読書な日々

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『大和川付け替え300年』

2009年09月26日 | 評論
『大和川付け替え300年』(雄山閣、2007年)

日本一汚い川として知られている大和川が、現在の柏原市リビエールホールがあるところから北上していた(ちょうど南から北上する石川に合流する形になっていた)のを、まっすぐ西側に付け替えて堺に河口をつくるようにした工事が江戸時代1704年に行われた。

堺の地の人間ではないし、結婚してから堺に住むようになったので、大和川にはあまりなじみはない。それでも毎日電車で大阪方面に出かけて帰ってくるときに、大和川を渡るので、それが大阪市と堺市の境界なんだなと思わせてくれるくらいのものである。

それよりも家の近くを流れている西除川のほうがなじみがあるが、こちらもすごいどぶ川である。狭山市にできた狭山池博物館を見学して、西除川がいかに周辺の水田の灌漑に大きな影響をもっていたかを知るようになって、見る目が変わったといっても、やはりどぶ川には違いない。この川にはすごい治水権があって、なんでも周辺の一戸建ての家は下水を流すのにお金を払っているとかいうような話を聞いたことがある。昔のなごりなのだろう。

大和川の話に戻ると、上にも書いたように、もともとは石川のほうが本流で、柏原市で大和川がこの石川に合流していると見たほうがいいくらいに、柏原市で急に北上するかたちになっていたらしい。河内長野のほうからせり出してきている台地にはばまれて西進できなかったらしい。たしかに藤井寺とか羽曳野のあたりは古墳がたくさんある。古墳を作るのは水浸しになるのを避けて、高台だろうから、それからも石川の西側が高台になっていたことがわかる。

それにしても1700年頃にたった8ヶ月で工事を完了したというからすごい。ただ掘削はしないで、両側に堤を盛り上げる工事だったからだということだが、それでも多少は掘ったのではないだろうか。江戸時代の土木工事というのもなかなかのものだったのかもしれないよ。

昔の大和川は、途中から分岐して久宝寺川となって、今のJR大和路線が走っているあたりを流れていたらしい。柏原、志紀、八尾と進んで、その先からさらに北上して、今の長瀬川がその本流だったようだ。つまり近鉄南大阪線の久宝寺口、長瀬、さらに北上して河内永和、高井田へと進んでいたらしい。もう一本は玉串川となって北上し、深野池や新開池に流れ込んでいた。

面白いのは、そういう玉串だとか深野だといった地名がそのまま現在も残っていることだ。深野池だったところは現在の大東市にあたる。また新開池のあとは新田に開発され鴻池新田となって今も地名がそのままにある。

「はなてん中古車センター」で有名になった放出はどうもこの新開池から水を放出するところだったらしくて、放出地点が短縮して「はなてん」となったと解説にある。

歴史って面白いね。

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