り慎方申付置相達せらるべく
      候、右の趣庄屋村役人は申すに及ばず小前々々へも洩れざる様屹度達しに及び置かるべく候
         三月       御郡代中
        御惣庄屋中

さて私は以前、熊本郊外の県道沿いで見つけたお墓の写真をご披露した。 ■Wanted 八重櫻新左衛門
何とも怪しげな名前に首をかしげたことであったが、若い友人N君が早速情報をもたらしてくれた。
なんとその業績を紹介する刊本があった。これによると新左衛門は庄屋を務め、一方では相撲取りという人物なのだが、422間に及ぶ揚排水路の建設をし、20町の水田開拓を完成させた偉人であった。
つまりは上のお達しに該当する人物なのかもしれないが、これだけの偉大な実績があるとこれは例外であることは間違いない。 

                                                     

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■「蔦木ノ森迹」

2017-03-20 15:11:25 | 熊本

 先の■「つづら林」という地 で触れた「蔦木ノ森迹」に宗厳寺に関する情報があってびっくりしている。
宗厳寺はわが家の初代の姪にあたる人が創建したお寺であることを知ったのは、まったく偶然が重なっての事だった。
         ■消えた宗厳寺
         ■驚愕の事実・・長五郎の娘・くま
         ■平川家略系
         ■驚くべき偶然

「肥後名家墳墓録」にもあるように、一時期「岩立」の地にお寺はあったらしい。
その場所を探しあぐねていたが、今回の「つづら林」の地を詮索していて偶然にもその場所を探し当てた。
すなわち「肥後国誌」にある「蔦木ノ森迹」である。

   
宇土小路ノ乾ノ隈(隅ヵ)往昔雚木ノ森トテ森樹アリ 初ヲ知ラス 赤尾口ノ西ニ當ル 因茲テ岩立ノ田地異名ヲ蔦木ト称ス
   寛永年中安國寺梵徹蔦木ノ森ヲ剪拂ヒ地ヲ夷ヲケテ宗厳禅寺ヲ建テ末寺トス 而後寛文十三年住持天和尚願ニ依テ當郡津浦
   船場村ニ寺ヲ移ス 當時船場村永嶺氏在宅上ノ段ナリ 今ハ坪井町ニ移レリ 本尊ノ観音今ハ岩立ニ有テ里俗運清観音ト云 岸下ニ清泉 今ハ柳井
    氏屋敷ニカゝレリ此處ヨリ坂道アリシト云
アルヲ闕伽トスト云 其後又宗厳寺ヲ坪井ニ移ス
 

宇土小路ノ乾(北西)ノ隈(隅=角)とはどこなんだろう。赤尾口の西であればまさに「つづら林」ではないのか?
これは一度訪ねなければならない。


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■「つづら林」という地

2017-03-20 09:53:45 | 熊本

 長崎県島原市に高岳山晴雲寺という曹洞宗のお寺がある。このお寺のサイトを見ると、このお寺はもともと熊本にあったことがわかる。

 慶長9年(1604)、肥後之州熊本府葛籠林(つづらばやし)という場所に、肥後城主加藤清正公の家臣荘林隼人なる人物が伯父の晴雲真高居
 士の菩提の為に建立し一峰玄鐵和尚を迎えて開山とした。清正公亡き後、開基家である荘林家も衰退し次第に晴雲寺も貧窮し、寛永4・5年
 頃島原に移り領主松倉重政公より境内地を賜り、玄鐵和尚自ら境内を整地し再興した。

実は最近、荘林隼人のご子孫からご連絡をいただき、55頁にもわたる「御奉公之覚帳」他数点の資料をお送りいただいた。
「先祖附」についてはお持ちではないということで当方からお送りし、又明治三十二年に東京帝国大学附属図書館に納められた「庄林氏由来」についてもお送りする準備をしている。
「御奉公之覚帳」は藩政期の最後の当主曾太郎氏の筆になるもので、初代・二代に関わる記述は詳細ではないが、これは「庄林氏由来」によって補完ができることになる。
上記の「晴雲寺」の件等も大いなる参考となるものである。

さて「肥後國誌」をひも解くが「蔦木ノ森迹」は見えるが「葛籠林」の記述は見当たらない。(ひょっとすると同じか?)
昨日のブログでご紹介した「熊本城下町地図」には「靏ノ林」の書き込みがあり「俗ニツゞラハヤシト云」と記されていた。
ちなみに、つづらばやし(赤尾口の西)から北に500mばかりの地(現・花園5丁目)には「靏ノ茶屋」の書き込みも見える。
共に鶴が飛来する場所であったのだろう。熊本市西区花園支所の近くに「鶴の茶屋」と名付けたアパートがある。
「つづらばやし」にしろ「つるのちゃや」にしろ、古い地名は一般市民には馴染みのないものになっている。 

 

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■新江戸川公園名称変更「肥後細川公園」へ

2017-03-19 21:42:36 | 徒然

「肥後細川庭園」へ装い新た 目白台、18日記念式典 (東京新聞から)

「肥後細川庭園」に名称変更する新江戸川公園(文京区提供)

写真

 旧熊本藩主・細川家の屋敷跡地にある文京区立の「新江戸川公園」(目白台)が、「肥後細川庭園」と名前を変える。十八日に記念式典があり、エリア全体でイメージアップを図り、神田川沿いに広がる屋敷跡の歴史や熊本との縁を観光資源としてアピールしていく。

 面積は約一万九千平方メートル。明治時代に華族となった細川家が造った日本庭園を整備した。明治期の姿をほぼとどめる池の前には、大正時代の木造建築で、細川家が学問所としていた「松聲閣(しょうせいかく)」があり、集会室や休憩室として使える。

 区は名前の変更に加え、児童遊園だった場所に薪能などイベントができる庭園風の広場を整備。隣接する細川家ゆかりの文化財を所蔵する美術館「永青文庫」と庭園をつなぐ階段も補修し、より行き来しやすくした。

 十八日の記念式典には、永青文庫理事長の細川護熙(もりひろ)・元首相や蒲島郁夫熊本県知事らが出席する。間もなく発生から一年となる熊本地震の復興支援のため、熊本の特産品販売(午後一~四時)もある。永青文庫では同日、熊本城に焦点を当てた展示「熊本城-加藤清正と細川家」も始まる。 (石原真樹)

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■熊本城下町図

2017-03-19 10:49:45 | 史料

                                                                 N君のレポートにある写真

 家紋が書き込まれた熊本城下地図の存在を知ったのは、史談会の若い友人N君が持ってきた一枚のコピーからだった。
30枚に分割撮影されたという写真の中に、全体像を知ることができる1枚があった。
出所はN君が一年以上にわたり整理に苦労したDr.T先生の遺品の中にあったらしい。
この写真をN君はDr.T先生の奥様のご実家I家の所蔵品であったろうと予想していた。そしてその予想は的中していた。
史談会のT女史がI家と親しくされており、お宅を訪問してN君のレポートをお見せすると、まさに現在でもI家で所蔵されており実物を拝見して興奮して電話をしてこられた。巨大な太軸物らしい。
写真撮影をお願いしお許しいただいたという。T女史の息子さんはプロの写真家、しかし東京在住で帰熊がいつになるのかわからない。
私はコピーさせて頂くことはできないかT女史に提案、T女史はI家を訪問して快諾を得られてそのままその太軸物を借りてこられたらしい。
そして今度はこれをコピー屋さんに持ち込み、A1紙(841×594)、横(842)二枚、縦(594)四枚の八分割コピーが出来上がった。
費用約8,000円、少々値が張るが一部をお願いしてこれが手元に届いた。八枚を糊でつなぎ合わせようかとも思うが、あまりに大きくなるので
分割の侭で所蔵することにした。
縦横2×1.6メートルほどの巨大なもので、嘉永期の熊本城下の様子が生き生きと記されている。
京都で作られているがこれだけのものだから、藩が依頼したものではなかろうか。
着色された実物をいつか拝見したいものだ。
 

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■本日疲労困憊につき

2017-03-18 22:01:34 | 徒然

 今日は史談会の会合に出席、昨日は膨大な量のコピーをして資料つくり、少々血圧が上がってふらつきながら出かけた。
二時間ばかりおしゃべりをしてどうやら完了、会場の熊本市民会館のレストランで昼食をとり解散。
坪井川沿い長塀が解体されてしまった様子や、桜のつぼみの膨らみ具合などを眺めながらあるく。
どうも体が揺れて仕方がない。資料そのたが詰まったバッグがやけに重いし、これでは寄り道もできそうにないな~と思い、早々にバスに乗り帰宅。
着替えて椅子に座り込むと、即寝込んでしまった。30分ほどたって目が覚めたが、目まいが甚だしい。
夕食後ブログを書き込んでいないことに気づき、手元の資料を見ながらタイピングをするが気が乗らずにやめてしまう。
椅子にもたれかかっていたら又一時間ほど寝入っていた。
つくづく歳には勝てないと実感、情けない。明日は一日ゆっくり過ごし英気を養ってまた頑張りましょう。 


 

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■松寿庵先生・第228講

2017-03-17 10:13:16 | 史料

      細川藩に自訴した人  大関和七郎 (富山藩→豊岡藩)
                 森 五六郎 (臼杵藩→大和小泉藩)
                 杉山弥一郎 (村松藩)

                 森山繁之助  (一関藩→足利藩)に預け替え 

      細川藩(越中守齊護)に預け替えによる預かり人
                 佐野伊助(竹之助)
                 半沢三郎右衛門
                 広岡与三郎(子之次郎)
                 蓮田市五郎               
                    細川家預り中に、一五郎は故郷の母と姉へ訣別書を残し、また幼時から世話になった
                    塙重任へ後の事を頼んだ書を残した。これは母への深い感謝と礼、姉への心遣い、世
                    話になった伯母と塙への厚意を述べてあるもので、彼が人目を忍びながら二度書き初
                    めては、執筆半ばで落涙に沈んでしまって上手く書けず、三度目にして漸く仕上がっ
                    たとも記してある。この書の中で彼は、「人の一命は限りあるもの、死すべき時生き
                    るもあり、生きるべき時死ぬもありて、仏家がいう前世の約束事、天命であり、昨年
                    10月に大病を煩った自分は病死するより天下の為に死ぬこそ本望」と、今生に訣別し
                    ている。             (ウイキペディアより引用)            
                 関大之助(鉄之助) 

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■随順抄とは?

2017-03-16 12:38:13 | 史料

 あるお宅の先祖附を読み下して過日お送りした。
新知のお宅でありお決まりのごとく武芸に励まれ、いろいろ相伝をうけられたことが記されている。
これは跡目相続の時、五つ以上の目録を所持していなければ、家禄の相続が認められないからだ。
その中に「剣術 建部太郎助門弟ニ而隋順抄相伝」とあった。
今朝ほどから何気なしに「肥後武道史」を読んでいたら、添付記事が目に飛び込んできた。
剣術とは「肥後雲弘流」であったことが判明、相伝を受けた内容はよくわからないがこの記事により「心技体」の「心」に関する相伝であろう。と推測される。「技」も「体」と共に同様の域にあってのことであろう。
よく読んでみると納得するばかりである。
 

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■はるたつといふばかりにや三吉野の・・・・

2017-03-15 09:29:37 | 史料

                 

これは2013年9月頃、ヤフーオークションで手に入れた「御先祖御由来・全」の表紙裏に書かれていた和歌である。
この冊子には「I家蔵書」なる朱印が押されているが、亡くなられたDr・T先生の奥様のご実家がI家、今般I家にお返ししようと思い立った。
冊子の筆者は図書と書かれているが、細川刑部家八代・興礼(信次郎)であろうと思われる。
三十六葉にわたって細川宗家をはじめ、一族の家系・由来が記されている。
そして表紙の裏に朱書きされているのがこの和歌である。

                    者類堂川といふ計にや
                             三吉野ゝやま毛
                                霞帝今朝ハ
                                    見ゆら舞              

調べてみると拾遺和歌集・巻一の壬生忠岑の歌であることが判明した。

                    はるたつといふ計にや
                             三吉野の山も霞て
                                   今朝はみゆらむ 

お返しするにあたって改めて眺めてみると、この和歌の文字をを読み解き、その出典や作者を見出した時の感動が思い出された。
時まさに春 、うってつけの歌ではないか。

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■九州の小笠原(秀政)一族

2017-03-14 09:28:45 | 熊本地震

昨日は■この監物殿は誰?で細川家家臣の溝口氏に少々触れた。小笠原秀政の男子だが家臣溝口氏の養子になった。

小笠原秀政と嫡男・忠脩は共に戦死したため二男・忠真が一族の長となり細川氏が肥後へ転封の後、そのあとの豊前小倉藩(15万石)主となった。
忠脩の子・長次は中津藩初代(8万石→4万石)に任ぜられ、忠真の次弟・忠知が杵築藩主(4万石)となった。その後三河吉田藩・岩槻藩・遠州掛川藩・陸奥棚倉藩・肥前唐津藩と転封が続いて苦労している。徳川幕府の老中を務め、長州戦争に於いて将軍家茂の死の報を聞き戦場を離脱した小笠原長行は最後の唐津藩主である。細川藩士小笠原家は忠知の孫・長賢を初代とする。
一族に松平姓(能美氏)を名乗る忠重は忠真の三弟、嫡子・英親が杵築藩主(32千石)となった。(伯父・忠知が三河吉田に転封後)

秀政の女婿・細川忠利に加え、小笠原一族が、小倉・中津・唐津・杵築の九州各地を納めていたことになる。

季節柄「桜田門外の変」について勉強しているが、事件の一部始終を目撃したのが現在の警視庁に屋敷があった杵築藩の藩士達である。
その目撃談は事件の三日後江戸を発して国元に急使が走った。事件のあった三日を含め三日間の情報はまことに正確である。
先に触れた井伊直弼の実弟延岡藩主(7万石)内藤義政へ発せられた一報は、情報収集もままならない中江戸を発し、「直弼存命」の誤った情報が届けられたという。

当時の杵築藩主は松平親良である。幕府において寺社奉行を務めており、延岡藩からの問い合わせにも正確な情報は秘されたのであろう。
徳川家外戚として九州の要となった小笠原一族である。 

       小笠原一族略系図 http://blog.goo.ne.jp/shinshindoh/e/310f28ef8292d21ea30ac14c3cc22939

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■この監物殿は誰?

2017-03-13 08:47:28 | オークション

                                        長岡監物より有吉将監殿へ・口上之覚・私妹溝口蔵人0後妻縁組・・・少し虫喰い

                 長岡監物より有吉将監殿へ・口上之覚・私妹溝口蔵人0後妻縁組・・・少し虫喰い

                                             口上之覚
                   私妹溝口蔵人と
                   後妻縁組仕度奉存候
                    以上
                   六月    長岡監物
                   有吉将監殿 

 米田家の当主は代々監物を名乗る。この監物殿は何方?
溝口家も代々蔵人を名乗るからなかなか難儀であるが、ヒントは監物殿の妹が溝口蔵人に嫁ぐ(後妻)ということ。
この書状には付け紙があり、溝口氏の名が書かれていて貞幹(さだとも)とある。天保九年のことらしい。
監物についても「細川藩・主要家臣系図」を見ると、米田是豪の妹に「溝口貞幹嫁」とあつてこれにて一件落着。
姉妹が沼田延裕、清水勝茲、田中氏庸、平野長因にそれぞれ嫁いでいる。華麗なる姻戚関係である。

溝口家は小笠原秀政の七男・政房が家臣・溝口美作貞康の養子となり、その子政登が承応元年に肥後に罷越して細川家家臣となった。
政房の兄は豊前小倉藩主・小笠原忠眞、杵築藩主・小笠原忠知、姉が細川忠利室である。 

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■米田家と宇佐大神宮大宮司・到津家の関係

2017-03-12 14:04:21 | オークション

               中上質中厚紙・文政元年、長岡監物より長岡山城、有吉織部殿へ、口上之覚、宇佐大宮司到津三位娘・・・・

 

      中上質中厚紙・文政元年、長岡監物より長岡山城、有吉織部殿へ、口上之覚、宇佐大宮司到津三位娘・・・・

 

私は先にヤフオクで手に入れた文書から ■嫁は到津氏だけど・・・・を書いた。
最近また米田家と到津氏の縁組に関わる文書がヤフオクに出品されている。
大変読みやすい文書ですごくありがたい。

     口上之覚
    宇佐大神宮到津三位娘を
    私隠居長岡齋幼女ニ仕
    藪内蔵允名跡相續之二男
    藪庄次郎後妻縁組仕度
    奉願候以上
     文政元年
      十月七日  長岡監物

    長岡山城殿
    有吉織部殿

この内容により薮家八代が養子であることが分かった。
八代・庄次郎は天保11(1840)年に53歳で亡くなっているから、文政元年(1818)当時は31歳でありまだ家督していない。
七代内蔵允は文政七年、旅先であろうか播州明石で死去、これをうけて庄次郎が家督した。

この書状の監物殿は「寛政九年家督~天保三年没」の9代米田是睦であろう。その子が是容、弟が庄次郎である。
これらの関係も「細川藩・主要家臣系図」では触れられておらず、私にとっては新発見だった。
そして是睦自身も ■嫁は到津氏だけど・・・・で書いたように、到津家から夫人を迎えている。つまり兄弟そろって宇佐大神宮・到津家と血縁が結ばれた。興味深い文書である。                                   

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