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読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

「サウスバウンド」

2007年10月18日 | 映画
『サウスバウンド』(森田芳光監督、2007年)

映画が始まって、森田芳光監督というタイトルを見て、しまったと私は思った。彼の作品は古くは「家族ゲーム」や「それから」以降ずいぶんと遠ざかって、最近「模倣犯」を見たことがあるが、この監督は映画作りが下手だなと思っているからだ。話の山を作ることができない監督というのが私の印象。「家族ゲーム」や「それから」は物語りそのものがひっそりと暮らす夫婦(「それから」)とか心の中に鬱屈を秘めて成長していく少年(「家族ゲーム」)というものだったから、それでも良かったけれども、「模倣犯」はさっぱり。だいたい主役に中居くんを使うのが間違っている。

それでやっぱり盛り上がりも山場もない映画になっている。救いはトヨカワが期待に反して上手かったこと。桃子ちゃん役の女の子がかわいかったからいいか。

原作は上原一郎の型破りだけども純粋なな生き方を子どもの視線で見ることからくる面白さにある。本来子どものほうが純粋な視線をもっている。でも父親があまりに純粋すぎて、子どもの二郎君のほうが世間ずれしているのだ。でも前半を盛り上げる一番は二郎君と彼のグループが中学生のグループからカツ上げをくってにっちもさっちも行かなくなった状況を一気に打ち破るところにある。原作はそこを丹念に描いて、この子たちどうなるんだろうと読者に心配させるくらいの筆力があるのだが、映画では中途半端に終わっている。

後半は業者による上原家の家屋解体がメインになってしまった。それは仕方がないとして、なぜ一郎がそこまで反抗するのか、まるでツッパリの中学生みたいに、社会権力にたいして頑なに抵抗するのか、そこに行くまでの登場人物の心の動きを丁寧に追って欲しかったのだが、映画では無理なのだろうか?

それにしても沖縄の映像が良かった。でも現地の人たちの登場が少なかったのは残念だ。上原一郎も沖縄の言葉を使って欲しかったね。

「エディト・ピアフ」

2007年10月07日 | 映画
『エディト・ピアフ』(フランス、2007年)

昨日、仕事帰りにこの映画を見た。ピアフ。名前だけはよく知っているが、どんな生涯をすごしたのかあまり知らなかった。この映画はそのあたりの彼女の一生を丁寧になぞるようなものではないが、彼女の生活の喜怒哀楽がシャンソンに生き生きと歌われているのがよく分かる。

映画はクロノロジックに彼女の生涯をおっているのではなく、少女から街角で歌うようになった頃ヤクザかなんかに稼ぎを持っていかれながら歌っていた時代と、歌がなくなったら人生はおしまいという晩年とが同時に進行しつつ、あるときは年代を逆行していく。こうした構成がどの程度成功したのかは私にはよく分からない。しかし違和感がなかったから、そうした構成を含めた作品全体が良かったのだろう。

ピアフを演じるマリオン・コティヤールが熱演していた。ピアフの粗野さ(貧乏暮らしからくる礼儀作法をしらないため)やぎこちない歌い方、しわがれたところのある声(もちろん歌っているのは別の歌手らしいが)などじつにいい雰囲気を出していた。死の直前になると顔やあごにしわが寄っていく、そこまでメイクしているのは、さすがに映画のメイクアップもすごい進歩したものだと感心しながら見た。

マリオン・コティヤールといえば、「タクシー」の快男子ダニエルの恋人役でちょっと出ていたし、最近では「プロバンスの贈りもの」で主人公がプロバンスで知り合うフランス女の役をやっていたくらいでパッとした役者ではなかったが、これで一皮向けたね。これで一躍フランスのトップ女優に踊りでた。たいしたものだ。

昨日も今日もずっとLa vie en roseとか L'hymne d'amourを口ずさんでいる。

「酔いどれ詩人になるまえに」

2007年10月04日 | 映画
『酔いどれ詩人になるまえに』(アメリカ映画、2005年)

チャールズ・ブコウスキーという「世界中でカルト的人気を誇るアメリカ文学界の異端児」らしいが、私はまったく知らない作家の青春時代を映画化したもの。

アルコールにおぼれながらも毎週3作から4作の短編小説を書いて投稿しつづけ、やっと50歳くらいになって認められるようになった男の、若き日々を描いた映画ということなのだが、たぶんyahoo映画のレビューを見なかったら、映画を見に行くことはなかっただろう。

そして実際に見に行って、はやり面白くなかった。でもたぶんそれは見る前から予想していたことで、それでも見に行ったのは、火曜日は男性サービスデーということで1000円だったからということもあるけれど、Yahoo映画の月光の【sonata】さんという自称四流作家が書いた「とことん執念で作家となったダメ男の反骨」というレビューを読んだからだ。これがじつに面白い。全文をここに引用したいくらいだ。参考になったという人の数もダントツ。みんなこのレビューのほうが面白かったのではないだろうか。私もこんな面白い(映画を見に行こうと思わせる)レビューに出会っただけで、よしとしよう。

レビューはこちら

「プロヴァンスの贈りもの」

2007年09月05日 | 映画
「プロヴァンスの贈りもの」(2006年、アメリカ)

土日も働きまくりあくどい手法も使って辣腕トレーダーの地位を手にいれたロンドンに住むマックスが少年時代に一緒に住んでいたプロヴァンスの屋敷とぶどう園をもつヘンリーおじさんの死去の連絡を受けて、遺産売却のためにプロヴァンスに飛ぶが、留守中のごたごたから、結局は屋敷を売るのをやめ、仕事も辞めて、プロヴァンスに住むことになるという、お決まりの話といえば、お決まりのストーリー物である。

何を期待してこんな映画を見に行ったのだろう。やはりプロヴァンスの景色を堪能したかったのじゃないのかな。なんともいえない南仏の景色はやはり健在だ。ちょっと行くと小さな町ににぎわうレストランがあるなんていうのも、自然をたっぷり楽しみながら、食の満足や人恋しさの飢えも満たしてくれるところが、南仏のいいところだろうな。

最近なんかで読んだが、イギリス人はプロヴァンスに別荘を買うのが流行らしい。イギリスのどんよりした天候に比べたら、真っ青な空とブドウ畑に囲まれたプロヴァンスは天と地ほどに違うらしい。それにしたって金持ちでなければそんなことはできないわけで、インターネットビジネスで金持ちになった連中が南仏に週末を過ごしにくるということなんだろう。飛行機で飛べば2・3時間でいける距離だ。

プロヴァンス、プロヴァンスというけれど、日本にだって、こんなところがあるんじゃないのだろうか。わざわざ10数時間もかけてフランスくんだりまででかけなくっても、日本でもこうしたゆったりした生活と文明の利を享受できるところが。とはいってもエクサン=プロヴァンスのようなすばらしいところはやっぱり日本にはないか。

面白かったのは、マックスが初めてというか久しぶりにおじさんの屋敷に車で行くときのカーナビの音声。フランス人なら別にどうということもないだろうが、外国人から見ると、Vous avez depasse votre destination(目的地を行き過ぎました)とかVous etes arrive(到着しました)とかAllez(進みなさい)としつこく機械音声で言われるのは、なんともこっけいである。

「プリゾン・ブレイク」

2007年08月22日 | 映画
アメリカテレビドラマ「プリゾン・ブレイク」

きのう、ケーブルテレビJ-Comで面白いテレビドラマをやっていた。たまたま少し始まった後から見始めたのだが、あまりの面白さについつい数時間も見てしまった。

マイケルと兄は彼らが小学生の頃に両親を亡くしてしまい、それぞれ別々の親戚や養護施設に預けられ、苗字が変わってしまう。マイケルは大学を卒業して優秀な建築士になっていたが、兄のほうはきちんとした仕事についていない。

ある日、兄が知り合いから数万ドルの借金をちゃらにしてやる代わりに人殺しを依頼される。兄が指定された地下駐車場に行ってみると、副大統領の兄が車の中ですでに射殺されていたのだった。しかし彼が犯人として逮捕され、あっという間に死刑判決を言い渡される。マイケルは兄のことを聞き知り、面会を重ねた上、兄の犯行ではないことに確信すると、兄を救うには脱獄させるしかないと考え、自分も銀行強盗をやらかして、兄と同じ刑務所に入ることになる。ただしあらかじめ脱獄の準備を綿密に行い、刑務所の図面を自分の身体に入れ墨として掘り込んで入ってきたのだ。

他方、外では兄の恋人だった女性が兄のために独自に冤罪を証明しようとあれこれ動いているが、どうも今回の事件は政府の要人が裏にいるらしく、ことごとく失敗に終わる。

マイケルのほうは、刑務所にはたいてい新入りを痛めつけるボスのような手合いがいるものだが、やはりそいつに狙われる。ところがまた別の実力者が自分も脱獄したいと考え、マイケルに協力することになる。同室の男もいったんは脱獄の片棒を担ぐのはいやだと固辞していたが、外にいる彼の女が別の男と出来てしまったことを知ると一日でも早く出たがり、協力者になる。

「ショーシャンクの空の下」もそうだったように、こういう脱獄ものではたいてい主人公が刑務所長と仲良くなるものだが、マイケルの場合は所長のためにタージマハル廟のミニチュアを作ることで所長のお気に入りとなる。

脱獄のための穴を掘りもすすみ、今度は外に通じる最後の壁に穴を開けるというとき、囚人たちの暴動が起き、マイケルに気のある刑務所付の女医者(知事の娘)が凶暴化した囚人たちに襲われそうになる。またマイケルが兄を脱獄させるために刑務所に入ったことを知った真犯人たちはなんとかしてマイケルを刑務所から出そうとするのだが、これまでことごとく失敗してきた。そこで直接に兄を殺させようとする。ちょうどこの暴動にまぎれてその依頼を受けた囚人が兄を避難させるという口実に人気のないところに連れて行く。
というところで、今回の話は終わってしまった。せっかくいいところだったのに。それにしてもアメリカのテレビドラマはほんとうによく出来ている。

このドラマのサイトまでありました。日テレ「プリズン・ブレイク1」

「フリーダム・ライターズ」

2007年07月23日 | 映画
『フリーダム・ライターズ』(ヒラリー・スワンク・プロデュース作品、2007年)

1994年に起きたロサンゼルス暴動(白人警官による黒人へのいわれなき暴力に端を発した暴動)直後のロサンゼルスの高校、差別撤廃によって地域の黒人、ヒスパニック、アジア系の登録によって、優秀校だった高校が、一気に刑務所なみの暴力の支配する、日本で言うところの荒れた高校に赴任してきた国語教師のエリンは、授業が成り立たないのにびっくりする。高校1年生だというのに、生徒のちょっとした発言から暴力沙汰になり、教室からみんな飛び出してしまう。

彼らの多くは、人種間の対立に子どものときから浸っており、家庭も崩壊していたり、人種間対立によって食っているギャングは怖れつつも、目の前で多くの友や家族を殺された経験が、彼らの心を荒んだものにしているし、学力も低い。そうした彼らを多くの教師は、「いずれ学校に来なくなる」と放置してきた。

差別撤廃をしたこの地域の教育委員会の志に共感して赴任してきたエリンは最初は戸惑うが、彼らの気持ちに寄り添うようにして、徐々に共感を得ることになり、また彼らに過去のこと未来のこと経験したこと考えていることを書くように勧め、ノートを与える。そうして彼らは自分の置かれた状態を見つめ、エリンは彼らの来歴や家庭環境のすざまじさを知ることになる。

徐々に本を読み出した彼らにエリンは副業によって得たお金で「アンネの日記」を与え、それを彼らはむさぼるように読み、ついにはアンネを匿っていたヒースさんを呼んで話を聞くようになる。彼らの日記もきちんと読んできたヒースさんは彼らに「あなたたちこそ英雄よ」と(まぁ英雄という言葉の好きなアメリカ人ならではの言葉なのだが)いい、彼らも変化に対する、自分のこれまでを変えていくことに対する自身をもつようになる。そして外は戦場だけど「203教室」がマイ・ホームと生徒たちが言うようになる。

実話にもとづく映画というのは、これは実話なんだという作る側の思い入れというか、言い換えると事実に対する安心感が作りをいい加減にすることが多いので、映画としての論理を無視してしまうことになって、逆に真実味を失ってしまうことが多いので、注意が肝要なのだが、この作品はそのあたりの、生徒たちの変化というものにも十分注意を払っており、それはヒスパニックのエヴァの変化に一番象徴的に現れている。

教育、とりわけ学校教育の一番肝心な点は、知育よりも人間集団というものの形成にあると私は思う。知育は家庭教師でも親でもできる。しかし人間を集団として教育していく、人間相互のかかわりの中で自分を誇りに思い、他者の存在を認めるという教育は集団教育にしかできないことであり、これこそが現代社会にもっとも必要とされているにもかかわらず、もっともおざなりにされつつあるものだと思うのだ。いわゆる知育とか学力というものを形成するだけのことなら学校は必要ない。

たしかに一つ教室に詰め込んで一人の教師が多数の生徒を教えれば、経済的に合理的だろうが、それが学校の存在理由ではない。学校が真に存在しなければならないのは、集団的存在というその本質から一瞬でも逃れられない以上、集団のなかで真に幸福になるためには何をしなければならないか、なにをしてはいけないか、そういうことを身をもって体験し、身体で覚えるところが、学校というものだ。現代社会は、そういう一番根本的なところを見失ったために、公教育無用論のような主張をはびこらせてきたとも言える。

この映画はそういう学校教育の根本のところを問い直すためのものでもある。すばらしい。

「ゾディアック」

2007年06月20日 | 映画
『ゾディアック』(2006年、アメリカ映画)

昨日、「ゾディアック」を見に行った。Yahooによると「1969年、自らを“ゾディアック”と名乗る男による殺人が頻発し、ゾディアックは事件の詳細を書いた手紙を新聞社に送りつけてくる。手紙を受け取ったサンフランシスコ・クロニクル紙の記者ポール(ロバート・ダウニーJr)、同僚の風刺漫画家ロバート(ジェイク・ギレンホール)は事件に並々ならぬ関心を寄せるが……。」という解説。

はっきり言って、なんのためにとった映画なのかよく分からないし、事実を丹念に追っているのは分かるのだが、事実を丹念に追えばいいというもんではないということぐらい、ハリウッドの映画監督や脚本家だったら分かっているだろうに。あまりに事実を詳細に追っているので、私にはわけが分からない所だらけで、面白くもなんともなかった。たしかに上の解説にあるように、記者のポールとイラストレータのロバートがこの事件にのめりこみすぎて、人生を棒にふったというようなことは分かるが、それもロバートのほうだけで、ポールは映画を見ている限りではそうは見えなかった。

刑事のホースキーのほうは確かに無念だったろう。犯人と思われるリーに面会までして、彼がzodiacという時計をもっていることやそのほかの状況証拠までそろえても、結局は起訴できるだけの証拠(あの当時で言えば、筆跡鑑定とか指紋)がなかったのだから。

まだあの当時はプロファイリングというような手法もなかったのだろう。今なら、「ボーンコレクター」とか「「スパイダー」みたいに、専門家が登場してはらはらどきどきのサスペンス仕立てになっていたのだろうけど、なんのために作ったのかわからない映画になっている。アメリカ人には強烈な映画なのだろうか?

あまり宣伝もしていないし、パッとした内容でもないし、がらがらだろうと思っていたら、なんとけっこうな入りだった。チケット売り場に行列が。しかも私の後ろに並んでいたおばさんたちが、「あ、これこれ、ゾディアックっていうのよね」とか言っているので、「うそだろう」と思いながら、映画館に入ったら、3分の2は埋まっている。しかもおばさんだらけ。いったい何がおばさんたちを駆り立てたのか?なんか格安チケットでももらったのだろうか?こっちのほうが映画よりも不可解だった。

「素粒子」

2007年06月12日 | 映画
『素粒子』(オスカー・レーラー監督、2006年)

なんか最近ミシェル・ウエルベックの「素粒子」を読み返した直後にこの映画の広告を見たので、グッドタイミングだった。

原作と映画のよしあしの問題はいつでも映画化された作品について回る。たいていは原作を読んでいなかったほうが、素直に映画に入り込めて、映画に対する評価も高くなるし、そこから原作を読んでみようという気にもなるものだが、その逆はあまりない。つまり原作に高い評価を与えている場合には、映画は「ちょっとな」という印象に終わってしまうことがおおい。

この問題は原作が、この「素粒子」のようにセンセーショナルな話題を呼んだ作品だったりすると、よけいに映画にぶが悪くなるものだ。だって、原作をたくさんの人が読んだということは、それだけの数のイメージが出来上がっているということだからだ。そんなに多数のばらばらのイメージを映画が受け止められるわけがない。結局、みんなが好き勝手に作り上げたイメージを持って映画を見に行くから、映画は面白くなかったということになる。

だから原作があるといってもほとんど知られていないようなものなら映画に有利になる。「魔女の宅急便」だってそうだろう。まぁ両者の幸せなコアビタシオンが成り立ったのは、「ハリー・ポッター」くらいのものかな。あれだって、私は原作をまったく読んでいないので、なんとも言えないが、原作を読んでいた人たちはどう思ったのだろうね。

さてこの「素粒子」だが、原作をできるだけ尊重して作ろうという意欲が伝わってくる。そういう意味では丁寧に作ってある。できるだけ時代の雰囲気も出そうとしているし、内面も描こうとしている。そういう点では良心的な作品だといっていいと思う。(「だけど」とかって書いて、じつはそうじゃないとでも言いたいの?)

私は原作を読んでいなかった人の意見を聞いてみたいな。衝撃的な映画だろうか、時代の絶望感をあますところなく描き出している映画だろうか。ブルノのあの性に対する焦燥感を映画で描くのはなかなか難しいと思うのだが、案の定、映画では駆け足になりすぎていて、ブルノの絶望感がもう一つ伝わってこないように思う。他方ミシェル(映画ではミヒャエルとドイツ人風)のほうは高校生のころのミシェル役がなかなかハンサムで繊細な感じをよく出していた。ただこちらもたんに奥手だったというだけの描き方になってしまっている。

やはり二人がどういう人間に育っていったのかを幼少のころから描ききっている小説の重要な部分が、かなり駆け足で描かれているので、原作の印象とまったく別物の印象を映画に対して感じてしまう。

でも、原作以上に面白くしてくれるのは至難の業じゃないかと思うんだよね。

「恋しくて」

2007年05月01日 | 映画
『恋しくて』(中江裕司監督、2007年)

Beginという沖縄出身のバンドの結成から東京でビューまでを描いた映画だということに、最後になって気づいた。みんなそういう内容だと知ってみていたんだろうな。知らなかったのは、私だけか。きっと音楽が生活のなかに息づいている沖縄のことだから、若者たちのあいだでも音楽が日常的にあって、バンドという形をとったのかと思っていたけど、そうでもないみたい。

清良と加那子の父は奄美に音楽を探しに出かけて連絡が取れなくなった。それ以来、「インターリュード」というバーを経営して子どもを育ててきた母親のもとで長男の清良は加那子の同級生の栄順とまことを引き連れてバンドを組む。そして八重山のフェスティバルで優勝し東京でビューを準備する。ところが父を探しに奄美に出かけ、死んだ父の遺品の楽譜をもって返ってきた後、事故で死んでしまう。栄順とまことともう一人のバンドは最終選考に残るがオリジナル曲が必要といわれる。加那子が送ってくれた清良の父の残した曲を歌って三人はグランプリを取る。

それにしてもみんな演技が下手。若い子はほとんどが新人らしいので、当たり前というか、そういう素人っぽさを監督がわざと要求していたのかもしれない。エピソードの積み重ねで、時間の経過がはっきりしないので、あれ、いつの間にそんなにうまくなったのって感じで驚いてしまう。実際に成功したBeginというグループが存在したという事実に安住して、物語の必然的な展開というものを忘れてしまったのではないでしょうか?

ドラムセットやらギターアンプをもってトラクターでえらく遠くまで移動し、わざわざ電源なんかのありそうもない海辺で練習する必然性がまったくない。これなんか「青春デンデケデケデケ」のパクリなんだろうけど、あれにはあれなりの必然性があった。どうも作りが安易でいけないね。

中江って監督は「ナビィの恋」はすごく上手だったのに、一作ごとにだんだん下手になってくるみたい。

「バベル」

2007年04月28日 | 映画
『バベル』(2006年)

北アフリカのモロッコの荒涼とした土地(明らかにアフガニスタンとかイラン・イラクのテロリスト達が跳梁させる地域をイメージさせる)に住む貧しい一家の主が同じような羊飼いの主からライフルを買う。子供たちにそれをもたせて羊を襲うジャッカルをやっつけるためだ。試し打ちしているうちに、弟のほうが打った弾が通りかかった欧米人たちのツアーバスにあたり、ケイト・ブランシェットの肩を打ち抜いてしまう。通訳の若者が自分の村にバスを誘導して治療にあたらせるとともに救急車を呼ぶがなかなか来ない。そのあいだにバスに乗っていた欧米の旅行者たちが怒り出し、ブラッド・ピットとけんかになる。しかし彼らは立去ってしまう。やっと赤十字のヘリがやってきてケイトを大きな町の病院に運び、緊急手術が施され、一命を取り留める。

ケイトが病院に収容されて多少とも落ちつたブラッドは子どもたちのいるアメリカの自宅に電話する。その日は代わりのベビーシッターが来るはずだったのにこれなくなる。アメリアはその日に息子の結婚式がメキシコで行われるので出席すると告げていたのだ。結局代わりが見つからず、ブラッドに電話で押し切られる。アメリアは仕方なくブラッドの子どもたちを連れてメキシコの結婚式に出かける。アメリアの甥が車で連れて行ってくれるのだが、子供たちは何も知らない。結婚式も終わりその日のうちに帰ってくるために飲酒運転の甥の車にのって深夜の国境を越えようとするが、白人の子どもを乗せているために怪しまれ、尋問される。甥は警備員を振り切りアメリカ側に入るが、パトカーが追ってきたので、アメリアと子供たちを下ろして、行ってしまう。翌朝、荒涼とした平原に残された三人。アメリアは救助してくれる車を探しに出かけるが、警察に連行されて戻ってみると、二人の子どもたちがいない。やっと見つかるが、アメリアは不法就労を咎められ強制送還されることに。いくら事情を話しても理解してもらえない。

東京の見晴らしのいい高層マンションに住む美保は聾唖者。ただそれだけでなく、他人とのコミュニケーションが取れないことに苛立つ。すぐ喧嘩腰の物言いになる。性によってコミュニケーションを取ろうとするが、父親のことを話したいと呼び寄せた刑事にも拒否され、絶望的になる。

この映画の主題はなんなのだろうかと考える。コミュニケーションの不可能性?菊地凛子ふんする聾唖の美保を見ている限りでは、そうなのかなと思う。人を見かけで判断する人たち、そしてそれが裏切られたときに怪物でも見るように態度を変える人たち、コミュニケーションによってそうしたずれを乗り越えようとする努力は存在しないことへの苛立ち。何のために言葉があるのか?というのが凛子の心の叫びだろう。

だが言語が違えばなにも理解されない。なぜ何百何千もの言語があって、相互の意思疎通を不可能にしているのか?言語は何のためにあるのかという苛立ちがブラッドの叫びだろう。なんとも絶望感漂う映画だ。いまの世界情勢を反映していると言ってもいい。