萩原遼『北朝鮮に消えた友と私の物語』(文藝春秋、1998年)
自分史を書く人がたくさんいるらしいし、またこれからももっと増えるだろう。私の母親とか上さんの両親の話をきいていると、思わず、自分史を書いてみたらどうですか、と勧めたくなる。ちょうど彼らの青春時代が戦中戦後の激動期、そして高度経済成長期にあたるという興味深い時代であったということもあるし、また親族であるだけに、そこに自分の知らない自分の先祖とか自分の係累の見えなかった糸が、両親や親戚が自分史を書いてくれることで見えたくるのではないかという期待もあるからだ。どんなに平凡な自分史であっても大文字の歴史に関わっていないはずはないので、そこから歴史が見えてくることもあるだろう。
この著者の場合は、しかし自分史が激動の戦後朝鮮史とか日本共産党史とかに深く結びついているという点で稀有なものをもっている。そこには戦後日本の底辺層の日常があり、共産党と在日朝鮮人の運動の歴史があり、赤旗特派員としての平壌での生活があり、友人関係として戦後朝鮮の歴史がある。つまり自分史を書くことが、戦後日本と朝鮮の関係を描き出すことになるという意味で、稀有なものであるということだ。
極貧の少年時代から青年時代。当時はみんながそうだったのだろうけど、なかでも著者の場合は、生まれた高知を離れて大阪や東京に行かねばならなくなったことが貧困に拍車をかけたようなところがある。家族みんなでガリ版書きをして生活ができたというのだから、どんなものなのだろう。在日朝鮮人の友人との関係で朝鮮語を勉強し始める。天理大学朝鮮語学科を受けるも21人中一人だけ不合格に。あそこは公安や警察関係者が朝鮮語を勉強しに行くところ、それ以外の人間は受け入れないと後で知ることになる。その数年後ちょうど大阪外大に朝鮮語学科が新設されて入学することになる。
そして赤旗記者になり1972年平壌へ特派員として派遣されて、北朝鮮の隠された姿を知るようになる。純真に社会主義の大義を信じ、北朝鮮もそれが実現されている素晴らしい国と思っていたのが、じつは暗黒の独裁国家であることがわかってくるようになる。青年時代の友人の消息を求めて行動したことからスパイの嫌疑をかけられ73年に国外追放になる。1988年に突然に理由もなく赤旗記者を解任されたのを機会に、赤旗記者を辞め、フリーになる。
世界一周旅行(いわば赤旗特派員のいる都市巡りといったところ)の最後に行ったアメリカ、ワシントンで閲覧した北朝鮮関係の公開文書全文を読破することになる。その成果が『朝鮮戦争、金日成とマッカーサーの陰謀』として出版される。その後、朝鮮関係の本を次々出版。
この本で、第30回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。
北朝鮮に消えた友と私の物語 (文春文庫) | |
萩原 遼 | |
文藝春秋 |
この著者の場合は、しかし自分史が激動の戦後朝鮮史とか日本共産党史とかに深く結びついているという点で稀有なものをもっている。そこには戦後日本の底辺層の日常があり、共産党と在日朝鮮人の運動の歴史があり、赤旗特派員としての平壌での生活があり、友人関係として戦後朝鮮の歴史がある。つまり自分史を書くことが、戦後日本と朝鮮の関係を描き出すことになるという意味で、稀有なものであるということだ。
極貧の少年時代から青年時代。当時はみんながそうだったのだろうけど、なかでも著者の場合は、生まれた高知を離れて大阪や東京に行かねばならなくなったことが貧困に拍車をかけたようなところがある。家族みんなでガリ版書きをして生活ができたというのだから、どんなものなのだろう。在日朝鮮人の友人との関係で朝鮮語を勉強し始める。天理大学朝鮮語学科を受けるも21人中一人だけ不合格に。あそこは公安や警察関係者が朝鮮語を勉強しに行くところ、それ以外の人間は受け入れないと後で知ることになる。その数年後ちょうど大阪外大に朝鮮語学科が新設されて入学することになる。
そして赤旗記者になり1972年平壌へ特派員として派遣されて、北朝鮮の隠された姿を知るようになる。純真に社会主義の大義を信じ、北朝鮮もそれが実現されている素晴らしい国と思っていたのが、じつは暗黒の独裁国家であることがわかってくるようになる。青年時代の友人の消息を求めて行動したことからスパイの嫌疑をかけられ73年に国外追放になる。1988年に突然に理由もなく赤旗記者を解任されたのを機会に、赤旗記者を辞め、フリーになる。
世界一周旅行(いわば赤旗特派員のいる都市巡りといったところ)の最後に行ったアメリカ、ワシントンで閲覧した北朝鮮関係の公開文書全文を読破することになる。その成果が『朝鮮戦争、金日成とマッカーサーの陰謀』として出版される。その後、朝鮮関係の本を次々出版。
この本で、第30回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。