読書な日々

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『漱石のなかの<帝国>』

2013年06月06日 | 人文科学系
柴田勝二『漱石のなかの<帝国>』(翰林書房、2006年)

国民的作家である夏目漱石の小説をあらかた読んでいる者にとっては、『漱石のなかの<帝国>』なんて、じつに食指をそそるタイトルではないだろうか。漱石が小説家として活躍していた時代の日本人の精神に色濃く影響を及ぼしたと思われる日清戦争、日露戦争、三国干渉、韓国併合、第一次世界大戦、そうした戦争後に起きた不況、そしてそれらの時代を貫通する明治という激動の時代などが、漱石の小説には一見するとそれほど反映していないように見える。そういう時代背景を無視しても、面白く読めるのが漱石の小説であり、そうであればこそ国民的作家などと言われて、100年もたった現代においても多くの読者をもっているのだろう。

しかしこの本は、そうした一見時代の趨勢とは無関係に見える漱石の主要な小説に、じつは上に挙げたような戦争や朝鮮への侵略などが登場人物の名前だけではなく、主人公たちの人間関係という、小説の作りの最も根幹をなすところに影響を及ぼしていることを教えてくれる。

たとえば有名な『坊ちゃん』では赤シャツがロシアで、野だいこは中国であり、そして坊ちゃんとうらなりは帝国主義的拡張によって<強国>になり上がっていきながらも、西洋列強に対しては明確な自己主張をすることができない明治日本のウラとオモテを表しているという。親譲りの無鉄砲という性格をもつ坊ちゃんは、幕末期に向こう見ずにも西洋列強にたいして戦いを挑んだ薩長につながる性格が付与されているというのだ。上に赤シャツはロシアと書いたが、背景的には西洋列強の隠喩と言ってもいいという。

もちろん著者は当てずっぽうでこんなことを書いているわけではなくて、当時の新聞なども丁寧に読んで、当時の新聞紙上でこれらの事件や国についてどんな報道がされていたか、どんなことが話題になっていたかを細かに調べた上で、そうした議論をしているわけで、納得しながらも、ちょっと狐につままれたような感じがしてしまう。

それにしてもこういう解説を読んで私が不思議に思うのは、当時の読者はここまで感じながら漱石を読んでいたのだろうかということ、そして初めてこうした漱石の小説のなかに当時の日本を取り巻く情勢が書き込まれていることが明らかにされたのだと思うが、こういうことが100年もたって初めて明かされるということは、それまでの読者は、私も含めて、読み違いをしていたのだろうかという疑念である。また100年経って研究者によって初めて明らかにされるまで分からなかったことに、小説の価値としてどれだけの意味があるのだろうかということでもある。

たとえば『明暗』ではお延は帝国的「延伸」を意味するとか、津田が結婚前に好きだった清子は「清」(中国)を意味するとかという説明を読んでも、実際の小説を読んでいるときに、そんなことを意識することはまずないし、意識しなくても小説を十分に味わうことができる。

もちろん小説というものは読者ごとにいろんなレベルの読み方があってしかるべきだし、どれが深い読み方だとか浅い読み方だとかは言えないのだが、100年経たねば分からないって・・・と思ってしまうのは私だけだろうか?


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