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読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

リュリ『アルミード』

2013年01月16日 | 舞台芸術

リュリ『アルミード』(ウィリアム・クリスティ指揮)

Armide Stephanie d'Oustrac
Renaud Paul Agnew
La Haine Laurent Naouri

シャンゼリゼ劇場で上演されたもので、指揮はクリスティで、演出はRobert Carsenという人。クリスティは1983年にリュリの『アティス』を上演して、フランスのバロックオペラ復活の立役者となった人で、もちろん音楽づくりにも定評があるし、申し分ないのだが、オペラはCDで聞くなら別だが、上演を見る場合には演出が相当のウエイトを占めることになる。はっきり言って演出で決まると言っても過言ではない。ところが、ラモーの『遍歴騎士』でもそうだが、あまりに突拍子もない演出家と組むことが多くて、せっかく世界初演というような作品を上演することが多いのに、「なに?これ?」というような上演を見せられて、驚く。この『アルミード』もそのような一つと言っていい。

リュリのオペラは当時の支配者ルイ14世が主題の指示からリハーサルにいたるまで関与していたこともあり、プロローグは彼を讃えるために作られている。現代の上演においてそれをどのように扱うかという問題はたぶん演出家を悩ませることの一つだろう。この上演ではプロローグのあいだヴェルサイユ宮殿を観劇しているという設定で、ガイドがプロローグを歌いながら、歌詞にピッタリの絵画や写真を舞台に写して見せるという趣向になっていて、さらには合唱団が旅行者たちの一団として登場し、その一人がルイ14世のベッドで眠り込んでしまい。その夢の内容として『アルミード』を描き出すという設定になっている。

アルミードは、最近フランス・オペラの主演としてよく出ているステファニー・ドゥストラック。ほとんどの場面がプロローグでルイ14世のベッドとして舞台中央に置かれていたベッドを中心にして展開する。服装は現代風で彼女はノースリーブの赤いワンピースに、ときおり赤いガウンのようなものを身につけるだけ。男性たちもワイシャツにジーパン(あるいはチノパン)という出で立ち。アルミードが心ならずも宿敵ルノーに恋心を抱いてしまったことを嘆く。彼は自分たちの捕虜を解放してしまう宿敵なのだ。ルノーはポール・アグニューが演じる。

第二幕は、アルミードが作り出した偽の楽園に入り込んだルノーがそこで偽の精霊たちに快楽の世界に誘われて眠り込んでしまうというなが~~~い場面が延々と続く。そこでも真っ赤なワンピースを着た女たちが真っ赤な照明を当てられた舞台でそれらを演じる。彼女たちがアルミードとまったく同じ衣装をしているということは、彼女たちはアルミードの化身として作られているということを示そうとしているのだろう。そして最後に有名なアルミードのモノローグが来る。

第三幕では、宿敵ルノーに恋してしまったアルミードが冥界の憎悪の女神にルノー殺害を頼んでは断るという矛盾した行為を見て、彼女の中に巣くう愛を追いだそうとする場面で、まるで、衆人環視の前で、アルミードが男たちに陵辱されているような演出がされている。見ていて、ちょっと不愉快になる。

第四幕は、アルミードの手の中に落ちたルノーを救出するためにやってきた二人の騎士の前に、二人の恋人(ここにいるはずのない恋人)が現れ、二人を誘惑する。もちろんアルミードが遣わした悪魔が化けたもの。そしてこの恋人が素っ裸なのだ。照明は弱められているし、薄いカーテンが舞台全面に降りているので客席からあそこまで見えるわけではないのだが、そこまでしなければならないのだろうかと思う。ラモーの『遍歴騎士』の時もそうで、素っ裸の男女がダンスをする場面がある。必然性がまったく分からない。

第五幕は、ルノー救出のために来た二人の騎士のおかげで、快楽の世界から目を覚ましたルノーがアルミードへの愛を振りきって逃げ去り、それに絶望したアルミードが世界の崩壊を命じて終わるのだが、愛し合いながらも別れねばならない二人のやり取りという最後の盛り上がり舞台ではあまり感じられない(ヘヴェレッへのCDを聞いているほうがよほど感銘する)のは残念だ。なぜなのか、私にもよくわからないが。そして最後の宮殿崩壊は、当時の舞台ではどうやったのだろうか。見てみたいものだが、この現代風演出では当然なにもない。


『オーリドのイフィジェニー』

2013年01月12日 | 舞台芸術
グルック『オーリドのイフィジェニー』


18世紀後半にヨーロッパを席巻していたイタリア・オペラがカストラートの支配によってまるでカストラートによる独演会のようになって、劇としても真実らしさなどが度外視されていた堕落状態を嘆き、オペラ改革を行ったグルックのフランス語オペラ第一作がこの『オーリドのイフィジェニー』である。初演は1774年4月。当時、ウィーンにあるフランス大使館の官吏をしていたデュ・ルエという人が、ラシーヌの『イフィジェニー』を種本にして書いた。

音楽が付くことによって、言語だけによる演劇とは違う言語使用法が求められる。言語によって表現しなければならない、あるいは行間を読むというような示唆的表現内容が、音楽によって表現されるために(あるいはそうであることが期待されるために)、言語はずっとすかすかの状態に作られる必要が生じる。詩だけを読むと、とても読めたものじゃない、ようなものが、音楽が付くことによってまったく違う表現力をもつようになる。そうした作詩法は、プロの演劇詩人では逆に不得手になることが多い。語りすぎるのだ。まさにヴォルテールがそういう例だった。

この観点から見るとデュ・ルエによる詩は、当時の大方の観客がラシーヌの『イフィジェニー』を知っている(あるいは知っていなくてもこの神話を知っている)ことを前提にして、簡潔なあらすじにしている。しかも見所を、イフィジェニーの決心よりも、父の立場をとるのか、ギリシャ全軍の大将の立場をとるのか、という激しい相克に置き換えていることも、そうした内面の葛藤を描き出すことが得意な音楽の特性を上手く利用した巧みな作品にするのに貢献している。

それでも現代的な感覚からすると、第二幕前半を占める祝祭(イフィジェニーとアシルの婚礼を祝うダンスや歌によるディヴェルティスマン)部分が長すぎるという印象を持ってしまう。たしかに全体のバランスからすると、第一幕を占める行き違い・スレ違いと第二幕後半から第三幕全体を占めるイフィジェニーを生贄にすることの登場人物たちの苦悩のあいだにある、いわば息抜きと位置づけることもできるだろうが、それでも長すぎる。

圧巻は、第二幕最後のアガメムノンのモノローグ。アシルの手前、というかアシルがそれでもあんた父親かと責め立ててくるので、売り言葉に買い言葉で、ついイフィジェニーを生贄にすると言ってしまったが、一人になると、イフィジェニーが生贄にされて剣で胸を突き刺され鮮血を流す姿を思い浮かべて、耐えられなくなり、かと言ってこのままではトロイへ向かう風が吹いてくれないというニッチもサッチもいかない状態のなかで、苦悩する姿が、グルックの音楽と合わせて、最高の山場を作っている。大団円ということで言えば、最後の生贄の場面なのだが、どう考えてもグルックおよびデュ・ルエはこの場面をもう一つの山場にしている。そこをどう演出するかにこの作品の出来がかかっているのだが…

CD版はガーディナー指揮のものがいい。なんといっても、イフィジェニーの清楚さを透明感のある声で出しているリン・ドーソン、エゴイズム丸出しの母親クリテムネストラを演じるアルトのアンネ・ゾフィー・フォン・オッター、若気の至りじゃないけど、血気盛んな若者の正義感をうまく出しているジョン・アラー、苦悩する父親を重厚に演じるホセ・ヴァン・ダムなど歌手が素晴らしい。そしてガーディナー指揮によるオーケストラもテンポのいい音楽でぐいぐいドラマを進めていく。名盤の一つだと思う。


『カストルとポリュックス』

2012年12月30日 | 舞台芸術
ラモー『カストルとポリュックス』(ネーデルランド=オペラ、2008年)

Rameau - Castor et Pollux - Christophe - Les Talents Lyriques

合唱・オーケストラ/Les Talents Lyriques
指揮/Christophe Rousset
カストル/Finnur Bjarnason
ポリュックス/Henk Neven
テライール/Anna Maria Panzarella
フェベ/Veronique Gens
ジュピテル/Nicolas Teste

双子のカストルとポリュックスはどちらもテライールを愛しているのだが、ポリュックスを愛するフュゼが嫉妬して、反乱を起こさせると、その反乱軍と戦ったカストルが戦死してしまう。カストルを愛していたテライールの悲痛な姿を見て、ポリュックスは冥界に降りて、カストルを生き返らせるように頼もうとする。しかし父ジュピテルが降りてきて、そのためにはポリュックスが身代わりに死ぬことになると知らせる。それを受けてポリュックスは冥界下りをする。兄弟愛からカストルは一目テライールに会ったら冥界に戻ってくるという約束をする。テライールとの再会と別れに嘆き悲しむ二人を見て、運命が書き換えられることになる、というような内容である。

ラモーの音楽悲劇第二作で初演は1737年だが、大幅に書きなおされて、1754年に再演されたほうが使われている。台本はヴォルテールからジャンティ・ベルナール(つまり優しいベルナール)とあだ名を付けられたジョゼフ・ピエール・ベルナール。もともとはプロの詩人ではなかった。ラモーはデビュー作の『イポリトとアリシ』は別として、第二作になるはずだったヴォルテール作詩『サムソン』のときに、大詩人ヴォルテールが大幅に譲歩したのに味をしめたのか、詩人にたいしてあれこれ書き直しさせることで有名になった。そのため、1730年代から40年代にかけてラモーのために詩を書いた人はプロの詩人ではないことが多かった。

この『カストルとポリュックス』は、詩の意味するところが非常に抽象的で、言い換えると紋切り型のセリフが多い。たいていの悲劇は神話をモデルにしつつも、本来詩人が目の前に具体的な情景を作り出しながら、詩を書いていなければならない。しかしそうなっていない。

この演出は、舞台美術を抽象的なものにしており、それに合わせて衣装も、古代風でも現代風でもない抽象的な衣装になっている。役者の動きは非常に緩慢で、全体を貫く雰囲気は重々しい葬儀のそれである。グルックの『アルセスト』のそれに似ている。

ラモーのオペラで重要なダンスは、18世紀のダンスを捨てて、現代風になっている、というか一種の創作ダンスのようなもの。ラモーはディヴェルティスマンのダンスによって雰囲気を暗鬱から陽気に、活気から悲痛にテンポよくコントラストよく進めようと配慮しているのだが、この演出はそれをまったく無視している。本来、ダンスにもテンポや曲想によって、雰囲気を提示する役目があるはずだが、この演出によるダンスはまったく意味をなしていない。確かに現代風なダンスにすること自体には問題はないが、意味が分からないようでは。



『イポリトとアリシ』

2012年12月23日 | 舞台芸術
ラモー『イポリトとアリシ』(トゥールーズ、2009年)


YouTubeで全編を視聴できる。

いつ上演されたものなのかデータが載っていないが、
どうやら2009年にトゥールーズで上演されたもののようだ。
演出は Ivan Alexandre
舞台美術  Antoine Fontaine
衣装 Jean-Daniel Vuillermoz
照明 Herve Gary
振り付け Natalie Van Parys
オーケストラと合唱 Orchestre et Choeur du Concert d'Astree
指揮 Emmanuelle Haim
ということになっている。

それまでオルガニスト、クラヴニスト、音楽理論家としての地位を確立したラモーが満を持して50歳にして挑戦した初めての音楽悲劇である。それだけに序曲から最後まで、一部の隙もないほどの名曲ばかりである。リュリから前ラモー派と言われる(いわばラモーを準備した時代)の特徴である、退屈なレシタティフも、小気味いいほどに音楽的で、しかも詩の仕組みを音楽がなぞる式の、素晴らしい出来である。これまで、クリスティーのCDであれこれ想像しながらしか聞けなかったが、映像を見ながら聞くことができるようになった。

第一幕冒頭のアリシのエールは、あのフィリップ・ボーサンがフランス・オペラ最高のエールと評したらしいが、素晴らしい。アリシとイポリトがふたりきりになってお互いの愛を告白するレシタティフは、クリスティーのCDではもっとレシタティフ的なのだが、映像があるせいかレシタティフという感じがしない。そしてフェードルが登場する。フェードルは Allyson Mac Hardyという人が演じていたが、これがまた上手だ。若い二人の恋に横恋慕して引き裂いてやろうとする意地悪さが体全体からにじみ出ている。

第二幕はテゼの冥界下りだが、特筆すべきはテゼを苦しめるテイシポネ(ティジフォーヌ)という蛇の髪をした復讐をつかさどる三姉妹の女神の一人の化粧がまるで歌舞伎の隈取を真似たようなものでじつに素晴らしい。歌舞伎でも藍や茶など暗色系は邪悪や鬼畜妖怪を表すそうで、そのような色を使っている。役者の表情もよい。この幕はなんといっても、幕の最後にでてくる三人のパルカイによる不吉な予言(地獄を出ても、お前のなかに地獄を見るぞ)を歌う三重唱である。そこにいたるネプチューンのバスの歌もよかった。ただ面白い演出がしてあり、この三人の運命の女神たちはぶら下げられた姿で歌う(じつは、そのように見える演出がしてあり、実際には普通に立っているのだが)。この三重唱のリズムからしても、これは不動のまま歌わせるのではなくて、身振りによって、激しさを表しながら歌わせるべきではないだろうか。

第三幕はフェードルの幕である。テゼが死んだという報を聞いたフェードルはこれでイポリトが自分のものにできるとぬか喜びするが、イポリトに王座をちらつかせて言い寄ったのに拒否されてしまう。そこで有名な場面になる。自分を殺せと猛るフェードルから奪い取った剣を手にしているところにテゼが戻ってきて、息子が妻を手篭めにしようとしていると勘違いし、まさにこれがパルカイの予言だったのだと呆然とする場面。どういうわけか、剣ではなくて弓矢をもたせたため、予期していたほどの悲劇性が生まれてこないのは残念だ。

第四場は、アリシとイポリトの別れの場面で、その後イポリトがネプチューンが送った海の怪物によって飲み込まれてしまうという、フランス・オペラ特有の仕掛けの場面があるのだが、これも、ハリボテを登場させるというグロテスクなやり方ではなくて、バックに海の怪物の大きな口をえがき、そこが開いて、ネプチューンに導かれていなくなるというもので、こうして言葉で書くと変な感じがするが、舞台を見ている限りでは、違和感なく見ていられる。本当は、地面が割れて、そこにイポリトが落ち込むというような衝撃的な場面なのだろうが、実際に舞台ではそんなことはできないし(もちろんやりようによってはモーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』の最後みたいにもできるだろう)、全体的に落ち着いた演出なので、問題はなかった。とにかく舞台は演出が一番出来を左右する要素になる。


『トゥーランドット』

2012年07月01日 | 舞台芸術
プッチーニ『トゥーランドット』(河内長野市マイタウンオペラ)

プッチーニの『トゥーランドット』はかなり以前から存在した話にシモーニたちが台本を作ってプッチーニが音楽をつけた最後の作品だということだ。未完成だったがアルファーニが完成させて、1926年にトスカニーニの指揮で初演された。

私は名前だけは知っていたが一度も聞いたことも見たこともなかい状態で、初めて舞台で見た。ヴェルディの『アイーダ』などと同じで、架空の物語すぎて、登場人物の感情の動きが大雑把すぎるし、とにかく大文字の「愛」ですべてが決まるというような、大味の物語と、大音響の音楽に閉口した。

まだ同じプッチーニでも『蝶々夫人』のほうは、これも作り物とはいえ、同時代の日本で現実におきたかもしれないと思わせる内容で、蝶々夫人の感情の動きにもじっくり向き合っていればこそ、音楽も生きていたが、こちらはまったくお話にならない。見ている側がまったく感情移入できない。たしかに「誰も寝てはならぬ』だとかフィナーレのアリアだとか、どこかで耳にしたことがあるメロディーが出てきたりするが、ただそれだけのこと。

唯一の収穫は、ピン・パン・ポンだった。もともとイタリアの伝統的なコメディア・デラルテのスタイルに基づいているそうで、仮面をかぶったり白塗りにして登場するらしいから、日本での上演ということを考えて、『西遊記』の三蔵法師の物語の付き人役の孫悟空、猪八戒、沙悟浄を模して、猿、豚、河童のメイクをして登場させたのは、じつに素晴らしい演出だと思う。しかも歌手がまたぴったり。とくにピン役の歌手は豚そっくり。もっと面白おかしく動いてもよかったと思う。

最近は真面目一筋のオペラには面白みを感じなくなってきている。その点モーツァルトは素晴らしい。

『ルソーとモーツァルトの競演』

2012年05月12日 | 舞台芸術
『ルソーとモーツァルトの競演』(日本モーツァルト協会主催、武蔵野市民文化会館)

今年はルソー生誕300年で、記念の行事(と言っても、たいていは研究者関係のもの)がいくつか行われているが、その中で珍しいものとして、モーツァルト研究者として著名な海老澤敏が、4月に「むすんでひらいて」とルソーのオペラ『村の占い師』との関係、5月にルソーの『村の占い師』とモーツァルトが12歳の時に書いたというジングシュピール『バスティアンとバスティエンヌ』、6月にはルソーのメロドラマ『ピグマリオン』を上演する連続音楽会を主催しているものがある。

どれも東京まで行って観劇したいのだが、とても叶わぬので、これだけは見ておきたいと思い、11日に武蔵野市民文化会館まで出かけて見てきた。

どちらも、好き合っている羊飼いの男女一組と彼らの仲を取り持つ村の占い師(魔術師)の三人の登場人物。どうやら占い師にそそのかされて上流階級の夫人との付き合いを試みるために村を留守にすることが多くなった羊飼いを見て、自分が捨てられたと思い込んだ羊飼い娘が占い師に相談に行き、彼の気を引くためには冷たくしなければならない、もう愛していないと思わせなければならないという駆け引きの手法を授けられ、それを実行して、二人の仲が元通りになり、それを三人で喜ぶという、一見すると他愛もない話である。

もともと1753年(パリ・オペラ座)で初演されたルソーの『村の占い師』が大成功し、パロディーが作られ、当時のウィーンはパリで上演されたオペラ、とくにオペラ・コミークがすぐにウィーンに伝わるようになっており、この『村の占い師』のパロディーもウィーンに伝えられたと思われる。それがドイツ語に翻訳されて、モーツァルトが12歳つまり1768年で音楽をつけたということになっている。

両者の違いは、音楽は別とすると、それぞれの国でのオペラの作り方の違いがそのまま現れている。つまりフランスではバレエや歌を中心としたディヴェルティスマンが大きな比重をもつという点である。だから、上にあらすじを書いたような筋の展開そのものは、30分もあれば済んでしまうような話なのだが、めでたしめでたしとなった後に、ルソーの『村の占い師』では、パントマイム(この冒頭の旋律が「むすんでひらいて」の原曲…ただしそのまま同じではない)や合唱、ダンス、歌が延々と続く。それらの歌は主題とはほとんど関係ないので、省略しようと思えば可能なものばかりだ。ただ昨日の上演では、すべて上演された。だからはっきり言って退屈としか言いようがない。

他方、モーツァルトのほうは、パロディーが元になっているので、そうしたフランスのオペラの構造とはまったく別で、二人が仲直りしてめでたしめでたしとなったところで終わっている。ただそれだけではたぶん10分もあれば終わってしまうので、二人の言い争いを延々とやって引き伸ばしている。こちらはダンスもなければ合唱もない。

バロック期のフランス・オペラが日本で上演されない(あるいはしにくい)理由の一つがここにある。バレエが必要になる、合唱も必要、さらに音楽悲劇ということなれば、怪獣や悪魔や神々が出てくるので、宙吊りなどの仕掛けも必要になる。ということで、出費が大変だし、演出が不可能なものまである。それにバレエと言ったって19世紀にロシアを中心に確立されたクラシック・バレエではなく、バロック・バレエなので、そんなバレエを踊れる人は日本には数人しかいない。昨日のバレエも、じつはバロック・バレエではなくて、クラシック・バレエを踊っていた。

ただ、歌手(ソプラノは、別々の女性が歌った)たちは、じつに上手だった。それにトウキョウモーツァルトプレーヤーズの団員によるアンサンブルもよかった。あれだけのことができるのは、やはり海老澤敏しかいないだろう。
ルソー:歌劇“村の占い師”全曲
ルソー
CPO

モーツァルト:歌劇《バスティアンとバスティエンヌ》《劇場支配人》 [DVD]
クリエーター情報なし
ユニバーサル ミュージック クラシック


6月30日には、これまた珍しいルソーのメロドラマ『ピグマリオン』(ただしピグマリオンの科白は日本語で行われる)の上演のほか、ルソーが作曲した楽曲の演奏もある。




『フィガロの結婚』

2012年03月26日 | 舞台芸術
モーツァルト『フィガロの結婚』(第26回伊丹市民オペラ定期公演)

昨年の『アイーダ』に続いて二回目の今年は『フィガロの結婚』。まだ一度も舞台を見たことがないオペラだったので、昨日旅行から帰ってきてばかりで少々お疲れ気味だったのだが、頑張って伊丹まで観に行った(といっても電車に乗っている時間は正味1時間くらいなのだ)。去年も書いたが、伊丹って大阪空港があるので、なんかイメージ悪かったのだが、JR伊丹駅の周辺はじつに雰囲気がいい。とくに酒蔵通りとかいうあたりはちょっとこじゃれている。駅から8分程度のところにある伊丹ホールで公演があった。

ここの市民オペラは演出が大阪音大の名誉教授の桂という人がやっている関係で音大出身者がほとんど。別に文句をいう筋合いではない。

なんといっても良かったのはアルマヴィーヴァ伯爵、一旦廃止したはずの初夜権を、大好きなスザンナのために無視して使おうとあれこれ欲望むき出しで画策する伯爵役を、ちょっと個性的な顔立ちをしている福嶋勲がうまく演じていた。伯爵としての堂々としたいでたちと、女を手に入れたくて仕方がないという欲望の虜になった男のいやらしさを存分に発揮しているところなんか、素晴らしい。この役がうまく演じられれば演じられるほど、カタストロフが大きいのだから、いやらしいくらいに演じてくれる方がいいのだ。そのあたりのことを福嶋勲はよくわかっている。

モーツァルト:歌劇《フィガロの結婚》フィレンツェ歌劇場2003年 [DVD]
クリエーター情報なし
日本コロムビア

スザンナ役の中本椋子は、小柄で、いかにも庶民の出ながら頭のいい若い女、身分制が崩壊しつつある時代の新しい担い手としての女の象徴的な存在を上手に出している。経歴を見ると、どうも数年前に大阪音大の学生オペラ公演で観たことがあるようなのだが、ほとんど印象に残っていなかったということは、この役がけっこうはまり役なのかもしれない。
モーツァルト〈フィガロの結婚〉読解―暗闇のなかの共和国
水林 章
みすず書房

水林章さんのこの本を読みながらこのオペラを鑑賞すれば、もっと理解が深まるだろう。

『魔笛』

2012年02月20日 | 舞台芸術
モーツァルト『魔笛』(第23回大阪音楽大学学生オペラ)

大阪音楽大学に学生オペラを見に行った。今回は『魔笛』。去年は『ドン・ジョヴァンニ』で、一昨年が『コジ・ファン・トゥッテ』だったので、ずっとモーツァルト続きだ。いまから10年くらい前に、フェスティバルホールにドイツからきた一団の『魔笛』を見たのが、オペラ元年だったが、そのオペラは一人3万円くらいしたのに、酷いもので、いまではどんなんだったかさえも忘れてしまったくらいのものだったが、昨日の公演は、上さんもやっと話の内容が分かったと感想をもらしていたくらいに、よくできていた。ドイツ語の発音がどうだったのか私たちにはわからないが、歌唱力は十分にあったし、パパゲーノの学生なんか歌やドイツ語の発音だけでなく、演技力も十分に備わっていたと思う。

タミーノや、ときにはパミーナを導く三人の少年たちも(もちろん女子学生が演じているので)可愛らしいし、それプラス一人ひとりに個性が出ていたし、夜の女王の侍女たちも、みんな恰幅がよくて、あの冒頭のタミーノを見て、惚れ込んでしまい、自分が・自分がといって取り合う場面でも、けっこう上手に演じていた。またモノスタトス役もちょっと声量が足りない感じがしたし、上背がもう少しあればよかったのにと思うが、役としてはうまかった。

そして夜の女王である。『魔笛』をやるには、プロの劇団ではないので、学生の中にこの役をやれる、あの高音域のコロラトゥーラを歌える学生がいないとできないのだが、彼女は見事にやってのけた。どんなことになるのだろうと、見ているほうがハラハラしていたのだが、堂々とした演技と歌唱力でなんなく乗り切った。見事というほかない。

タミーノ役はどちらかというと演技よりも歌唱力だが、声量もたっぷりとあって情感豊かに歌っていたし、なんといってもパパゲーノ役の学生は大学院生とはいえ、もうプロでも通用すると思うくらいの歌唱力+演技力をもっていた。

あっという間の三時間であった。また来年もいい公演を期待している。
モーツァルト:歌劇《魔笛》英国ロイヤル・オペラ2003 [DVD]
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ラモー『プラテ』

2012年02月10日 | 舞台芸術
ラモー『プラテ』(ジョイ・バレエ・スタジオ公演)

フランスのバロック・オペラを日本の主催者が公演するというのは本当に珍しい。以前、ウィリアム・クリスティー率いるレ・ザール・フロリサンが『遍歴騎士』を上演したが、あれはひどかった。今度はコメディー・ブッフォンというジャンルになる喜劇もので、非常に面白かった。

ルイ15世の王太子の結婚が行われた1745年に祝賀の一環として上演されたもので、浮気者のジュピテルが嫉妬深い妻のジュノンをなだめるために、沼の精の女王である醜いプラテに恋をして永遠の愛を誓うと思わせて気を引き、その現場にジュノンを立ちあわせ、じつはこんな滑稽なものを相手にしていたのだと分からせて、ジュノンの誤解を解くという話だが、醜い沼の精が最高神のジュピテルと相思相愛の仲になったり結婚したりするなどということがあるわけがない、身の程知らずの恋や野心は命取りになるぞ、という教訓を含んでいるとされる道化話をオペラにしたものである。

初演時には、後に世紀最大のテノール歌手と言われることになり、当時もすでに若手として頭角を表していたジェリオットがプラテを演じたし、最近の名演といえばポール・アグニューによるプラテが有名だ。今回は武井基治という人がなかなかの好演だった。表情や声も多彩で、出ずっぱりの役にもかかわらず、笑いの壺もおさえていた。

『プラテ』のもう一つの見所はフォリーである。これはイタリア・オペラのパロディで、当時のフランスではアリエットと呼ばれていたダ・カーポ・アリアのような歌を歌う。旋律感が豊かで、ヴォカリーズもふんだんにあり、当時のフランス・オペラはどこからエールが始まって、どこで終わったのかが分からないような、レシタティフとエールの区別がはっきりしないことが特徴であったので、こうしたリズムにあふれ、旋律のはっきりした歌は浮き上がってしまうのだが、それを逆手にとって、この作品の規則逸脱性を見せつけるためのものであった。ところが、現代ではそうした歌は当たり前になっているので、せっかくフランスで評価されている唐沢まゆ子という人を充てたのだが、そうした初演当時に持っていた特異性があまり見えてこない結果になってしまったのは残念だ。

その他いろいろ見所や問題はあった(たとえば、ジュノン役の堀万里絵が好演、ダンスがバロックダンスではなかった)が、珍しいフランスのバロック・オペラをここまで好演したことに拍手喝采したい。
ラモー 歌劇《プラテー》ロラン・ペリー/ミンコフスキ (パリ・オペラ座) [DVD]
クリエーター情報なし
TDKコア

ポール・アグニューがプラテを演じたこのDVDは秀逸。

「蝶々夫人は悲劇か?」

2011年11月25日 | 舞台芸術
NHKBS「蝶々夫人は悲劇か?」

23日のBSで岡村喬生さんが夏にイタリアでおこなった改訂版の「蝶々夫人」上演にいたる紆余曲折を放送していた。プッチーニが1904年にミラノ・スカラ座で初演した「蝶々夫人」には、日本の文化にたいする無理解が原因になっているおかしな部分がたくさんあるということはよく知られている。その極めつけが、ピンカートンと結婚するときに誠意を示すためにキリスト教に改宗した蝶々に、彼女の叔父である僧侶のボンゾーが「カミサルンダシーコ」と訳の分からない言葉を投げつけるところである。

岡村さんはこれを「天罰が下る」というように歌詞を換えたり、結婚式に参列した芸者たちに歌を歌いながら踊らせたりなどなど、色々な変更を加えたものをもって、夏のプッチーニ演劇祭に参加するために、日本でオーディションをして、練習して、イタリアに乗り込んだのだが、プッチーニの孫が勝手な変更は許されないと言い出して、ほとんど通常の形で上演されることになった。おまけにスズキ役の女性も野外上演に向かないということで、三回のうちの最後の上演だけになってしまったり、岡村さんとしては散々な結果になった一部始終をカメラで追っている。

私もこれを見ながら、日本の文化の実際に合わせて変更可能なところを変えて、できるだけ真実に近いバージョンを創り上げようとしてきた岡村さんの無念の思いに共感した。たしかにプッチーニの孫が言うところの、あらゆる作品は誤解の上に成り立っているのであって、それを全部修正することは不可能であり、そういうものとして後世に伝えるしかないということも分からぬでもないなと思いながら番組を見ていた。だが、後になって調べてみると、1904年の初演では散々な結果に終わり、その後も何度か修正を加えてパリ版が一般的に使われるものだが、その後もプッチーニ以外の人間が勝手に修正を加えたものが上演されてきたのだということを知った。そうであるのならば、日本人が主人公で日本を舞台にしたオペラであるのだから、音楽を変えようというわけではなし、せめても訳のわからない歌詞をまともなものに変えることくらい許されてしかるべきだろうと思う。

いつも書くことだが、モーツァルトでさえも、繰り返しが多くて退屈になる。時間も長い。繰り返しは端折ってもっとスピーディに展開するようにすれば、上演時間も2時間程度に収まって現代人の時間感覚にマッチしたものになるはずだ。私はそういうことをしてもいいと思う。そういう改変をすることで古典と言われるものが現代に蘇るはずであり、同時に元の形の意味もまた問い直されるのだという気がする。いくらモーツァルトだからといって、金科玉条のように扱っていては、腐れてしまう。

以前見た「蝶々夫人」についてはこちら

プッチーニ『蝶々夫人』(第12回河内長野マイタウンオペラ)
新国際版『蝶々夫人』
プッチーニ『蝶々夫人』(大阪音楽大学第13回コンサート・オペラ)

プッチーニ:歌劇《蝶々夫人》アレーナ・ディ・ヴェローナ2004年 [DVD]
クリエーター情報なし
日本コロムビア