津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

■苦蒼蠅、責蚤蚊

2017-04-24 09:54:54 | 史料

 史談会の友人N君に頼まれて落札した文書がなかなか面白い。河口勝太なる人物が佐田道之助という人に宛てた書状だが、内容が中々ユニークである。
その中の一節‥・・・・

       残暑未退キ不申其上私邊鄙巷ニ而昼苦蒼蠅
       夜責蚤蚊誠ニ夏秋苦シキ事ニ而御座候
       然ニ貴殿従舟又茶屋ニ行名所舊跡等も
       御見物誠ニ以御羨敷御事ニ而御座候
       私どもハ井之中の小魚ニ而御座候間一入羨敷御座候 

二人の名前が細川家侍帳には見えないことから、どうやら米田家に仕える陪臣であろうと思われる。
それゆえか、文面もざっくばらんなところがあり、読んでいて思わず笑ってしまった。
大意は
       未だ残暑が厳しい中私が住むあたりは田舎にて昼はあお蠅に苦しみ
       夜は蚤や蚊に苦しめられ夏も秋も苦しい事です
       貴方は舟にて茶屋や名所旧跡を見物されるなどうらやましい限りです。
       私どもは「井の中の小魚」ですからひとしお羨ましく存じます。

公式文書は形式ばった挨拶などで面白くもなんともないが、今後もこんな文書に出会いたいものだと感じたことであった。 

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■職五朗様江祝儀

2017-04-24 09:28:09 | オークション

                                                  職五朗様江御祝儀・あと読めず、38cmx15.6cm

 最近連戦連敗のヤフオク、運よく21日に落札したのが「職五朗様江祝儀・あと読めず‥」という文書。
以下に度支彙函から職五郎に関わる記述を抜粋してみたが、上記文書の「祝儀」とは如何なるものか、文書の到着が待たれる。


■職五郎(ヨリゴロウ、茲詮)齊茲三男、寛政八年九月晦日に江戸で生まれた。文政元年四月十九日没、23歳。生母は山科氏女・正操院

   (享和二年并文化元年、細川和泉守立之仮養子となる)

   一、(文化二年)職五郎様四月六日江府被成御發途候段申來候、此許御着之上所々御出之節、士席以上於途中御行列ニ参り懸り
      候節ハ、左ニ片付鑓ヲ伏せ被扣居御時宜可被仕候
   一、軽輩・陪臣下々共避候ニ不及、参り懸りニ平伏仕罷在候儀不苦候
   一、門前御通り之節、形儀手桶等指出候ニ不及候
     右之通被相心得、組々えも可被達候、以上
        五月八日                     奉行所

   一、(文化六年)來ル九日職五郎様三丁目御屋敷え御移徏之筈候、右御門前御塀内は御屋敷内同前之場形ニ付、下馬可仕候、
     尤家来末々迄堅可被申付候、此段觸之面々へも可被達候、以上
        二月朔日                     奉行所

   一、(文化九年)職五郎様、當春被成御出府筈ニて、此段御用番松平伊豆守え御届之御書付、舊臘十一日被遊御差出候處、無御
      滞被成御受取候段申來奉恐悦候、依之來月三日御發途之筈ニ候、此段觸之面々えも知せ置可申旨、御用番被申聞候條、
      已下同断
        文化九申正月廿一日                御奉行中

   一、職五郎様(文政元年)先月二日夕より少御腹痛御熱候も被成御座、同八日より御両足御■(馬ニ夫)上御浮氣被為見、其後御
     食事も御乏敷御出来不出来ニ被為在候處、次第ニ御容躰被差重御療養務御叶、同十九日巳刻御死去之段御到来有之恐入
     候、依之御國中諸事穏便ニ相心得、繕作事は明後日迄被相止候、此段觸支配方えも可被相觸候、以上
        文政元寅五月朔日                 奉行所 

 

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■冥途の土産

2017-04-23 10:18:23 | 熊本

 10時過ぎ奥方がそそくさと外出した。
11時すぎに熊本城上空に飛来する、ブルーインパルスを見るためである。
じつは予行演習のため昨日も飛来した。すごい爆音で旋回飛行する姿が我が家からも見えた。
それでも、「もう熊本で見ることはできない。冥途の土産よ」とのたまう。
もう笑いながら「行ってらっしゃい」というほかない。
奥方は17・8年前、娘がカナダに留学中交通事故にあい急きょカナダに向かった。
幸い大事には至らず、日本から同行してくれた娘の友人らと、一両日観光もして帰国した。
その折、ステルス戦闘機を身近に見たらしく、いまでも時折ニュースなどでその姿を見ると興奮してしゃべり出すほどだ。
「すごいから‥」「かっこいいから‥」が口癖で、ブルーインパルスもその類であろう。
「冥途の土産」には別に何かありそうなものだと思うのだが、よく判らん。
私はベランダから眺めることにしょう。 

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■細川宣紀公の甲冑、所在判明 地震機に調査

2017-04-23 09:01:38 | 新聞

 わが熊本史談会の会員大矢野氏からすでにお聞きしていた話だが、今般所蔵される甲冑の素性来歴が判明し公表された。

           画像 大矢野家に残された甲冑。永青文庫に残る預かり証と一致した

 熊本市西区の自営業大矢野種康さん(69)所有の甲冑[かっちゅう]が、専門家の調査で、江戸時代の4代熊本藩主・細川宣紀[のぶのり](1676~1732)のものであることが分かった。決め手は、熊本大付属図書館に寄託されている永青文庫(東京)の古文書。熊本地震をきっかけに、史料の記述と甲冑の所在が一致した。

 細川家は1871(明治4)年の廃藩置県後、多数の武器武具を家臣に寄託した。細川家ゆかりの古文書類を保管する永青文庫には、預かった家臣らの證書[しょうしょ](預かり証)約200通が残され、熊本大の図書館に寄託されている。

 大矢野さん宅の甲冑には「宣紀公」「一番」と書かれた木札2枚が付いていた。同大永青文庫研究センターの稲葉継陽センター長が史料を検索したところ、「宣紀公一番」の具足(甲冑)を預かったとする「熊本縣[けん]士族 大矢野次郎八」の證書があり、木札と一致した。永青文庫の證書の内容が実際に裏付けられたのは初めてという。種康さんによると、大矢野家は「小[こ]姓[しょう]」として藩主の身の回りの世話をしていた。

 大矢野さんの自宅は熊本地震で半壊。改築に備えて今年3月、熊本被災史料レスキューネットワーク(代表・稲葉センター長)に甲冑の一時預かりを依頼し、調査のきっかけとなった。甲冑は県内の保管庫に移された。

 大矢野さんは「細川家から頂いたと聞いていたが、こんなに貴重なものだとは思わなかった。素性が分かってうれしい」。稲葉センター長は「レスキューを通じ、所有者に由緒来歴を知ってもらえた。蓄積した調査研究の成果が生かせた」と話している。(飛松佐和子)

 
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■大名の文化生活‐細川家三代を中心として(八・了)

2017-04-22 13:18:02 | 史料

 以下第三項として、大名の文化生活を支えた京都・長崎など都市の役割について考えてみる予定であったが、既に与えられた枚数を超えているので、ごく簡単に触れておくに止める。寛永期の細川家史料のうち、京都・大阪・長崎などにちゅうざいさせてある役人宛の書簡の控などをみると、それらの都市が大名にとってどのような役割を持っていたかが具体的に理解できる。たとえば京都の場合、その地に駐在する役人の仕事は、一つには借銀の交渉、もう一つはさまざまな物品の購入であった。注文されている品物で最も大量のものは、小袖・帷子の類であり、さらにこの類の衣料・布地類として白羽二重・唐木綿・綾錦・足袋などがある。衣類は三齋・忠利等の着用や奥向女房衆の振袖もあるが、量的に多いのは諸方との贈答用であった。ほかに美農紙・鳥子紙等の紙類、紫革・菖蒲革・柄用の鮫革など皮革類、さまざまの用途の箱、これは蒔絵梨子地などの高級塗物も含まれる。また金・銀の箔や絵具絵筆類の注文が多いのは、御抱えの絵師や経師に材料を支給して国許や江戸で仕事をさせているものと思われる。このような注文の状態を見ると、江戸や国許に住居しながらも、大名の文化生活は、その調度類においては京都の生活に依存するところが大きかったように思われる。

 同じ注文でも長崎は様相を異にする。その品物は、さまざまの砂糖、生糸類、らしゃ等の毛織物、唐木綿などの錦織物が多い。これらはもちろん南蛮渡り、唐渡りの品で前述した南蛮趣味を充足させる源泉であった。
 大阪についてみると、この時期には蔵屋敷関係の記事と、江戸・大阪に品物を送る舟使の手配記事が多く、京都・長崎のような買物の注文はほとんどみられないのが目立っている。
 このようね状態は、細川家だけではなく、徳川将軍家においても、また他の諸大名にも共通したものであったと思われる。

                             (了) 

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■ちょっと古い記事ですが

2017-04-21 11:42:45 | 熊本地震

熊本藩主、地震恐れ転居 江戸初期の手紙「揺れる本丸にいられず」

細川忠利が家臣に送った手紙の写し。石垣や建物の倒壊に対する恐怖を書いている=熊本県立美術館提供
細川忠利が家臣に送った手紙の写し。石垣や建物の倒壊に対する恐怖を書いている=熊本県立美術館提供写真を見る
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 細川家初代熊本藩主の細川忠利(1586~1641)が1633(寛永10)年ごろに起きた大きな地震と余震を恐れ、熊本城(熊本市中央区)の本丸から、城の南側の邸宅「花畑屋敷」に生活や公務の拠点を移していたことが、熊本大の調査で分かった。

 昨年4月の熊本地震後、細川藩の文献を研究している文学部付属永青文庫研究センターが江戸時代の文献などを調査して判明した。稲葉継陽センター長は「熊本地震の被災者と同じように、忠利もたび重なる余震によほど恐怖を覚えたのだろう」とみている。

 同センターが江戸初期の資料約1万点を読み込むと、忠利の手紙に地震に関する記述が多いことが分かった。1633年5月、忠利が江戸にいる家臣に宛てた手紙に「本丸は逃げ場となる庭もなく、高い石垣や櫓(やぐら)、天守閣に囲まれて危なくていられない」という趣旨の記述を確認。他藩の大名に「たびたび地震で揺れるので本丸にはいられず、城下の広い花畑屋敷に住んでいる」と書き送っていたことも分かった。細川家の関係古文書によると、1633年3月~5月にたびたび地震が発生したとされる。稲葉センター長は「忠利が地震を強く警戒していることがうかがえる」と指摘する。江戸初期は災害が多く、被害を受けた熊本城の修復に追われていた記録もあった。

 同センターは熊本県立美術館(熊本市中央区)と共催で、熊本地震の前震1年を迎える14日から展覧会を同美術館で開き、忠利が地震を恐れて書いた手紙などを初公開する。

=2017/04/11付 西日本新聞朝刊=

震災と復興のメモリー展ポスター
細川コレクション展 細川コレクション展示室
4月14日(金)~5月21日(日)
歴史にみる地震の爪あとと、復興を目指す人々のあゆみ
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■松寿庵先生・第233講

2017-04-21 09:07:36 | 史料

         肥後・熊本画壇の分かれ道

                      http://www.shimada-museum.net/event.html

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■松寿庵先生・第233講

2017-04-21 09:05:21 | 史料
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■図録 しながわの大名下屋敷 お殿さまの別邸生活を探る / 品川区立品川歴史館 2003年 仙台藩伊達家 岡山藩 熊本藩 

2017-04-20 07:11:01 | オークション

                図録 しながわの大名下屋敷 お殿さまの別邸生活を探る / 品川区立品川歴史館 2003年 仙台藩伊達家 岡山藩 熊本藩 

 

        図録 しながわの大名下屋敷 お殿さまの別邸生活を探る / 品川区立品川歴史館 2003年 仙台藩伊達家 岡山藩 熊本藩

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■池田忠雄公来邸

2017-04-19 15:54:17 | オークション

                   熊本藩初代 細川忠利 正月廿九日付道二老宛消息 大倉好斎極 読有


                         今晩火とほし時分松平
                         宮内殿我等所は御出候ハンとの            松平宮内
                         事候間御隙候者入来可為
                         満足候尚々待申候恐々謹言
                           正月二十九日  忠(花押)
 
                                    細越中
                             道ニ老 床下    忠利 

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■大名の文化生活‐細川家三代を中心として(七)

2017-04-19 09:01:45 | 史料

 茶湯 細川家歴代の当主は、とくに茶湯の嗜みが深かった。それは忠興が千利休の高弟で七哲の一人に数えられ、その茶湯の系統を三齋流とよぶほどだったからである。したがって前からたびたび触れているその書状には、政治向き以外では茶事にふれたものが甚だ多い。
 茶事はひとりで、あるいは親密な内輪だけの催しならば、風雅な遊びである。これは精神的な修練を加えてみても、それはその人間の内面の問題であろう。しかしこれが他に客を招待しての茶会となると、前述した能と同様に社交の場としての意味が加わり、事実またそのような茶会が甚だ多かった。
 江戸で茶の数寄が流行しはじめたのは元和三年~五年の頃かららしい。細川家でも土井利勝はじめ幕府年寄を招待したり、浅野長晟を招き、その相客に心を配るというようなこともあり、秀忠・家光など将軍家から招きを受ける機会も多かった。
 茶湯にとって欠かせないのは茶道具である。床懸けの軸物・花活・茶碗・釜・茶杓などそれぞれに工夫を凝らさなければならない。細川家には家蔵の名品も多いところから、父子間で家定筆の和歌・春甫の墨蹟・利久作の竹筒の花入「車僧」などをめぐって色々と説明や批評が交わされる。目利として掘出物を誇るのはこの道の常であるから、将軍秀忠が掘出しの「紫の茶入」のひらきに招待してくるかと思うと、忠利も掘出物の肩付を忠興に見せに来る。時には偽物をつかまされることもあり、忠利から利休の茶杓といって送られてきたものを「利休の手にもとられさる茶杓にて候、しらぬ物か似せたる物也」と忠興が極評するという具合で、道具にたいする関心はことに深かった。
 利休の茶の本旨は詫び茶であろうが、富と権勢を誇る時の支配者たる将軍や大名たちの社交の場となれば、それは名物の茶道具を揃えて誇示するという風のものも多くなってくる。それは招待客が貴人であればあるほど著しくなる道理である。江戸大名たちの間での再興の貴人といえば、それは将軍家であるから、将軍や大御所を大名屋敷に迎えて接待する、いわゆる「御成り」は最高の名誉であり、その饗応は 善美をつくしたものになった。将軍家の御成は、三代将軍の時代になってから御三家・有力大名にたいして相次いで行われたものであるが、細川家は、この頃二代忠利・三代光尚と当主が比較的続いて没するという不幸があったために、ついにそのことが無いままに終った。しかし家格からすればおそらく当然迎えたであろう家柄である。そこで最高の儀礼的社交の場としてのその様子を、他家の例ではあるが簡単にみておこう。
寛永元年四月五日、家光が蒲生忠郷邸に臨んだ時の情景を、『徳川実記』は次のように記している。

 四月五日、松平下総守忠郷の邸に初めて臨駕あり、水戸宰相頼房卿、藤堂和泉守高虎御先にまかりむかへ奉る。兼日この設として御成門を経営す。柱には金を以て藤花をちりばめ、扉には仙人阿羅漢の像を鏤(ちりばめ)る、精微描絵のごとし、当時の宏麗壮観その右に出る者なかりければ、年へて後までも衆人此門を見に来るもの日々多し、字して日暮しの門とはいへりとぞ。此日快晴なりしに、堂室便座簾■(巾に莫)闈帳錦羅衆人の眼を驚かさざるといふ事なし。ことに宋徽宗宸翰鷹の掛幅、達磨の墨蹟をはじめ、書画・文房・茶具古今の奇珍を雑陳せり、実(げ)にや忠郷が祖父宰相氏郷は、織田殿の聟にて封地百万石にあまり、殊更和歌茶道の数寄者にて、賞鑑の名高かりしかば、和漢の奇貨珍宝を蓄積する所理りなしとて皆人感賞す。床には柴船という明香を、大麒麟の銅炉にくゆらせたり、御饗の酒肴山海の珍味をつくし、配膳はみな近習の輩をしてつとめしむ、御膳はてて庭上におり給へば桜花猶咲のこり、(中略)時に忠郷御路地口よりいで迎へ敬屈し、先導し数寄屋に請じ奉り御茶を献ず。頼房公・高虎も伴食す、石砌及び水盤、燈籠等苔滑に薛羅(せつら)はひまつはりしを以て、いつの間にかく古色をたくはえしとてことに御感あり、御茶はてて猿楽御覧ぜらる、供奉の輩にも供給のさま供御に滅せず。(後略)

引用が長くなったが説明の要はあるまい。他家の例からみると、これに大名側からの献上、将軍側からの下賜が加わることが多く、それに饗応・茶事・猿楽と続くのが恒例の型となっている。御成の行事は当時の大名のもつ文化的教養の集約的表現とをみりことができよう。 

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■大名の文化生活‐細川家三代を中心として(六)

2017-04-18 06:23:53 | 史料

  天下統一の業を進めた信長・秀吉・家康をはじめ、当時の武将には猿楽の愛好者が多く、みずから演能する達者な大名も少なくなかった。したがってこの時代から非常な隆盛を見せることになるが、能がいわゆる武家の式楽化するにつれて、芸術的には初期の慶長頃から発展性を失いつつあり、隆盛といわれるものの、内容は普及が主なものになったようである。それはともあれ、細川家も幽齋以来、歴代能の愛好者であったし、したがって家中の武士にも筆頭家老松井康之・興長はじめ堪能な者が少なくなかった。とくに幽齋や忠興は、足利義昭・信長・秀吉・家康に近かったから、能役者の中心である四座の役者たちの演技に接する機会も多く、その鑑賞眼は高かったようである。たとえば忠興は、寛永八年三月の手紙の中で宝生勝吉について「其もの花金剛(鼻金剛・金剛氏正)子にて候故、五段之埒を不破次第をよく舞申候、中にも四段目之かへり足の所、扇之取様能御入候、宝生入道仕か本にて候、能可披見候」と演技の細部の見どころまで注意を与えたり、同じ手紙で、喜多長能の能が上達しないのは、結局不精、つまり稽古不熱心の故だと厳しい批評を下したりしている。また別の手紙に、「鵺(ぬえ)」の仕舞の所作について、観世宗節の書物に普通のと異なった形付が記されているが、太刀を拝領して持ち帰るとき、左手に持つか右手に持つかを小笠原長元に尋ねて詳しく書付けて送るよう忠利に依頼している。小笠原家は松井家などに次ぐ細川家の重臣で、これも能の嗜みが深かったのであろう。
 細川家で能が演ぜられるのに種々の場合があった。最も単純なのは藩主の慰みの場合もあれば、単独の場合もあれば、同時期に江戸なり国許なりに滞在している時には親子そろって楽しむこともある。みずからシテを勤めるほか、家臣中の堪能な者が参加を命ぜられた。囃子方は太鼓、鼓などに役者を抱えていたほか、これも家臣中の心得ある者に命じた。一家の内で演じている間は慰みであるが、他人を招くとなると社交の意味を持つようになる。寛永八年、当時まだ六丸と称した光尚が、はじめて将軍家光に面謁した後、祝儀の能を催したり、幕府年寄衆を屋敷に招待したり、あるいは少年の光尚を主人役にして、土井利勝の子供を招待するということもあれば、島津家久が参勤で帰国するからといって暇乞の能に招待されるということもある。その間、江戸状中でも何かといっては能の行われることが多かった。このように頻繁に能が上演されると、各家で抱えている能役者はもちろん不足する。忠利も幕府年寄衆の招待の時には喜多七大夫長能を呼んでいるが、江戸の能楽師たちは多忙を極めた。当然諸大名からの報酬も多額にのぼり、彼らの生活は驕奢をきわめ、観世新九郎豊勝の京の家の立派なことは驚くばかりであったという(寛永八年三月忠興書状)
 大名家では、島津家が禁中能大夫虎屋長門を抱えたように、既成の能役者を召し抱えることもあったが、細川家でははじめそのようなことはなかった。京都在住の能役者たちに相当の扶持を宛行っておき、必要時には呼び下すようなことをしたらしい。元和九年に梅若六郎を小倉に招いたこともあり、忠利は六郎とその子九郎右衛門とは親しかったようである。
 しかし寛永四年八月、忠利は新しい能の師として中村政長に入門し、起請文を書いた。(中村家文書)政長は四座には属さないいわゆる「近代シラウト芸者」(四座役者目録)であるが、肥後の加藤忠広に抱えられ、この時は家を子の正辰に譲って自分は自由に活動していた。翌々寛永六年十月、政長は忠興に謁し彼に能を教えた金春安照からの相伝の書物を見せ、また二日間にわたって「高砂」以下の能を演じたが、忠興はそこに安照の芸風を見出し、少々初心のところを直せば誰にも劣らぬ上手になるだろうと評している。(政長宛幷忠利宛忠興書状)やがて寛永九年加藤家が改易となり、そのあと細川家が肥後を領することになると、正辰は千石の高い知行で士分として細川家に召し抱えられ、以後江戸時代を通じて細川家における「能の家」として活躍した。(表章「肥後中村家能楽関係文書について」)
 慶安二年 の七月、藩主光尚の病気回復を祝って江戸邸で能が催され、この時正辰は父政長もついに演ずることのできなかった大曲「道成寺」を勤めることになった。当日は能には口のうるさい永井日向守直清も招かれてくることになっており、光尚はじめ家中一同正辰の顔を見ると「大事ぞや大事ぞヤ」というので、彼も落ち着かない。時間は当日江戸状中で能があるので役者を揃えるため夜能ということになった。
当日の役は脇を金剛座の高安太郎左衛門、金引きは金春座の春日四郎左衛門、大鞁観世勝九郎、太鼓金春惣右衛門、小鼓観世清六、笛観世少兵衛という一流の顔ぶれであった。いよいよ上演の段になると、馴れているはずの高安太郎左衛門さえぶるぶると震えているので、家中の者たちは案じたが、幸い正辰は少しの粗相もなくこの難曲を演じ終り、永井直清からも光尚からも賞詞を得て面目を施した。(綿考輯録)
このように江戸は、一つの文化的坩堝(るつぼ)の役割も果たしていたのである。 

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■ご紹介「天草本いそっぽの物語」

2017-04-17 17:31:12 | 書籍・読書

 

  天草本いそっぽの物語
   かとうむつこ
    海鳥社   

 

商品の説明

内容紹介

イソップ作の『蟻としぇみ(アリとキリギリス)』、『狼とわらんべのこと(狼と羊飼い)』、『犬が肉を落としたこと(よくばりな犬)』など、およそ100の物語を収録。安土桃山時代の衣装を着た愛らしさいっぱいのさし絵。鳥、狼、羊、人々が織りなす愉快な寓話絵本『平成・イソップ物語』。

著者について

福岡県柳川市に生まれる。福岡教育大学美術科卒。同大在学中に福岡県展県にて知事長受賞(油絵)。西日本女流絵画展、文部省県展選抜展招待出品など絵画活動後、高校教諭として勤務。1971年アーティストとして米国永住権を取得。現在、サンフランシスコ在住。1980年~86年、サンフランシスコに「ギャラリー・シオー」開設。2014年、童話「神さまって ほんとうにいるの?」が日本こどもの絵本研究会選定図書に選ばれる。2015年、福岡県朝倉市美奈宜の杜に「ギャラリー・シオー」開設。柳川同人誌「ほりわり」の表紙絵を25年担当。北原白秋生誕百周年を機に、同誌に童話を発表し始める。絵本、童話、歴史小説を出版、個展を開催するなど作家、画家として活躍中。
【著書】
かとうむつこ童話集I~III(東京図書出版会、2003、2004、2006年)、『急ぎ御文参らせ候―寶樹院殿悲話哀話』(西日本新聞トップクリエ、2013年)『神さまって ほんとうにいるの?』、(銀の鈴社、2014年)『三つの星』(銀の鈴社、2015年)、『お花のお見舞い 天使のお見舞い』(銀の鈴社、2015年)ほか

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■大名の文化生活‐細川家三代を中心として(五)

2017-04-17 09:15:02 | 歴史

 鷹狩 山野を跋渉して、飼い馴らした鷹に猟をさせる鷹狩りは、古来武士の好んだ遊戯であった。戦国時代には一時衰えたというが、徳川家康が天性の鷹狩好きで、若年のときから死没の直前まで、暇さえあれば鷹野に出るという風であったから、これに倣って諸大名の間にも盛んに行われるようになった。秀忠も鷹狩りを行ったが、次の三代将軍家光もまた大の鷹狩り好きであった。これはしばしば夢にみたほど尊崇していた祖父家康の好尚を見習ったものであろうが、家光がその一生の間に行なった鷹狩は数百回に及ぶであろうといわれている。
 忠興は、慶長八年四月忠利に宛てた手紙の中で「其方如存、我々鷹ふ(不)すきに候故、鷹数無之候に付」と書いている。鷹狩りは好まないので所持している鷹の数も少ない、と言っているのであるが、家康・家光ほどの熱中とは見みえないが、結構しばしば鷹狩を催していることは、現存する書状などによって知られている。山野に鷹を放って獲物を狩ることは、それ自身で一つの豪快なたのしみであるが、しかし当時の大名の鷹狩りは、それだけではすまない点があった。鷹狩りが武士の、それも大名を中心とする上級武士の遊戯として定着してくると、それに伴う様々の儀礼を生じ、大名間の交際の一手段としての面を生じたからである。忠興は慶長七年伏見城にいた家康から鷹を拝領した。この後しばしば鷹の拝領があった。忠利・光尚にも折りにふれ鷹が下賜された。これは当時としては大きな栄誉を意味していた。鷹の下賜ではなく、鷹狩の獲物である鶴・雁・鴨・うずらなどが下賜されることもしばしばである。中でも鷹の鶴拝領は最高の名誉であった。忠興が領国の九州に在国中に鶴の拝領があった時などは、おそらく塩漬にしたその鶴が早飛脚で届けられたりしている。将軍ばかりではなく、蜂須賀至鎮その他の大名からの贈与があり、また細川家からも贈り、時には秀忠に鷹狩り用の勢子犬二匹を献上したこともあった。
 鷹や隆の鶴拝領などよりも、一層の栄誉とされたのは鷹場の拝領である。忠興は元和三年に帰国の時、秀忠から手鷹を拝領し、帰国の途中で放鷹することを許された。道中の放鷹は、将軍以外には禁ぜられていたから、これは大きな恩遇であった。さらに忠利の時代寛永七年、家光から下総国小金・深屋の二ヶ所で高場を拝領した。江戸の周辺地域には将軍家の御鷹場があったほか、御三家や有力大名を限って高場が与えられたが細川家もそれに加えられたわけで、忠興もこれには喜び、早速まだ十歳そこそこの孫光尚を連れて出かけた。帰宅後、忠利に宛てた手紙には「先書に如申、御鷹数又こかねと申て当地より六里程在之所にて御高場被下に付、則参候て雁物数させ申候、面白さ中々申も疎に候、塩雁不珍物に候へ共、拝領之鷹にとらせ申候間、一ツ進之候、可有賞翫候、中三日之間に廿四とらせ申候、六(光尚)をも召連参候へは、うれしかり候事可被察候」とある。こうして鷹狩は、上級武士の身分を象徴するものとなっていった。 

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御恵贈御礼「東大史料編纂所研究紀要第27号抜刷 寛永一六年細川忠興の人質交代」

2017-04-17 08:36:34 | 史料

 東大史料編纂所の林晃弘先生から、研究紀要第27号抜刷 「寛永一六年細川忠興の人質交代ー新収史料 細川忠利・同光尚書状の紹介を兼ねてー」を御恵贈たまわった。伏して御礼を申し上げる。同論考については、研究紀要第27号に掲載されていることは承知していた。
これは購入をせねばなるまいと思っていた矢先のことで、おおいに驚いたことであった。
先般東大史料編纂所では細川刑部家の祖・興孝に宛てた細川忠利・息光尚の書状を購入された。
この書状を以て長い間證人として江戸にあった興孝に関する史料が補強され、今般の論考に至ったとされる。
その内容は大変興味深い。他の男子に比べ三齋に疎外された
興孝の無念さは如何ばかりであったろうかと忖度するのである。
「注」にある引用史料等をあわせ精読しようと思っている。
 

                  東大史料編纂所研究紀要第27号
       細川忠利書状  細川興孝 (「刑部殿」)宛 
         細川光尚書状  細川興孝 (「細刑部様」)宛 

 

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