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読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

『憂い顔の「星の王子さま」』

2017年06月02日 | 評論
加藤晴久『憂い顔の「星の王子さま」』(書肆心水、2007年)

サン=テグジュペリの『星の王子さま』は2005年に独占的出版権が切れて、それまで岩波書店の内藤濯訳だけだったのが、続々と翻訳本が出版された。この時点で13本もあったという。内藤濯訳の誤訳を中心に、これらの後継翻訳本のすべての誤訳を検討して、書いたのが、この本だということだ。

私も、少し前に加藤恭子の『星の王子さまをフランス語で読む』を読んだのがきっかけで、『星の王子さま』を少しずつ読んで、自分なりの感想を書いたりしたことがあったが、この時に指摘した、加藤恭子の説明の間違いが、当たり前のことだが、この本でも136~140ページで指摘されている。

上の本については、こちら
私自身による読みの試みについては、(1)(2)(3)(4)

ただ、だれがこのreflexionsの主なのかという問題は、やはり難しいようだ。前後の関係から星の王子さまであると書いているが、ではなぜきちんと所有形容詞を明記しなかったのかと問われば、実際にreflexionsの前に所有形容詞を明記している場合もいくつかあり、理由を説明することは難しいという。

私はフランス語で読むのを途中でやめてしまったが、昨日知り合いのフランス語の先生に話してみたところ、この先生も授業で『星の王子さま』をフランス語で読み通したが、解釈が難しいところがたくさんあったと言っていた。

自信があるのなら自分で翻訳を出すのもいいが、自信のないところがあるのなら、翻訳本など出すべきではない。どう見ても、そういうことを考えもしないで分からないところは「意訳」すればいいやみたいな調子で出している本が多いというのが、この著者の批判である。

『まわり舞台の上で荒木一郎』

2017年05月31日 | 評論
『まわり舞台の上で荒木一郎』(文遊社、2016年)

私にとって荒木一郎といえば何と言ってもシンガー・ソングライターのはしりだった『空に星があるように』(下にyoutubeの動画を張ってある)という名曲を歌った歌手であり、少女淫行事件で捕まって(これは無罪放免になった)、母親の荒木道子という、いかにも良妻賢母を絵に描いたような女優さんが言った「本当はいい子なんです」という言葉として残っているばかりだった。

サングラスの風体といい、ただのマザコンというイメージしかもっていなかったのだが、この本を読むと、これがやはりテレビの作り出したイメージだったのだなということがよく分かる。

あまりいいイメージを持っていなかったのにどうしてこんな本を、たまたま新聞の一面下の広告欄でたまたま見たということで、読んでみたのかと言えば、やはり『空に星があるように』という歌の良さに惹かれたというしかない。

初っ端から驚かされた。母親は女優だった、つまり専業主婦ではなかったので、小学生の頃から家にいなかった。しかも小学校は青学の付属に通っていたので、近所の小学校に通っている子どもたちと接点がない、つまり友達が一人もいなかった。ふつうならそこで家で一人遊びをするだろうが、荒木少年は、どうやったら友達ができるかあれこれ考えて、試行錯誤をして友達を作ったという。

しかも女の子たちを引っ張ってくると、それにつられて男の子たちもやって来るということが分かった。女の子は生まれながらにしてストリップが好きだ、つまり自分の身体を見せることに本能的な喜びを持っているなどという、S…あたりが言いそうなことを、小学生にしてすでに学び取っていたというから恐るべし。

他人の心を読む能力が培われ、人を喜ばせる、人の心をつかむにはどうしたらいいか、どんな見せ方をしたらいいかということを学んでいったのがこの頃のようだ。それが役者をやるようになって、ドラマや映画の監督よりも演出が上手く、自分で書割をしたり、台詞を書いたりするようになって、ドラマの監督から、どうやったらできるのか、どこで演出法を学んだのか教えてくれと懇願されたという。

高校生の頃にはジャズにも入れ込んでいた。スウィング・ジャズが趣味ですなんていうのはたんに読書が趣味ですと言っているようなもので、馬鹿みたいだから、モダンジャズが趣味ですと言いたい。でも何曲も聞いてもすきになれない。気分が悪くなるだけだったが、我慢して何曲も聴き込んだ。これが後年歌謡曲のリズムと違うジャズふうのリズムをもった荒木独自の音楽になっていったという。

そして淫行事件のあと芸能界から干されていた頃に桃井かおりの付き人をしていた頃の話は、面白かった。まさにそれまで彼の生き方が桃井かおりという、普通の人には捉えきれない独特のイメージをもった女優を操ることを可能にしたと言っていい。

なんか30才までに、いや25才くらいまでに、普通の人の一生分の仕事をしたような印象を受けた。その意味で、淫行事件で芸能界を干されて、忸怩たる思いで生きていたのかなと思っていが、決してそんなことはなかったということが分かってよかった。別に荒木一郎のファンというわけではないけどね。

アマゾンの評価がほとんど星5つというのも驚いた。レビュアーのほとんどが私のようなジジイばかりのようだけど。

空に星があるように 荒木一郎(’66)


夜明けのマイウェイ PAL【「ちょっとマイウェイ」主題歌】
年代から考えてリアルタイムにこのドラマを見たことは一度もないから、この曲も聞いたことがないはずなのに、この懐かしい感じはなんだろう。荒木一郎の音楽っていいね。


ベンチャーズのパクリかと思うような、ノリの良い曲もある。
いとしのマックス 荒木一郎('67)

『「レ・ミゼラブル」を読む』

2017年05月17日 | 評論
西永良成『「レ・ミゼラブル」を読む』(岩波新書、2017年)

私は小学校2年生の時に担任の先生から『ああ無情』という子供向けの本をもらったことがある。なぜ私だけにくれたのか、分からない。祖母が担任に付け届けでもしたお礼だったのだろうか?

それに小学2年生に読めると思ったのだろうか。アマゾンで調べてみたら、いまでも「こども世界名作童話全集」とか「少年少女世界名作の森」といった子供向けのシリーズがあるようだから、昔もそういうものがあったのだろう。ただ読んだという記憶はない。

そしてこの本の西永良成といえば、『評伝アルベール・カミュ』で、新しい仮説を提示して30才くらいで一躍この世界で著名な研究者となり、卒論でカミュを扱った私にとって憧れの研究者だったのだが、だがいつの間にかカミュ研究から離れて、ミラン・クンデラ研究に移り、翻訳が仕事かと思われるほどあれこれと翻訳を出している人だ。

そんなこんなで、この本を手にとってみたのだが、500ページの文庫本が5分冊もあるとか、何十ページもの哲学的脱線があるとか、これを省略したらこの小説の醍醐味がなくなるだとか、登場人物の数、物語の展開の複雑さなどという話を読んで、もう読む気が失せた。学生時代には、ドストエフスキーとかトルストイとかやたらと長い小説を読むのがまったく苦にならなかったが、最近は長いものはもう気力の体力もついていかない。残念ですけど。

『杉原千畝 情報に賭けた外交官』

2017年03月29日 | 評論
白石仁章『杉原千畝 情報に賭けた外交官』(新潮文庫、2015年9

ユダヤ人を救ったヴィザを発給して、たくさんのユダヤ人を助けたことで、テレビでもときどき放送されるので、よく知られるようになった杉原千畝の外交官活動を、外務省の資料を駆使して、調査し、優れたインテリジェンス・オフィサーとしての杉原千畝像を示した本ということらしい。

一般的に知られている程度のことしか私も知らないのだが、複数の外国語を習得し、白系ロシア人と結婚したことで、人間関係を作り、それを武器に、外交官として、重要な情報を掴んで、日本本国に送っていたこと、とくに独ソ不可侵条約の後、ソ連とドイツの戦争はありえないと思われていた、そして多くの大使級の外交官が、独ソの開戦はないと本国に報告していたが、杉原千畝だけが、開戦間近という報告をしていたという。

さらにユダヤ人を救ったヴィザ問題でも、できるだけ多くのユダヤ人を救えるように、本国からの指示を逆手に取ったような電報を打ったり、また自分が発給したヴィザをもった人々が日本に着いても、入国できなくなることがないようにするための方法を考え出していたという話も、興味深かった。

もちろん、最後の解説で手嶋龍一が書いているように、優秀なインテリジェンス・オフィサーになればなるほど、自分の手柄や情報源などはいっさい口にしないで、墓場まで持っていくことになると述べているように、最後の最後では、歯にものがはさまったような記述になっていることに、もどかしさを感じたが、それも仕方がないことなのだろう。

米子の行き帰りに読めた面白い内容だった。

『ロケット・ササキ』

2017年02月16日 | 評論
大西康之『ロケット・ササキ』(新潮社、2016年)

戦後の計算機メーカーを主導した伝説的なエンジニア(というよりもビジネスマン)の伝記みたいな本。

真空管から半導体に、さらにICからMCIへ、さらに現在のようなインテルのCPUのようなチップへと進化を遂げた計算機の頭脳部分に関わるビジネスマンとしてシャープを率いた佐々木正という人について書かれている。

その行動力の素早さと人間関係の豊富さが、日本人離れした人脈をこの人に与えたということや、計算機の進化をどんどん先読みしていくその大胆さ、そして一点突破の力が評価されている。

その結果、アメリカの先端技術部門のエンジニアやビジネスマンにすぐ話が通じるし、スティーブ・ジョブズも資金を提供してくれと言ってきたというようなことが書かれているが、本の表紙に書いてあるような「ジョブズが憧れた」というのは言い過ぎだろうと思う。

この本を読むと、日本の技術はアメリカなどで発明されたものを小さく、使いやすくするものであって、決して新しい発明する(独創的なものを発明する)能力ではないとよく言われるが、その通りだという感想を抱いてしまう。

たいしたこともない内容でちょっとがっかりした。

『哲学する子どもたち』

2017年02月08日 | 評論
中島さおり『哲学する子どもたち』(河出書房新社、2016年)

実際にパリ近郊でフランス人との間にできた子ども二人を育てた経験をもとにして、小学校から高校卒業(バカロレア受験)までのフランスの学校教育の姿を書いた本。

いちおう小学校からバカロレア受験まで順番に書かれているが、最初だけは総論的に、フランスの中等教育でいかに哲学が重視されているかを具体的に説明しているので、そのあたりからこのタイトルができたのだと思う。

すでに私の知っていることも多く書かれていたが、さすがに実際に子どもをフランスで育て、しかも自分もフランスの大学に留学してフランス文学を学んだ経験がある人なので、そうした知見も織り交ぜて、私が知らなかったこともたくさん書かれている。

バカロレアという高卒資格にして大学入学資格を認定するための国家試験を最終目標にして中学から高校の教育が作られているという話がここでも強調されているが、この著者も書いているように、試験のための勉強というと日本では小手先の勉強という意味になってしまうが、バカロレアがどんな学力を求めているか―つまり自分の頭で考えて、相手に自分の考えが伝わるように、論理的に思考を組み立てて表現するという学力―を考えるならば、決して小手先の勉強のようなものではないことが分かる。

こういう思考方法、論述方法の確立がすべての教科で求められるので、すべてのセクションに課される哲学という科目だけでなく、他の科目でもそうした方法を用いた論述試験になっていること、それとこの本ではあまり強調されていなかったが、同じことを口頭試験で発表することが最終目標だとすれば、それは自立した個人を形成するという国家の教育目的にかなったことだと思う。

この点で日本の教育はまったく的外れであるというか、ものを考えないが、言われたことは熱心にやるだけのスキルを持っている、いわば資本の側の要求に沿った人間、というよりもロボットのような労働者の養成に特化されていると言ってもいいだろう。

ただ信じられないようなシステムや教育方法が当たり前のように行われている部分もあり、この著者も書いているように大枠でのフランスの教育システムに日本の算数の教育方法のようないいところを折衷したら本当にいい教育システムができるのになと思う。

彼我の違いを知るだけでも日本の教育を相対化してみるにはいいことではないかと思う。

中学校で成績会議なるものがあり、そこに各クラスの生徒代表が出てきて、あれこれ口を挟むという、日本では信じられないようなシステムについては、こちらでも触れている。こちら

『原発大国フランスからの警告』

2017年01月30日 | 評論
山口昌子『原発大国フランスからの警告』(ワニブックス・PLUS新書、2012年)

フランスは58基の原発を有する世界第二の原発大国である。しかも全電力のなかで原発依存度は75%で、世界一の原発を有するアメリカよりも高い。

その理由の第一は自立/独立にある。つまり東西冷戦の最前線に置かれたフランスにとって、政治的軍事的に米ソと対等の発言力をもつ自立した国家となるためには核兵器を持つ以外に方法がなかった。

そして平地が多いにもかかわらず、取り立てて石油資源をもたないフランスが電力という国民生活・産業活動とにかくあらゆる人間活動に必須のエネルギーを外国に依存しないで確保するには原発以外になかった(少なくとも当時は)。

したがってフランスでは原子力は軍用も民用も同一の根を持っている。それで一度決めてしまえば大統領選挙などでもほとんど問題にならなかったという。

その後もチェルノブイリ事故やアメリカのスリーマイル事故があっても、多くの国民が支持し続けた、あるいは問題にしてこなかったのは、上のような事情の他に、日本と決定的に違うのが、地震がほとんどないという地学的事情もある。自然災害の面で問題があるとすれば、平地が多いので洪水が多いということくらいだ。

さらに上記のチェルノブイリ事故などを教訓からフランスには政府から独立した原発の監視機関である原子力安全院ASNとフランス放射線防護原子力安全研究所IRSNがあって、原発事故はゼロにはできないということを前提にした現実主義的で徹底した監視システムができていることも、多くの国民を安心させているようだ。

こういうシステムの話だけを聞いているとフランスと日本の彼我の違いを痛感するのだが、それでも原発事故は多数起きている、というか、原発という存在は放射能事故なしには存在し得ない機械だということをゼロレベルの事故が毎日2件程度起きているという事実が示している。

放射能という脅威が目に見えないこと、僅かな放射能でも人体に甚大な影響を与えること、使用済核燃料は簡単に処分できないこと、一旦漏れた放射能は気の遠くなるような年数を経なければなくならないこと、こういったマイナス面を考えたら、決して原発を廃棄することによって生じる経済的、雇用的、財政的障害を理由に原発廃棄に二の足を踏むことは、後世に禍根を残すことであり、決して許されないことが理解できるはずだが、日本もフランスもそんな方向には進んでいない。

原発大国フランスからの「警告」が、フランスの原子力安全院のようなリアルに現実を見ている現実主義的対策がまったくない日本のそれを言うのであれば、当たっているが、原発そのものへの警告ではない点で、フランスからの批判が意味のあるものとはなりえていないのは、フランスでは原発そのものへの反省がほとんど国民の声になっていないからだと考える。


『多崎つくるはいかにして決断したのか』

2017年01月16日 | 評論
甲田純生『多崎つくるはいかにして決断したのか』(晃洋書房、2014年)

先日読んだばかりの村上春樹の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』の解説本を見つけたので、読んでみた。

村上春樹のこの小説がハイデガーの『存在と時間』をなぞるような内容になっていることを解説した本である。というか、日常生活のルーティンに流されていては見えてこない人生の真実は死を前にした時に見えてくる、しかし死を前にした時に見えても遅い、だから、死を前にしたかのようにルーティンを辞めて自分を見つめ直せというメッセージを持った解説書である。

この本を読みながら、いろんなことを考えるきっかけになった。

一つには、ルーティンワークってそれほどいけないものなのだろうかということ。多崎つくるが五人組から縁を切られて死にそうな思いをしたのに似た経験がある人なら分かるだろうが、そういう経験をした時には自分の人生を思い直すことなどできないほどの絶望感に陥っている。そこからとにかく脱出しなければならない。

脱出を可能にするのがルーティンワークだ。とにかく絶望の淵を見ないようにして、目の前のことだけに意識を集中して、目の前のすべきことを一つ一つやっていく、そうすることで、日常生活が戻ってくる。それから心身ともに落ち着いてきたら、もう一度見直すことができる。

突然絶望の淵に落とされそうになって、その絶望を感じながら、同時にそれを見つめることができるほど強靭な精神力を持った人はいない。

第二に、自分の人生を見つめ直すということは、誰でも日々行っていることではないだろうか。そうであればこそ、誰それのあの時のあの言葉はそういう意味だったのかと、ふと思い当たることがあったり、その時はこうすればよかったと悔やんでみたり、ということが起こる。そういうことは何も絶望の淵に突きつけられるような経験をしなくてもやっていることだ。

第三に、この評者は「沙羅はつくるを選び、つくるは沙羅との結婚を選んだ。だから、ハッピーエンドだ」と結論しているが、私は最後にはつくるが自死するのではないかとハラハラしながら読んでいた。そもそも今現在付き合っている女性が他の男と付き合っていて、その男の前で自分の前よりも嬉しそうにしているを見て、それでも一生をともにしたいと思うような書き方をするほうがおかしい。

つくるはわけもわからないうちに灰田が自分の前から消え、四人の友人たちに巡礼することで自分が切り捨てられた理由が分かったとはいえ本当の自分を取り戻してない。そこへもってきて、フィンランドから帰国して沙羅に電話したのに出てくれない、例の男と会っているのかもしれないと思って、沙羅が電話してきても自分もでない、そういう精神状態にあるつくるを読みながら、なにかしら希望を感じることは無理だ。

これはすでに書いたが、いろんなレベルの読み方が可能だ。この評者のようにハイデガーをリンクさせながら読むことも可能だ。私のようにハイデガーなど読んだこともないしキルケゴールなどよく分からないという人間が読む読み方も可能だ。だが、私のように言葉の意味に密着して読んでもそれなりに面白い作品でなければ、優れた作品とは言えない。


『花の忠臣蔵』

2017年01月06日 | 評論
野口武彦『花の忠臣蔵』(講談社、2015年)

年末に『古舘トーキングヒストリー~忠臣蔵、吉良邸討ち入り完全実況~』というのがテレビ朝日で放送された。ドラマ仕立てで大石内蔵助を始めとした四十七士と吉良上野介が登場する現場に古舘伊知郎が居合わせて実況中継風に解説をするという番組で、非常に興味深かった。

とくに歌舞伎によって通説となっているようなことが最新の歴史研究によって修正されて、新しい見方が提示されていたことが特徴だった。

たとえば、雪が深々と降る夜というのが通説だが、実際には満月が出ており、前日まで降っていた雪が月明かりを照らして明るく、四十七士にとっては都合がよかったという。というか、彼らは満月の夜をねらったのだ。

またこの夜は、この吉良邸に吉良上野介が泊まる特別の日だったという。通常、上野介は別の屋敷で生活していたが、江戸城でのお勤めの後で、この屋敷に寝ることになっていた。四十七士はこの夜を狙ったという。

テレビドラマなどを見ると、吉良邸に入ってからは吉良上野介の家臣たちが次々襲ってきて一大乱闘の様子が描かれるが、実際には吉良邸のぐるりを囲んでいる長屋に寝ていた警護の武士たちが出てこないようにするために、釘を引き戸に打ち付けて開けられないようにした上で、外から弓を射て、威嚇を行い、彼らの戦意を喪失させたために、警護の武士はほとんど戦闘に加わらなかったという。

古舘伊知郎が某報道番組のメインキャスターを降りて、久しぶりの実況中継風の活躍だったが、彼が生き生きとしていたのが目を引いた。

この本は、上のような新しい視点を散りばめた本で、忠臣蔵好きだけではなくて、江戸時代の、とくに元禄時代がどんな時代であったかに関心のある人には興味深いものだと思う。元禄時代を貨幣経済が浸透した時代、開花の頂点である現代とはひと続きの時代の始まりと明言しているところがすごい。

『戦国のゲルニカ』

2016年10月31日 | 評論
渡辺武『戦国のゲルニカ「大阪夏の陣図屏風」読み解き』(新日本出版社、2015年)

今ちょうどNHKの大河ドラマ『真田丸』で描き始めた大阪の陣(まだ冬の陣の前だが)で引き起こされた、徳川諸大名と、大阪城に終結した豊臣側の浪人たちの戦い、そして敗走する戦闘員と大阪町民たちを襲う徳川方の戦闘員や追い剥ぎたちの阿鼻叫喚の地獄絵図を描いたのがこの「大阪夏の陣図屏風」だという。

何度もこの本で繰り返し述べられているのは、これまでの戦国時代のどんな戦にも見られなかった(たぶん応仁の乱の京都が唯一の先例だと思われるが)、市街戦が大阪夏の陣の本質であり、そこでは、いつの時代の戦争にも見られる、戦闘員たちの狂気に駆られた非戦闘員への非人道的な行為が、ここにも見られるということだ。

戦闘員同士が首を取ったという戦果のために死に物狂いの殺し合いをするだけならまだしも、そうした狂気沙汰が、市街戦であるために、避難民たちにも及び、非戦闘員が殺されたり、女子が性的暴行を受けたり、衣服を剥がれたり、という悲惨な目に遭っている様子までこの屏風絵には描かれている。

したがって、この屏風絵は、少し前に描かれた、これまた大作で、四翼あったと言われている「関ケ原合戦絵図」が、まったく徳川家康の側に立って、その栄光を描くために描かれたのとは、まったく意味が違うと、著者は強調している。

それにしても、秀吉に対する家康の恨みは相当のもので、この夏の陣で自刃した秀頼、茶々の他豊臣家の係累はすべて根絶やしにされ、大阪城は天守から何から何まで埋めてしまい、その上にまったく新しい大阪城を建てさせたという。

その凄まじさ、そして家康のせいで大阪が市街戦にされて戦火に燃え上がり、死屍累々の地となったという恨みが、秀頼は密かに逃げてその子孫が現代まで続いているというような話が密かに語られるというような土壌のもとになっているのだろう。

これから『真田丸』がどんな描き方をするのか興味深い。