読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

カイエ・ソヴァージュⅢ

2006年03月20日 | 人文科学系
中沢新一『愛と経済のロゴス、カイエ・ソヴァージュⅢ』(講談社選書メチエ、2003年)

経済活動における交換と贈与のシステム、キリスト教における三位一体の教義、それらがすべて現生人類の心の動きの構造(ラカンが解明したような構造)から派生したものであるということを解明しようとするのが、今回の講義の主題なのだが、これまでカイエ・ソヴァージュをⅠからⅣまで読んできた中で、私にとって最も理解しにくい講義であるように思う。まず経済活動を交換と贈与のシステムだという説明がうまく理解できないまま読み進めてきたためか、贈与と交換の関わりのなかから商品が、また純粋贈与と交換の関わりのなかから資本が生まれるという説明がよく理解できない。もちろんマルクスの剰余価値学説はよく理解している。学生時代にそういうことを一生懸命勉強した世代なのだ。だがそれがラカンの現実界、想像界、象徴界との対比の話になるとわけが分からなくなる。この講義でもこれらの概念について一つ一つ定義してあるのだが、その定義自体が理屈としてもよく分からないし、具体的にどんなことを言っているのかということもよく分からないので、それらの関係が同じだと言われても、字面を追っているだけで、理解しないまま読み終えてしまったようだ。どうも私の頭は、それぞれの分野のことは思考できるが、分野のあいだに連関を見つけることができなかったネアンデルタール人のレベルのような気がして、「わしはクロマニヨン人ではなく、本当はネアンデルタール人の末裔なのかもしれん」という感慨に浸っている。

ただ、なにもかも分からないままで読み終えたわけではない。最後の講義のところで、ハイデッガーを引用して、自然からその存在をさまざまな挑発や狡猾な手法をつかって無理やり引きずり出すことをテクネーといい、自然がまるで自発的に自分を開いてくれるようにするピエーシスとを峻別すべきだとして、このポイエーシスこそ、国家をもつ以前の人間たちが自然に対してきた手法だということを指摘しているのだが、このポイエーシスというのはルソーのある手法を指しているように思いながら読んだ。というのはルソーは『新エロイーズ』にしても『エミール』にしても『社会契約論』にしても、相手を直接的に操作するのではなくて、間接的な操作によって、相手には自分が自由な意志において行なったと思わせながら、こちらの意図どおりのことをさせるという手法があるのだが、これなどはまさにここで指摘されているようなポイエーシスなのかもしれないと思う。たしかにルソーも『人間不平等起源論』で国家が形成される以前の自然人の状態を人間にとってもっとも幸福な状態だったと説明している、鉄器の使用、農業の開始、貨幣の流通などによって人間は堕落していったというように見ているからである。このあたりの思想家たちの考えは通底しているのかもしれない。

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