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読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

「放課後」

2007年09月26日 | 作家ハ行
東野圭吾『放課後』(講談社、1985年)

東野圭吾が第31回江戸川乱歩賞を受賞したときの、デビュー作。

デビュー作というのは、やはり書きなれていないがゆえの、未熟なところもあるだろうが、それ以上に全精力を傾けて書いたという全力疾走感があるのでいい。

はっきり言って推理小説としての面白み、つまり密室犯罪のトリックを解くという意味での面白みはこの小説にはないし、そもそも小説の最後の最後になってやっとそういうこと(動機も含めて)が問題になってくるので、そんなことはもうどうでもいいような気になってくる。私は最後まで犯人がだれか分からなかった。それでいいのだと思う。

それ以上に、主人公である数学教師の前島やその同僚たち、そして精華女子高校の生徒たちの描写や話の展開に無理がなくて素直に書いてあるのが好感をもった。

手の込んだ事件の背景やトリックが好きな人には、くだらないと思われるかもしれないが、「Xの悲劇」や「Yの悲劇」のような世界的に有名な推理小説というものは、中学生が読んだって理解でき夢中になってしまうのだから、一見手が込んでいるように見えて、やはり物事は単純なのだ。笠井潔の「バイバイ・エンジェル」だの「サマー・アポカリプス」だののように、途中で先を読む意欲がうせるようなものは、どんなに作者の博識がそこにちりばめられているのか知らないが、くだらないと判断せざるを得ない。

「しゃばけ」

2006年12月15日 | 作家ハ行
畠中恵『しゃばけ』(新潮社、2001年)

第13回日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞した作品らしい。もともと漫画家志望で、88年にマンガ雑誌でデビューしていこう、最近になって作家をめざしていたらしい。

江戸時代の大店の若だんなを主人公だが、じつは妖(あやかし)の血筋で、祖父や父親は人間だが祖母や母親が妖怪で、祖父の遺言で腕っ節のいい妖怪の犬神と白沢が若だんなの一太郎を守るために手代としてはっている。

一太郎が自分には兄の松太郎がいることを知って、夜中に一人で会いに出かけた帰りに、人殺しにばったり遭遇してしまったことから、命を狙われるようになる。じつは年季の入った墨壺(大工道具の一つ)がつくも神になりかけていたのに、この墨壺の持ち主だった大工の棟梁を殺して墨壺を奪った男がこの墨壺を壊してしまったために、つくも神になれないで恨みをもった墨壺の妖怪が人にのり移って、魂を取り戻すことができるという(生き返ることができるという)返魂香をもとめて、薬種問屋を襲っていたのだった。

連続殺人の事の次第がおぼろげながら分かってきつつあった頃、見越しの入道というえらい妖怪がやってきて、一太郎に祖父母や父母のことを話して聞かせ、もし一太郎が自分でなんとか決着を着けることができないのなら、一太郎はダキニ天様に仕えている祖母のもとへ送り返すという話になっていることを伝える。一太郎はじぶんで決着をつける決心をする。

墨壺の妖怪は松太郎が住む界隈に大火事を起して一太郎をおびき寄せる。二人の手代が火柱に囲まれて動きが取れなくなったとき、意を決した一太郎は護符で妖怪を人間から引き出して殺してしまう。死んだと思っていた兄の松太郎もじつは生きていたことが分かり、一件落着する。

時代小説ってあまり好きじゃないのと、言葉が読みにくくて最初は難儀をしたが、だんだん慣れてくると面白くなってきた。

なんか作品の雰囲気に心地よいものを感じる。いったいこの心地よさはなんだろうと自分なりに反省してみると、上下関係のはっきりした人間関係(妖怪関係というべきか)にあるのかなと思う。自分を犠牲にして一太郎の魂を生き返らせた祖父母(とくに人間だった祖父)の命によってつねに一太郎を護衛する二人の手代、彼らはけっして一太郎を主人といいながらも一太郎の言いなりになっているわけではないが、主従関係ははっきりしている。これってまるっきり水戸黄門の世界じゃないかということに気づいた。鳴家(やなり)だとか屏風の妖怪だとかにも主従関係というか上下関係がはっきりとあって、それを守ることによって生じる暖かな雰囲気、ほのぼのとした雰囲気、滑稽さなどがこの作品の、ファンタジー感を強めていることはたしかだ。

だがそれって黄門様が印籠でもってあらゆる城主やら藩の重役やらを這いつくばらせるように、でも黄門様と二人の護衛の関係も上限関係あっての和やかさであり、そういうことを考えると、上下関係や支配被支配関係を前提としたところに和やかさを感じる自分の感性というものにたいして、不信感を覚えるのだ。

かつて宮崎駿のアニメにたいして、どうしていつもお姫様ばかりが主人公なのか、戦争で簡単に殺されてしまう人たちのことをどう思っているのかという批判をする人がいるということをどこかで読んだことがあるが、一理あるかもしれない。

「エリ・エリ」

2006年10月19日 | 作家ハ行
平谷美樹『エリ・エリ』(角川春樹事務所、2000年)

第一回小松左京賞受賞作らしい。各章の冒頭にイエスが十字架に掛けられる前後の物語をおき、2050年前後の近未来の地球におきる出来事を物語にしたもの。

宗教信仰は地に落ち、宗教者を含めてだれも神の存在を信じなくなっている。そうしたなかでも神とはなにか、神は本当に存在しないのかということを考えていこうとする榊利一神父がかいた論文がバチカンの教皇の目にとまり、特命を受けて神探しの旅に出る。だがその途上で、テロ事件に遭遇し、下半身を失う。脳だけが冷凍処理されて木星の宇宙センターに送られ、コンピュータにつながれて脳だけで生きていくことになる。

科学者のクレメンタインは核融合とラムジェット複合推進システムを完成させ光速の30%までのスピードが出せる宇宙船を建造するホメロス計画に参加すべく、木星の近くにあるアヴェロン群島の国際宇宙センターに行くように要請される。

タウトは、自分の父母が宇宙人によって殺され、自分の腕にもインプラントが埋め込まれていると信じ込んでいる精神科医で、国家安全保障局のノーマンからホメロスⅠの建造を阻止して、月や火星の資源開発のスピードをアップして国民の生活を潤すことができるということを吹き込まれ、同じく木星のアヴェロン群島に潜入することになる。

こうして三人のばらばらだった物語は、木星の国際宇宙センターに合流することになり
、最後にはタウトが異星人たちの宇宙船サギタリウスACBに突っ込んでいく。

ながーい小説なのにとてもじゃないが上手くまとめられない。近未来のキリスト教徒の信仰の揺らぎという問題はまだついていけるし、こちらとしてもあれこれ考えられる。私は神なんか信じないが、古代においてはなぜあのような宗教信仰が生じ、強力な力をもったのか、その力はいまでも自爆を正当化するほどの強制力をもっている。子どものときからのたんなる習慣? アインシュタインが考えたような、自然や宇宙を統括するものとしての神、すなわち自然法則そのものとしての神というようなものなら理解できる。だが、善悪を解く神というものは考えられない。だが神はもともとは人間に善悪を行動規範を強制するものとして現れたのだろう。自分たちの生活のシステムにそうした強制力をもたせるために古代人が考え出したものなのだろう。そうだとしても現代のようにさまざまな価値観が交流し混在する社会において、そんなシステムは成り立たない。その代わりに法というものが存在するようになったのだから。

最近、NHK教育で「出エジプト記」に書かれていたことはけっして作り話ではなくて、実際に起こっていたことだということをさまざまな物的証拠を挙げて検証する番組をやっていた。それによれば当時エジプト周辺で起きた巨大な地震や対岸のギリシャで起きた火山噴火などによって、海が割れて道ができたとか多くのエジプト人が死んだとかというような話も実際に起きたらしいことが分かってきたらしい。このような番組を見ると、一見すると荒唐無稽なことが書かれている古代の文献などもけっして侮ってはいけないことが分かる。日本の場合だって「古事記」や「日本書紀」に書かれていることがけっしてうそではないということが科学的に検証される日がくるかもしれない。そうなるとそうした時代の人々が信じていた神というものがどんな力を民衆の精神にもっていたのかも解き明かされるのかもしれない。

だが現代人にとって神は必要なのだろうか?心の支え?そんなことを考えさせる小説でした。でも作者のモチーフはぜんぜん違うところにあったのではないかと思うのだが。

「日蝕」

2006年10月12日 | 作家ハ行
平野啓一郎『日蝕』(新潮社、1998年)

京都大学在学中に、新人でありながら、この作品が「新潮」に一挙掲載されたことで、話題を呼んだので、一度は読んでみたいと思っていた。15世紀のフランスの魔女狩りの時代に錬金術に関心を持つ学僧が、リヨンの南のヴィエンヌという小村で遭遇した不思議な体験を綴ったもので、その文体も活字も古色蒼然たるもので、よくまぁ大学生にこんな古風なものが書けたな、しかもフランスの15世紀の学僧が主人公なので、ギリシャ哲学や中世のスコラ学についての知識もある程度必要であるのに、たいした知識だな、と関心しながら読んだが、とても感情移入できるようなものではないし、かといってその該博にして読者の知らざる世界を垣間見せてくれるというようなものでもないし、なんとも中途半端な印象を受けた。

それにしても、読者の心を掴むということにそれほど関心がないのか、そもそもたんに知識を披瀝したいだけなのか、やっと肝心の――というのは、おそらくこの場面がこの小説のクライマックスらしいから、肝心のと書いたまでのことだが、別にそうでもないのかもしれない――「魔女」焚刑にいたるのはもう終わり近くにいたってのことで、そこまで我慢して読めというほうが無理というものだろう。フランスにやスコラ学や魔女裁判やにも多少なりとも関心があればこそ、我慢して読んではみたが、はっきり言って苦痛で仕方がなかった。

新潮の編集長がよほど気に入ったのだろう。こんな作品を冒頭に一挙掲載するのだから。それだけでなにかの文学賞を獲得したものに匹敵するくらいのことだったのだろう。

この作品とは関係ないが、ヴィエンヌというところは今ではTGVが止まるくらいの町だ。私の知り合いの奥さんの実家があるところで、彼らの家族は夏にはバカンスをすごしに行くらしい。残念ながら、私はまだ訪れたことがないが、もし今度行く機会があったら、この小説のことを思い出すかもしれない。

「橋本治が大辞林を使う」

2006年07月31日 | 作家ハ行
橋本治『橋本治が大辞林を使う』(三省堂、2001年)

『桃尻娘』の作家ということくらいしか、私は知らなかったが、「ことば」について書かれたものに最近関心があるので、ぱらぱらとめくってみたら面白そうなことを書いているので、借りてみたのだが、案の定面白かった。何が面白かったかといって、この人が自分というものを若い頃からよく分かっていて、かつそのような自分をすごく好きだった人だということ。だからこの人は劣等感というものがないというわけ。自分のしたいことだけをしてきたし、自分がしたくてしなければならないことには一生懸命になって、到達目標達成のために集中するが、したくないことは他人ができようができまいがどうでもいいと考えるような人だから。

この人が漢字を覚えるようになった経験を書いているところがあるのだけど、それもすごく面白い。ラジオ全盛の時代で、いつも耳から入ってくるので覚えてしまった番組の決り文句(たとえば連続放送劇『笛吹童子』のオープニング)の音が、何気なく見ていた新聞の番組表にある笛吹童子という四文字漢字がそれではないかと思ったり、そのラジオドラマが映画化されて街中に張り出されたポスターにいつも耳にして覚えた作者の名前とか音楽家の名前らしきものを見つけてこの漢字があれというふうにして漢字を理解し、覚えていったというのですからね。相当に理屈っぽい子だったのだろうね。

この本はなぜ橋本治という作家が大辞林を使うのかということをテーマの一つにしているのだけれども、そんなことよりも、じつに面白い、ためになる話が満載といって言い。

モノローグとダイアローグもそうだ。独り言としてのモノローグの言葉と、外との関係を作るダイアローグの言葉があるなんてのは、当たり前じゃと思うのだが、現実のなかでは、その区別がきちんとついているのかと問われると、確信がない。分かっているようで分かっていないのではないか。それを教えてくれたのが、ある雑誌の企画で30人くらいの若者たちを集めたセミナーのフリートークで、一人の男の意見が周囲の反感を買ってしまい、彼一人が孤立したという話です。橋本によれば、そういうことになったのはこの若者の言葉が自覚のないモノローグだったからで、橋本がそのことを教えてやらなければ、彼はそのことがずっと分からないままであっただろうし、なぜ自分の言ったことが人の反感を買うのかも分からずにいただろうということで、しかも「そうなんだ」というモノローグの言葉から「そうなんですね」というダイアローグの言葉に置き換えることは、頭の問題ではなく、そのような音を口に出すという身体の問題であると、橋本が指摘しているのも、目からウロコのようにびっくり。

彼はそこからさらに敬語とは、尊敬語ではなく、現代においては、他者との距離あらわすものだと指摘している。身分の上下とか社会的地位だというものは、ある意味、現代においては意味をなさないものであるけれども、それでも人との距離は必要で、それを表すのが敬語だという橋本の説明は、なるほどと思わせる説得力をもっている。

『桃尻娘』とか『窯変源氏物語』とか読んでみようと思っている。

「アカシア香る」

2006年07月25日 | 作家ハ行
藤堂志津子『アカシア香る』(新潮社、2001年)

40歳台になると、それまでがむしゃらにやって来たのに、突然自分がなにをしたいのか、してきたのかわけが分からなくなって惰性のように日々を過ごしてしまうようになるときがある。私は数年前からそういう状態に陥っていて、けっしてうつ病とかそういうのではないが、それまでのエネルギーが嘘だったように、なにもする気がしない、まとまった仕事をイメージできないという状態が続いている。自分ながら「抜け殻」のようになっているのが分かる。

そういう状態になるのはいろいろな契機があるのだろうが、数年にわたる母親の看病と死の後に、そういう状態に陥ってしまった45歳の未婚女性を描いたのがこの小説である。この小説の主人公の加治美波の場合は、母親の看病をはじめる前に東京でそれなりの恋愛経験もあり、会社でのブレーンとしての仕事もあったのだが、それをすてて札幌の母親のところに帰ってきたのだった。そして母親の死後ぼんやりとしていたところを、K高校で同期だった桐山の紹介でK高校の同窓会館の管理人を住み込みですることになったというところから物語が始まる。

仕事の単調さ・肉体労働的な性格が、ぼんやりしている状態の美波にはちょうどよかったことや、同期生たちがたまに話に来たり、かつての会社の社長で、一度は不倫関係にあった墨岡との関係の回想とか、同期生の集まりでたまたまであった音村とのあらたな関係になったりすることが描かれる。小説そのものとしては文章も読みやすいし、人物の造形にも破綻がなく、まぁまぁの読み物だと思う。

親の介護というのは、本当に厄介な問題だと思う。多くの場合は、ちょうど介護する側が働き盛り、会社などでも重要な役割をになっているということがあって、介護のために頻繁に休んだり、ましてや休職するなどもってのほかというような状態にあることが多いだろう。つまり、介護をとるか仕事をとるかの二者択一しかない。そういうところが日本社会のおくれを象徴していると思うのだが、明日からでもどちらかを選ばなければならないというようなところに追い詰められた人にとっては、そんなことは言っていられない。私の場合、父親は大学生の頃に亡くなっている。母親が一人暮らしをしているのだが(近くに弟の家族が住んでいる)、去年の春から腰を痛め、それまで働いていたパートの仕事を辞め、この春には今度は膝の関節を痛めて、正座ができなくなったらしい。だんだんと身動きできなくなって寝たきりのようになるのではないかと不安でしかたがないの。今のうちにこちらと同居するようにしたほうがいいのだろうか、だが母親にも田舎でいろいろ付き合いがあるから、こちらに来たらまったくそういう付き合いもなくなってしまうと、ボケてしまうのではないか、などなどいろいろな思いが錯綜して、考えがまとまらなくなる。いますぐ結論を出さなくてもいいだけに、あれこれ考えるだけで、なにも進まない。ほんとにいやだいやだ。

『なぶりあい』

2006年05月10日 | 作家ハ行
星野智幸『なぶりあい』(河出書房新社、1999年)

子どもの頃、ごく稀に、とても疲れていたり、病気で学校を休んで寝ていたりした日の夕方、ふっと目が覚めると、あたりは静かで、薄暗くて、もう朝がたなのか、夕方なのか分からないで、ぽつんとついている黄色っぽい小さな電球を眺め、なんだか知らないけれども、体も楽になっているので、そんなに悲しくもつらくもないのだけど、寂しいときがある、ただ子どもなので、人生とか死とかということは考えることはないのだけど、自分の知らないわが家のもう一つの顔―家を出て行ったらしい叔母さんとその亭主のことだとか、その娘のことだとか―をぼんやり考えていたりすることがある。

そういうような、自分がどこにいるのか、世界がどうなっているのかということが、まったく分からない不思議な経験から書き始められているこの短編は、これまたなんだか分からない三人の登場人物―グランデ、メディオ、プティ―の共同生活の始まりと終わりが、メディオと呼ばれる「私」の視線を通して描かれている。この二人はいわゆるオカマで、外見は女に見えるらしい。銀行強与(銀行に押し入って、お金を盗む代わりに、一円玉を行員たちに瞬間接着剤で貼り付けたり、口のなかに押し込んで逃げてきた)したときの新聞報道が男一人と女二人と報じていていることから、そういうことらしい。

以前、吉田修一の芥川賞受賞作について書いた時に、こうした人たちが、社会的常識を逸脱することによって、社会的常識という枷から解放され、人間本来のものの見方を勝ち取っていると書いたのだが、この短編に出てくる彼女たちはそうでもないようだ。彼女たちがやることは社会的規範の逸脱を口実に、プチ犯罪的なことをやって、どきどきを体験している。結局、彼女たちが得たいのは、どきどき体験なのだろう。

毎度のことながら、どうも短編小説は面白くない。

「幸福御礼」

2006年03月31日 | 作家ハ行
林真理子『幸福御礼』(朝日新聞社、1996年)

さっそく林真理子の『不機嫌な果実』とは毛色のちがう小説を読んでみました。東京の郊外で英語教室をしている由香を主人公として、彼女の夫の大鷹志郎が郷里の河童市の市長選挙に出て落選するまでの顛末を、由香の視点から描いた小説である。30になったばかりの夫もちの女性の視点ということでは変わりないが、今度は愛とか恋とか不倫といったことがテーマではなく、市長を長年やってきた叔父の跡をついで市長選挙にうってでる夫との関係、長年市長を出してきた家柄をかさにきる姑の春子との関係、そして由香自身が河童市の若い女性を組織して後援会組織をつくっていく過程を描くなど、たんに姑との軋轢に不満を口にさせていただけの『不機嫌な果実』とはちがって、由香に積極的な行動にうって出させている。

たしかに小説の技法も語り手と主人公の関係も別のものになっているから、決して林真理子はばかではないということが分かった。やはり一作だけで判断してはいけないなと思う。会話のテンポもよく、構成もよくできているし、保守的な陣営の選挙の裏側のようなものも見ることができて、一気に読んでしまったから、できのいいほうに入るのだと思う。選挙が描かれているということで、ちょうどすこし前に読んだ重松清の『いとしのイナゴン』と比較して読んでしまった。

でどちらがいいと聞かれれば、私は重松清のほうに手を上げる。それは小説の上手さの問題ではなくて、誰の視点から選挙を描いているか、どんな選挙を描いているかというところにある。林真理子のほうは保守の選挙、なんのために選挙やっているのかなどは問題にならないで、これまでの地盤を引き継ぐためにやっている選挙、だから最後にはお金を配って回るということまでもするような選挙であって、河童市の未来とか市民の生活とかといったビジョンなどまったく問題にならないような選挙が描かれている。それに対して、重松清のほうは、過疎でさびれていく比奈町をどやって立て直していくのか、町民の暮らしをどうやって守っていくのかという切実な問題がヒナゴンで町おこしという(これ自体は非現実的なものだが)ことと結びつけて選挙を戦おうとする人たちの視点で描かれている。だから、林真理子の小説からはなにも得るものがなかったが、重松清の小説からは感動を得た。

だから(二人はなにも競っているわけではないけど)私は重松に軍配を上げるよ。

「不機嫌な果実」

2006年03月28日 | 作家ハ行
林真理子『不機嫌な果実』(文芸春秋、1996年)

以前、「週刊文春」に掲載してあるのを見たことがあったと思うが、もう10年も前のことだと分かったときには、いまさらながら時のたつのが速いことに驚く。ある知人によると50代になると長いということらしいが、私の40代は速かった、ように思う。なにもなかったからではなく、あれこれあったからだ。感情の浮き沈みも激しかった。

さて、林真理子の「不機嫌な果実」。これを読み出してすぐに私は林真理子ってばかじゃないの、と思った。日本的私小説では、語り手と主人公が同一人物であるだけでなく、作者とも同一であるということになっているから、語り手と主人公がほぼぴったりくっついており、しかも、主人公が(美人かどうかは別として)ほぼ作家と似たような年恰好に描かれていると、ついつい主人公を作家と同一と見なしてしまうことになりやすい。この小説の場合がそうで、私は麻也子の価値観や人生観を林真理子のそれと思いながら読んでしまい、それで林真理子ってばかかと思い込んでしまったのだった。というのは麻也子の思考回路がまったく凡俗で自己中で外見や世間体だけを問題にするような価値観にもとづいているので、作者の林真理子がこんな価値観の持ち主だとしたら、こいつばかかと思ったのだ。この小説は、麻也子の思考回路を事細かく説明しながら進行する。たとえば一つのセリフを言ったあと、語り手はなぜ麻也子がこんなことを口にしたのかをながながと説明するし、あるいはそうした彼女の頭の中の思考を披瀝した後にポンと彼女のセリフが書かれるので、彼女の会話や行動の裏にある価値観がよく分かるようになっている。語り手はけっしてそこから一歩身を引いてさらに客観的に麻也子の言動や価値観を見るようなことはしないので、作者―語り手―麻也子が一体になっているような印象を与えるのだ。

ところが、麻也子が音楽評論家の通彦と知り合って、彼にのめりこみ、彼から勉強のためにローマに移住するから一緒に行こうと誘われ、離婚を勧められ、あれこれ動揺するあたりから、そして漱石の名前が出てきたあたりから、もしかして林真理子はわざとこういう日本的私小説風の手法を使っているのかもしれない、漱石が『明暗』で主人公たちの思考を語り手が事細かに説明する手法を使ったのと同じ手法を使っているのかもしれないと思うようになってきた。わざとお馬鹿を装っているのだろうか、と思うようになってきたのだ。これを確かめるには、まったく毛色の変わった作品を読んでみるしかないだろうな。

「デセプション・ポイント」

2006年01月21日 | 作家ハ行
ダン・ブラウン『デセプション・ポイント』(角川書店、2005年)

これはあのNASAが?という話である。前にも書いたが、天文少年だった私にとってNASAはもちろん、ケネディーが60年代にはアメリカ人を月に送ると公言し、それを実現したところであり、最近では(といってもかなり前になるが)『アポロ13』で描かれる奇跡的帰還を実現させたところである。人間の英知を結集した場所であり、ここで描かれているような、政争の道具でも、人類のお荷物でもなかったはずなのだが、たしかに現実はこうなのかもしれない。いま現在の地球上に暮らす人間たちの生活向上にはまったく役に立たないことに膨大な金を投入しているところなのだから。

原作は後だったが邦訳は彼の作品の中で一番早かった『ダ・ヴィンチ・コード』も、キリスト教の歴史を塗り替える可能性のある秘密を暴露するということが中心テーマになっている。これも、キリスト教が生活の土台になっている欧米人ならずとも、多少ともヨーロッパの歴史や文芸に親しんだものなら、「ウソだろー」とか思いながら、読んだものである。もちろん本当にそうなわけはないのだろうけど、筆のうまさに騙されてしまいそうになるのだ。そんなわけで2年前にこれを旅行中の旅先で見つけて読み出し、移動の電車やバスのなかで読んでいた経験があるので、これが映画化されるとか、これに気をよくしてダン・ブラウンの小説が次々翻訳されるという話を聞いた時にも、できるだけ近寄らないようにしていたのだけど、このあいだたまたま誰かが忘れたらしい『天使と悪魔』を見て、ちょっと拾い読みしただけでがまんならず、買い求めてしまい、あっという間に、『天使と悪魔』(上・下)『デセプション・ポイント』(上・下)を読んでしまった。一気に7200円の散在だ!二度とこんなことはしないぞ!と思いつつ、これを書いている。