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読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

『そして、あなたに逢えた』

2011年11月20日 | 舞台芸術
劇団大阪公演『そして、あなたに逢えた』(近石綏子作)

1981年に初演された『楽園終着駅』とその姉妹作みたいな『そして、あなたに逢えた』は、まだ老人介護問題や認知症の問題がこんにちほど普遍的な社会問題となっていない時期に書かれ上演されたものらしい。私が劇団大阪の『楽園終着駅』を見たのは1990年頃だったが、その頃だってまだそんなに問題になっていなかったような気がする。

私は毎朝ジョギングをしているのでよく分かるのだが、ジョギングではなくてウォーキングをしている老人たちをあちこちで見かけるようになったのは、ここ10年くらいのことだろう。

そして、30年経った今、劇団大阪が40周年の記念として上記の二作品を連続上演した。私は上さんと『そして、あなたに逢えた』のほうだけを見た。認知症老人の介護施設の様子を作品化したもので、とくに大きな事件も山場もない。「あなたに逢えた」というタイトルは、すべての認知症老人たちに言えることなのだろうが、取り立ててあげれば、売れない元歌手の川島律子が赤ちゃんの時に別れた娘が会いにやって来たこと、元病院長の平岡のもとへ長男がやってきたことくらいだろうか。それだって、いわゆる山場と大団円というような作りになっているわけではない。そもそもそんなものも必要ないと思えるような迫真の演技で見せる作品である。

たぶん30年前は役者たちも無理に老人役を作り上げていたのだろうが、今や素のままで、痴呆老人を演じられるようになった。

『40年のあゆみ』

2011年11月07日 | 舞台芸術
劇団大阪『40年のあゆみ』

私が毎年恒例のように観にいくのを楽しみにしている劇団大阪が40周年を迎え、その記念誌を出版したというので、知人の劇団員がもってきてくれた。

仕事をもちながら、演劇や音楽やその他の芸術活動をやっている団体が、40年も続くというのは、本当に珍しい話だと思う。よほど核になる団員がしっかりしていなければ、一つにまとまっていられるものではないし、後から入ってきた団員だって、演劇をやっていこうという気持ち一つで長続きするものではない。それでも劇団大阪は劇団メンバー表を見ると、創立メンバーが8人もいて、その半数が、現在も役者として出演しているのだから、もうすごいとしか言いようがない。

私は1986年の「教員室」を近鉄小劇場で見たのが初めてだったが、見たという印象だけで、あまり記憶がない。それから数年間は私自身が子育てに忙しかったせいで、観劇どころではなかったようで、空白があり、その後、名取さんや高津さんが保育所関係の知り合いということもあって、また観に行くようになった。40周年記念として再上演される「楽園終着駅」を見たのを皮切りに、1999年の「女殺し油地獄」(小石さんの演技は捨て身の感じで、ぶっちぎれていた)、2002年の「谷間の女たち」(主演の和田幸子さんの、後には引けない人間を演じた堂々たる演技はすごかった)。

その後、近鉄劇場が閉鎖されて、ほとんど劇団の所有する谷町劇場での上演となったが、これがこじんまりとしていて、目の前で演じるのを見ることができることもあり、私のなかではもうこれ以外にはないというくらい、楽しみにしている公演になっている。

私の個人的好みで言うと、「まほろば」がいい。舞台は長崎だが、もうそのテンポのいい女だけのやり取りは大阪のおばちゃんのノリで、これは大阪の役者でなければできないというような出来だった。その時の感想はこちら

またこの秋も観に行く予定だ。

劇団大阪『フォルモサ』

2011年06月27日 | 舞台芸術
劇団大阪『フォルモサ』(石原燃作、第69回公演)

日曜日の午後、灼熱の中を劇団大阪の定期公演を見に行ってきた。上さんが一緒に行くというので、我慢をして行ったが、たぶん一人だったら、昼飯を食べた後の最高に眠い時間帯だし、真夏が来たような灼熱の街並みを見たら、行く気が失せていただろう。しかしそれなりのものはあった。

時は明治から大正に移り変わろうかという時代。日本帝国主義の最初の外地である台湾に住む原住民たちを順化させようとする台湾総督府の政策のもと、原住民の調査や地理的測量を指示された学者が、「文明人」対「未開人」という図式に疑問をいだき、ついには順化政策・暴力的囲い込み政策を批判するにいたった次第を舞台化したもの。

作中では明治政府の順化政策に一役買っている人類学者で東京帝国大学の教授である森尾とか台湾総督府の調査課課長である鶴丸とかとこの人類学者である百木とのやり取りに出てくる言葉が、なんだかどこかで聞いたようような言葉ばかりという印象をもった。いったいどこで耳にした、あるいは目にしたセリフだろう?

「未開人を文明化してやるほうが、彼らにとっても幸せなのだ」とか、「彼らにとっては盗みは死罪に値する重罪だから、彼らがそんなことをするはずはない」とか。

なんだかニューギニアの原住民を発見したヨーロッパ人や、アンデスの原住民を虐殺したスペイン人や、アメリカの原住民を怖れたアメリカ人たちの使った言説と同じではないだろうか。日本人の侵略といえば、朝鮮半島でのことしばかりが注目されるが、じつは台湾の原住民に対してしたことも、ひどいことだったのだと思い知らされる。彼らもじつは少なくとも14の部族があり、順化させられた彼らの総称が高砂族と呼ばれたということらしい。

作品としては、フランスのレヴィ=ストロースにも比較できるような(うーん、やっぱ違うか)稀有な人類学者と妻の関係というのがもう一つ見えてこない、というか、作品の中で生きていないというか。でも見方を変えると、この百木って人類学者は、原住民に肩入れしすぎるあまりに、自分の周囲にいる者たちをみんな彼らの敵対者としてしか見なくなっており、それは妻や知的障害のある息子の夏夫にたいしても同じだから、あんな暴言を妻に吐いたのだろう。好きで結婚したのではなくて、結婚したほうが台湾に派遣してもらいやすいから、と。

あんな暴言を芝居の盛り上がったあたりに置いているということは、作者は、一見純粋に原住民のことだけを考えているように見え、それゆえに弱き者たち(女性、障害者)にたいしても愛情を注げる人という百木の「一般」像、というか、この手の人が常識的に備えているのではないかと思ってしまう優しいまなざしを、百木から剥ぎとってしまうことを狙っていたのだと考えるほかない。

つまり作者は、百木も森尾や鶴丸が代表する当時の一般的日本人と同根だということを明るみにしようとしたというふうに考えるほかないのだが、しかし最後には日本に強制送還される船から飛び降りさせたということは・・・うーんなんだか分からない。

やっぱりもっと単純に、百木(文明批判者)vs一般の日本人という図式で考えればいいのかもしれない。それがストレートに伝わってくるメッセージだと思うのだが。

ヴェルディ『椿姫』

2011年06月19日 | 舞台芸術
ヴェルディ『椿姫』(第13回河内長野マイタウンオペラ)

恒例になっている河内長野市民オペラでヴェルディの『椿姫』を観てきた。有名なオペラらしくて、うちの上さんでさえも、ずいぶん昔に観たことがあるだか、聞いたことがあるだかと言うくらいだが、私はまったく知らないものなので、あえて下調べもしないで、予備知識なしに観ることにした。

土・日公演の土曜日のほうをいつも観るのだが(日曜日に出かけたくないという簡単な理由から)、いつも同じ出演者が何人もいるので、そうすると彼らのクセのような仕草や歌い方が、言い方が悪けど、鼻につくようになってきたので、目新しいところで、日曜日のほうを選んだ。すでに聞いたことがある歌手といえば、田中勉さんとか、福嶋勲さんあたりだけ。この二人のうち、とくに田中勉さんはいい声をしているし、観客の受けも良く、最後の拍手は、主演を超えていたように思う。ずいぶん人気のある歌い手さんだ。主役のアルフレード役の中川正崇さんは、いかにも世間知らずで純粋な若者を地で行くような役を演じていたが、となりのお年寄りが、始まる前に「もう少し背が高かったらいうことないのにねぇ」と話しているのが、聞こえたが、出てきたところを見ると、そのとおり。まぁ気にしないでやってほしい。

さて本題に入ると、1853年に初演されたというこの作品は、パリが舞台であるのに、イタリア語で歌うという、ちょっと変な感じのするオペラだが、さすがに第一幕の華やかなパーティーから始まって、一転してヴィオレッタとアルフレードだけの差し向かいの場面に変わるとか、第二幕も二人が住むパリ郊外の静かな佇まいから、再度パリの豪華な屋敷でのパーティーに変わり、最後はヴィオレッタが死を迎える暗い室内という、舞台転換の鮮やかさといい、アリアでも締めるところは締めて、フルオーケストラの大音響とともに終わるところといい、いかにもロマン主義的オペラの正道を行くというところが、一般受けをするのだろうなと思いながら聞いた。この意味では、幕間に20分間の休憩を入れずに、出ずっぱりでやってほしかった。そのほうが上に書いたようなメリハリが効いていいと思う。

初めてアンケートを書いた。そこに希望する作品を書く欄があったので、ずばりグルックの『オーリドのイフィジェニー』を希望した。しかも配役まで書いた。アガメムノンには田中勉、クリテムネストルには田中有輝子、イフィジェニーには?、アシルには福嶋勲っていうのはどうでしょうか?

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『オルフェオとエウリディーチェ』

2011年06月11日 | 舞台芸術
いずみホール・オペラ『オルフェオとエウリディーチェ』(グルック作曲)

18世紀後半のグルックの改革オペラ第一作である『オルフェオとエウリディーチェ』を観てきた。フルオーケストラによる演奏ではなくて、1762年のウィーン版に基づいてピアノと小編成アンサンブル用に編曲されており、またバレなどもない、じつにシンプルな上演だった。

正面にパイプオルガンがあり、そのための構図になっているし、その両翼には座席もあるといういずみホールの特性を考慮に入れた演出がなされていたようで、地獄へ入るのは、その両翼のドアを開けると観客からは見えないところに照明器具がおいてあり、そこから強烈な光が溢れ出て、そのなかに入っていく、あるいはそこから出てくるというような仕掛けになっていた。また舞台中央にピアノがあり、その右側には奥に合唱隊の8人、その手前に9人の器楽奏者たちがおり、したがって舞台半分だけが使える状態になっている。それを上下二段にして奥行きを持たせている。

私はA席で5000円だったので、最初はえらい安いなと思っていたのだが、チラシを良く見たら、こういう変わった上演形式だったので、ピアノ伴奏って練習じゃあるまいしと、少々がっかりしていたのだが、まったく違和感がなく、編曲もじつに見事になされていた。ピアノを弾いていた河原という人もこの筋ではけっこう有名な人らしいし、それにその硬質な音が気に入った。年間ステージは100を超えるという人らしく、見ていて聞いていてまったく問題なかった。

オルフェオ、エウリディーチェ、アモーレの三人もハマリ役といっていいくらいに歌唱力もあり演技力もありで、言うことなかった。本来はバレエが入るので、その間はオルフェオは観客の視線からも歌からも少し解放されるのだが、そのバレエがないために、ずっと観客の視線を引き受けざるを得ず、その分演技力が要求されるのだが、少々オーバーアクション気味ではあったが、あのようなシンプルな道具立てであったので、けっして場違いな感じはなく、妻を失ったオルフェオの悲しみを全身で表現していた。それがどうしても妻の顔を見ざるをえないという状況に追い詰められていくオルフェオの心理状態へとつながっていく。

フランス語版でもやって欲しいが、こちらではバレエは省略できないだろうから、5000円じゃ見れないでしょうね。

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『アイーダ』

2011年03月28日 | 舞台芸術
伊丹市民オペラ『アイーダ』

ヴェルディの『アイーダ』を観ようと、伊丹まで出かけた。伊丹というと、大阪空港の街というイメージがあって、もう四六時中うるさいのかと思ったが、ぜんぜんうるさくなかった。なんだか町おこしのためにいろいろやっている街のようで好感がもてた。それにJRを使うと家を出てから1時間10分ほどでJR伊丹駅に着く。意外と大阪駅から簡単にいける街だった。

オペラのほうは、指揮が加藤完ニ、演出が桂直久というコンビで、ずっとやってきているみたい。今回が第25回になるそうだが、そのほとんどをこのコンピでやっている。演奏はプロとアマ混在の伊丹シティフィルハーモニー。

ヴェルディの『アイーダ』と言えばこんな有名なオペラもないが、私はCDを聞いたこともなければ、DVDを見たことがなかった。ファラオ時代のエジプトとエチオピア、互いに憎しみ合っている二つの国の王女と将軍の男女の悲恋を描くという、いわゆるいわゆるロメオとジュリエット型の恋愛ものである。エチオピア国の王女アイーダは戦で捉えられ、エジプトの王女アムネリスの侍女をさせられている。王女アムネリスはラメダスを愛しているが、ラメダスは敵国の王女アイーダを愛している。再び両国のあいだで戦闘が勃発し、ラメダスが総指揮官に選ばれて、エチオピア軍との戦いに出発する。

最初からアイーダが敵国の将軍ラメダスを愛しており、王女アムネリスは二人が愛し合っているのではないかと疑っている、ということになっている。そのあたりの秘められた思いを観客に知らせるために、第一幕では頻繁にいわゆる内面のセリフが歌われるが、これって野暮ったいと思う。そんなこと筋の展開のなかで示すようにしろよと言いたい。内面を大声だして人の前で、しかも聞かれたくない相手の前で歌うっておかしくないか!

そんなこんなに始まって、なんともつまらないオペラだった。そもそもロメオとジュリエット型といっても『ロメオとジュリエット』は二人が愛しあうようになることに両家の対立はまったく関係ない。両家の対立は二人には関わりないことだから、二人が愛しあうことにはなんら障害とならない。これを障害としているのは、周りの人間たちだけなのだから、周りの人間たちが二人の悲劇を作り出している。しかし『アイーダ』の場合、敵国の王女をラメダスが愛するのはいいとしても、アイーダのほうがラメダスを愛するにはそれなりの強力な理由がいるはずだ。多くの民を殺され、国王父親さえも殺されたと思っていたのだから。そんな憎い敵国の将軍を、しかも自分が仕える王女アムネリスが愛する男を愛するようになるには必然性がなければ、話が成り立たないはずなのに、もう死んでもいいというくらいに愛しているという前提で話が進行するので、物語に説得力がない。アイーダという主人公の存在感がじつに希薄なのだ。ラメダスを愛し、可愛さ余って憎さ百倍になるアムネリスのほうがよほど存在感がある。

しかもそういういい加減な前提で話が始まっているから、ラメダスを最後に裏切っって、エチオピア進行の通り道を言わせてしまう場面など、アイーダという女はひどい女だと観客は思ってしまう。純愛と正反対の愛になってしまう。そして最後には死を宣告されて地下牢に入れられたラメダスのところへアイーダが来ているのもなんだか不自然な感じがするのだ。つまり台本のできがあまりにも悪すぎる。

音楽の方はどうか、音楽の面でもアイーダはまったく面白みがない。繰り返しになるが、よほどアムネリスのほうが音楽と歌詞の内容がぴったりして深みがある。今回これを演じた田中友輝子さんといえば、去年の河内長野市民オペラの『蝶々夫人』でスズキをやっていた人だ。この人は役の意味をよく考えて歌う人のようで、今回も好演していた。他方、アイーダのほうは音楽そのものも面白みがないだけでなく、今回の役者はなんか歌も演技も下手だし、アイーダの感情表現がまったくなっていない。まるで能面のようで、誰かに似ているなーとずっと気になりながら見ていたら気づいた。セントくんににているのだ。まったく!!

よかったこと。バレエがじつによかった。音楽だけ聞いているときっと退屈ですっ飛ばしたい箇所だろうが、目で見ると、目を楽しませてくれる。化粧のせいだろうけど、本当にエキゾティックに見えるダンサーもいた。

もう一つは、第2幕での「凱旋行進曲」の旋律は単独でも有名らしいが、これを「アイーダトランペット」と言うらしいが、巻型ではなくてまっすぐな昔のままのトランペットで演奏していたのも、楽しかった。

演出に凝るとこういうことになるのだろうが、幕間のたびに15分間の休憩は、悲劇の密度という点では、退屈でしょうがない。かといって、オペラ専用の劇場ではないから、幕を下ろして舞台美術の付け替えをせざるを得ないから、15分の幕間はいることになる。しかしせめて2幕と3幕のあいだだけにすれば3時間で済むのに。それでも3時間か。3時間は長すぎる。

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『ドン・ジョヴァンニ』

2011年02月21日 | 舞台芸術
モーツァルト『ドン・ジョヴァンニ』(第22回大阪音楽大学学生オペラ)

私のなかでは恒例になった年度末の大阪音大学生オペラ公演を見に行った。今年はモーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』。これまで、河内長野市民オペラなどで2回観ているが、2回目は演出者が同じであったために、最後の石像の騎士長が出てくる場面がまったく同じで少々興が覚めたことがあったことから、あまり期待はしていなかった。

しかし今回は、中村敬一という人の演出だったが、私には素晴らしいものに思えた。それまでは薄暗い闇のなかで話が進行していた(なんせ夜の墓地で騎士長の石像と出会うという設定なので)のが、一転して明るくきらびやかなドン・ジョヴァンニの広間での食事風景になる。後ろは紫色のカーテン、舞台中央にはテーブル、そこに花瓶やろうそくが置かれ、左手には演奏者のグループ、右手には丸テーブルという配列になっている。

ドン・ジョヴァンニが音楽を聞きながら食事をしているときに、ドンナ・エルヴィーラがやってきて、最後にもう一度心を入れなおしてくれと懇願するが、それを無礼なやり方で追い払ってしまうと、そこへ石像がドンドンとドアを叩く音、そして後ろのカーテンが両側に開き、石像の騎士長が登場すると同時に、テーブルが中央で二つに割れて、さっと両袖に引っ込められる(なんかゴムひもみたいなものでさっと引っ張られた)。騎士長が少しだけまえに進みでて、「ドン・ジョヴァンニ」と歌い始める。そして、「悔い改めよ」「イヤだ」とドン・ジョヴァンニが拒否をすると、異形の者たち(黒い服に白い仮面をかぶっている)が何人も出てきて、ドン・ジョヴァンニに取り付き、地獄に連れて行く、という演出だった。

それまでが少々退屈だったので、この場面で目が覚めた。退屈だったというのは、歌が下手という意味ではなくて(歌が少々下手な学生もいたが)、前にも書いたように、アリアが多すぎるし、そのアリアがほとんどダ・カーポ・アリアで、繰り返しがうざったい、しつこいので、時間の無駄という気がする。繰り返しをやめたら、2時間で終わるのに。3時間も観ているのは耐えられない。アリアもいわゆる退出のアリアというやつで、舞台から退場する前に、ひとくさり心情を歌うのだが、もう分かっているから歌わんでもいい、と言いたくなるアリアもいくつかある。どうにかならないものかな。

ドン・ジョヴァンニをやっていた学生は、見た目からしてもう、なんというか、堂々たるもので、主役を張るにはこれくらいの押し出しの強さが必要だろうと思わせるもので、よかった。レポレッロ役の学生も、これにたいして腰が低い付き人役を上手に演じていた。出色は、ゼルリーナ役の学生で、小柄で、きびきびして、声もいいし、申し分なかった。この学生なら、『フィガロ』のケルビーノあたりも上手に演じることができるのではないかと思う。

今年は序曲からオーケストラが少々気になった。管楽器の音がどうもいま一つで、出だしから大丈夫かいなと聞いているほうが心配になるようなできだった。

いずれにしても、また来年も楽しみだ。
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劇団大阪『まほろば』

2010年10月24日 | 舞台芸術
劇団大阪『まほろば』(作・蓬莱竜太、演出・熊本一)

恒例の秋の劇団大阪の公演を観てきた。今回は第53回岸田戯曲賞を受賞した作品とかで、出演者が全員女性というのも興味深い。

長崎のある農村のもう何代も続いている「由緒正しい名家」の藤木家には、東京でOLをやっている長女ミドリと、いったい誰が父親なのだか分からないような娘ユリアを生んだ次女のキョウコの二人娘で、跡継ぎになる男がいない。母親のヒロコはそれが気がかりでしかたがない。そこで長女のミドリを東京に働きに出ることに同意したのは東京で跡取りになる婿を見つけてくるという条件を飲んだからだ。

今年の秋祭りにミドリがへべれけになって戻ってきた。翌朝二日酔いのミドリに問い詰めると長いこと付き合っていた清水とは分かれた、そしてその理由は自分が生理がなくなったからだと言う。子どもを産めなくなったのだから跡継ぎは期待しないで欲しいというミドリに、妊娠しているじゃないかということになり、妊娠検査キットを買いに走り、検査してみると妊娠四ヶ月。ミドリがなんとか思い出すと、一番結婚したくない男の新田がどうも父親のよう。とにかくどんな男でもいいから妊娠を機に結婚しろと迫る母親のヒロコ。そんなところへ、次女キョウコの娘のユリアが働きにいっていたはずの東京から戻ってくる。彼女も妻子ある男性とのあいだに妊娠してしまったという話になり...

最初は、人間関係も状況設定も説明も何もなしに、現実のどっかの家庭の日常生活をそのまま切り取ってきたような形で始まり、訳がわからないと戸惑ったが、それも最初のうちだけで、テンポのよい台詞のやりとり、またそれを小気味のいい長崎弁で機関銃のようにやりとりする役者たちの、完全に役になりきったかのような、こなれた演技に、あっというまに終わった。

緩急の付け方も実にいい。ある場面は上に書いたようにすごいやり取りがあるかと思えば、ほとんど無言で身体演技だけで見せる場面をあったり。しかも谷町劇場という目と鼻の先で演技が見れる劇場であればこそ、なんだか自分も登場人物の一人のような気がしてきて、ちょっと突っ込みを入れてみたくなるようなそういう芝居だった。そう、どこか遠くで起きている他人事ではなくて、自分の身内、あるいは知り合いのことみたいな、そんな芝居だった。

ミドリの多少オーバーワーク気味の演技が見るものをどんどん引き込んでいくし、キョウコのいかにも自由奔放な、でも決して都会的な洗練されたものではなくて、田舎っぽい雰囲気が、母親ヒロコの堅物的な生き方ものの考え方を苛立たせるのを上手く出しているし、ユリアのいかにも現代娘風の雰囲気もいい。お祖母ちゃんのタマエも面白いが、なんといっても小学校5年生くらいの役のマオが最初は中学生くらいに見えていたが、だんだん本当に小学生のように見えてきたから驚き。

役者さんたちも楽しんで演じていた?というよりも、本当に素のままでやっていたような気がする。じつによくできた芝居だった。

『ラ・ボエーム』

2010年09月21日 | 舞台芸術
プッチーニ『ラ・ボエーム』(神戸文化ホール)

プッチーニの『ラ・ボエーム』を神戸文化ホールで観てきた。「19世紀初頭のパリ、詩人ロドルフォとお針子ミミの哀しくも美しい愛の物語」ということらしいのだが、はっきり言って、台本の出来も、プッチーニの音楽も、どうしてこれがプッチーニの代表作と言われるのか私にはさっぱり分からないくらい、つまらないものだった。

愛の物語って、第一幕で初めて出会ってすぐ「愛してます」はないだろうし、そもそ愛の物語がまったくない、第二幕はカフェ・モミュスでの、どちらかといえば売れない画家マルチェッロと彼の元恋人で、今は金持ちの愛人になっているムゼッタがよりを戻すという話が中心になっているし、第三幕はいったいどういう愛の展開があったのだろうか(私は思わず居眠りをしていてよく分からなかった)?第四幕ではミミとロドルフォが再会したのもつかの間永遠の別れとなるという話にいったいどういう展開があるといえるのか?

音楽は音楽で、感極まったら、例のお決まりのごとくに、ベルカントかなんか知らないが、声を張り上げてわめくだけで、もううんざり。そして極めつけは、プッチーニのせいでも歌手たちのせいでもないけれども、字幕っていうんだろうか舞台の両袖に訳が出てくるのだけど、その訳が最悪、意味不明、どういう意味なのか分からない日本語ででてくる。その奇妙奇天烈さをここに見せることができたらいいのだが、それができないので、一つだけ、クルティア・ラティン地区ってパリのどこかわかりますか? だれでもだいたい見当つくはずだよね。ああ、カルティエ・ラタンのことかって。それなら最初から「カルティエ・ラタン地区」って出せよ!

第三幕は町外れの税関近くの居酒屋が舞台で、この地区の名前がデンフェア、は?ダンフェールじゃないの?今はダンフェール=ロシュローって呼ばれている場所でしょ。パリが舞台になっているんだから、パリの地図をちょっと見ればQuartier-LatinとかDenfertをどう読むかくらいはすぐに分かることじゃないの?いくら台本がイタリア語だからっていったって、日本語に訳するときには日本人になじみのあるフランス語の音でカタカナにしてもらわないと意味ないでしょう。

地名の表記だけでもこんな調子だから、歌詞の訳にいたっては推して知るべし。この訳者、第二幕の舞台になっているカフェがどうしてモミュス(これもモォムゥスとかもう読みにくいカタカナで表記されていた)になっているかも、たぶん知らないで訳してるんだろうね。

そんなこんなで、わざわざ神戸くんだりまで出かけたのに、最悪だった。7000円かやせ!

『蝶々夫人』

2010年06月14日 | 舞台芸術
プッチーニ『蝶々夫人』(第12回河内長野マイタウンオペラ)

チラシに掲載されている音楽監督・指揮の牧村邦彦の解説によると、1904年にミラノ・スカラ座で初演されたが大失敗だったため、すぐに手直しをしてできたのがプレシア版と呼ばれるもので、これは大成功をしたそうだ。今日一般に上演されているのはロンドン上演などを重ねるうちに何度も改訂をして出来上がったパリ版だそうで、牧村によると「蝶々さんが歌うメロディのラインが今ひとつ盛り上がりに欠け」「これから婚礼を控えた娘が登場する華やかさ、輝きに欠ける」し「最終場面、自害目前で愛する子どもお別れをするときのメロディーもとても慎まし」いのだそうだ。さらに「万人が納得できる悲しい物語になるように、他人の手によって刺激的なところはカットされました」とある。今回河内長野で上演されたこの作品はそうした万人好みに手直しされる前の、初演直後のバージョンという。

ちょうど3月に大阪音大のカレッジオペラハウスでいわゆる通常版(そのときのブログはこちら)を観たばかりなので、どんなに違うんだろうと期待していたが、それほど極端に違いはなかったように思う。(と書いたが、3月に観たときのブログを読み直してみると、たしかにいろいろ違うところがある。)

たしかに第一部がかなり騒然としていた。親戚一同が丘の上にある新居までやってきて結婚式が行なわれたあと、叔父のボンゾがやってきて蝶々夫人が仏教を捨ててカトリックに改宗したという衝撃的な話をもたらし親戚一同が絶縁をして丘を降りていくという話が、このプレシア版では、親戚一同だけでなく芸者仲間たちまでやってくるし、結婚式のあとにはいわゆる宴会まで始まって、酒飲みのために一族からお調子者といわれている叔父のヤクシデが一席歌をうたったりなどという場面もある。だからそのたけなわの最中に叔父のボンゾがやってきて酒宴の席をけちらし、改宗するとは何事かと怒鳴って、座が混乱し、一同が縁を切るといって立ち去ってしまうのが、物語の急展開を示すものとして、うまくいっているように思ったのだが、初演当時はそうでもなかったのだろうか?

今回のを見ると通常版はずいぶんと寂しいと思える。ただ物語りの展開は通常版のほうがすっきりしているのかもしれない。それに音楽ももっと日本人になじみのメロディーが使ってあったり、当時の日本的イメージをかもし出すのに一役買った曲想がでてきたりと、いろいろ工夫がしてある。

ただ今日のを見ても、通常版を見ても納得いかないのは、第二幕の中間ぐらいにピンカートンが3年後に長崎に戻ってくる。その船に気づいた蝶々夫人が息子とスズキの三人で一晩待ち暮らすという場面が、登場人物たちはまったく不動のなか音楽だけで延々と10分くらいも何も物語が進行することなく続くというのは、いったい何なのだろうか?待ちくたびれた雰囲気を出すためなのだろうか? よく当時の人々が何も文句を言わなかったなと驚く。昨日はその間居眠りをしてしまった。ムムム、訳が分からない。

同じ作品を複数回見るとどうしても役者さんを比較してしまう。今回のピンカートン役はマッチョで背も高いし、ちょっと見ると洋風の顔をした人で、実に役にあっていた。パンフレットを見るとミラノ在住とある。シャープレスはちょっといただけない。この人は去年のリゴレット役の人で、どうもその雰囲気がいまだに抜けていない。というかああいった雰囲気をいつも持っている人のようで、ちょっとがっかり。

でもオペラは面白いわ。