松永俊男『博物学の欲望 リンネと時代精神』(講談社現代新書、1992年)
「リンネと時代精神」という副題に惹かれて読んでみた。ここでいうリンネの、つまり17世紀の時代精神というのは、すべてを網羅分類し、一つの体系を作り出すことを言っているようだ。18世紀になると、ゲーテがすべての植物の原点であり、すべての植物がその変形とみなされる「原植物」というものを想定していたように、「原型」概念が登場するようになり、そこから進化論に発展していくことになるらしい。
たぶんこうした時代精神と呼ばれているものは分野によっても国によっても違うのではないだろうか。たとえば音楽の分野でいえば、ルネッサンスからバロックにかけてがすべてを網羅分類して体系を作り出そうとする時代であったのにたいして、18世紀の中ごろのラモーはそれをすべて三和音に突き詰めようとした。すべての和音は三和音の転回形という変形にすぎないと主張することになる。彼の通称「和声論」というのは『自然の原理に還元された和声論』というのが正式タイトルである。ルネッサンスからバロック初期に音楽家たちが次々と発見した多数の和音や和声がじつはごく少数の原理にまとめることができ、そこから一つの体系ができあがると主張したのがラモーであった。
ただものの順番としては、すべてを網羅分類して体系を作り出すという作業をやっていると、徐々にそこにはすべてのもとになっている原型があるのではないかということが見えてくるものだろうから、リンネ(あるいは彼の後継者たち)が行った網羅分類を土台として、ゲーテが「原型」としての「原植物」を想定するようになったという話は、たいへん面白い。
どの分野でも手順としてはこうなっているのだろう。人間の精神のあゆみがそうなっているからだろうとしか思えない。言語学でも世界の諸言語の分類研究が祖形としてのインド・ヨーロッパ祖語というものを考え出した。この印欧祖語からヒッタイト語、トカラ語、ギリシャ語などが分岐していく系統樹も描かれている。こちら
すべてを網羅しようという精神を「博物学的」と呼ぶように思うのだが、自然をことごとく記述しようとするナチュラル・ヒストリーの精神こそがリンネの時代のそれだったということが分かる。この本でもヒストリーは歴史ではなくて、語ること・記述することの意味だと説明されていて、その意味でナチュラル・ヒストリーは自然の姿を記述することだから、それがなんでも網羅的に扱う精神を意味する博物学的という言葉を連想させるようになるのもけっしておかしくはないと思うのだが。
私はこうした博物学的精神指向とはまったく逆の精神的指向をもっているなとつくづく思う。あらゆるものを網羅するのが嫌いなのだ。なんか頭が破裂しそうになる。だから自分に都合のいい事例だけを集めて自分なりの説を作り上げようとする傾向がある。だから以前も書いたが、広く浅くは嫌で、ひとつのことを深く掘り下げる傾向がある。でもそれって、本当にいいのかなと我ながら疑問ではあるが。
「リンネと時代精神」という副題に惹かれて読んでみた。ここでいうリンネの、つまり17世紀の時代精神というのは、すべてを網羅分類し、一つの体系を作り出すことを言っているようだ。18世紀になると、ゲーテがすべての植物の原点であり、すべての植物がその変形とみなされる「原植物」というものを想定していたように、「原型」概念が登場するようになり、そこから進化論に発展していくことになるらしい。
たぶんこうした時代精神と呼ばれているものは分野によっても国によっても違うのではないだろうか。たとえば音楽の分野でいえば、ルネッサンスからバロックにかけてがすべてを網羅分類して体系を作り出そうとする時代であったのにたいして、18世紀の中ごろのラモーはそれをすべて三和音に突き詰めようとした。すべての和音は三和音の転回形という変形にすぎないと主張することになる。彼の通称「和声論」というのは『自然の原理に還元された和声論』というのが正式タイトルである。ルネッサンスからバロック初期に音楽家たちが次々と発見した多数の和音や和声がじつはごく少数の原理にまとめることができ、そこから一つの体系ができあがると主張したのがラモーであった。
ただものの順番としては、すべてを網羅分類して体系を作り出すという作業をやっていると、徐々にそこにはすべてのもとになっている原型があるのではないかということが見えてくるものだろうから、リンネ(あるいは彼の後継者たち)が行った網羅分類を土台として、ゲーテが「原型」としての「原植物」を想定するようになったという話は、たいへん面白い。
どの分野でも手順としてはこうなっているのだろう。人間の精神のあゆみがそうなっているからだろうとしか思えない。言語学でも世界の諸言語の分類研究が祖形としてのインド・ヨーロッパ祖語というものを考え出した。この印欧祖語からヒッタイト語、トカラ語、ギリシャ語などが分岐していく系統樹も描かれている。こちら
すべてを網羅しようという精神を「博物学的」と呼ぶように思うのだが、自然をことごとく記述しようとするナチュラル・ヒストリーの精神こそがリンネの時代のそれだったということが分かる。この本でもヒストリーは歴史ではなくて、語ること・記述することの意味だと説明されていて、その意味でナチュラル・ヒストリーは自然の姿を記述することだから、それがなんでも網羅的に扱う精神を意味する博物学的という言葉を連想させるようになるのもけっしておかしくはないと思うのだが。
私はこうした博物学的精神指向とはまったく逆の精神的指向をもっているなとつくづく思う。あらゆるものを網羅するのが嫌いなのだ。なんか頭が破裂しそうになる。だから自分に都合のいい事例だけを集めて自分なりの説を作り上げようとする傾向がある。だから以前も書いたが、広く浅くは嫌で、ひとつのことを深く掘り下げる傾向がある。でもそれって、本当にいいのかなと我ながら疑問ではあるが。