読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

『学術書を書く』

2016年04月18日 | 評論
鈴木・高瀬『学術書を書く』(京都大学学術出版会、2015年)

私はすでに二冊の学術書を出版している。一冊目は博士論文をそのまま出版した。二冊目は学生向けに書きおろしたものを出版した。どちらも自費出版だ。

前者は文部科学省の出版助成に応募したが、不採用だったので仕方なく、自費出版にした。100万円以上かかった。博士論文は出版するのが常識だと聞いたことがある。もちろん課程博士ではなくて、論文博士のほうの話だが。随分と出費はいったが、出版してよかったと思っている。書評を1本書いてくれた人がいるし、引用回数は22回を数えるからだ。この分野の基本文献と認めてくれているのだろう。

他方、二冊目の本は、学生向けに書いたものなので、新書で出したいと思い、ある新書の編集部に送ったら、編集者の一人が読んでくれて、「私は出版する価値があると思うが、残念ながら編集委員会で通らなかった」と手紙をくれたので、それなりに意義はあると考え、格安の自費出版をした。

『学術書を書く』を読むと、私の出版経験のさいに、こうしておけばよかったなと思われることが浮かんでくる。たとえば、一冊目の学術書の場合、第一章の研究史が難しすぎる。この本でも研究史はできるだけアウトラインをざっくりとまとめるべきで、そうでないと読者が先に読むのをやめてしまうと指摘されている。

第二に読者を想定してから主題を決めるという、一見逆ではないかと思えることが指摘されているが、これもそのとおりだと思う。研究者、あるいは相当な「読書人」(職業専門家ではないが、マニアックな人たち)を読者として想定するのか、それとも学生向けなのかによって、主題を設定の仕方が変わってくる。一冊目は博士論文だったので、否応なく専門家向けになったが、それは一回きりだから、それ以降はこの点をよく考えねばならない。

いま三冊目を書いているところだが、専門家を相手にした本にしようと考えている。私が取り組んでいる分野は、マニアックな愛好家は専門家でなくても、知識が深いので、学生向けよりも専門家向けとして、しっかりした内容のあるものを書くほうが、受け入れやすいと考えたのだ。

それにしても編集者の目を通して書き直しや編集の提案をしてもらえるのが、本当はいい。著者の書き捨てはどうしても独りよがりになるし、読者の視点が欠落するからだ。だが、ただでさえ出版不況の昨今、いったいどこの出版社が持ち込み原稿など見てくれようか。この本では大学出版会が前提になっているが、これだって、その大学の専任教員でなければ相手にしてくれない。私のような名もなき研究者は自費出版するしかない。悲しいけれども、それが現実だ。


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