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読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

『花窗玻璃 シャガールの黙示』

2010年03月21日 | 作家ハ行
深水黎一郎『花窗玻璃 シャガールの黙示』(講談社、2009年)

外来語をなんでも漢字表記にしてしまう変わった小説で、これもタイトルの漢字が読めない。どこかのブログで紹介されていたので読んでみた。カテドラルについての造詣の深さは、どこかの大学のフランス語の先生をしているらしい著者の経歴から納得。

私なんかもフランスのカテドラルをすこし見た(ランス大聖堂、パリのノートルダム、シャルトル大聖堂くらいかな)が、きちんとした知識をもっていないと、ステンドグラスを見ても「ああきれいだな」くらいの感想しか沸いてこないのも当然だろう。

これもどこかのブログで書いていたが、ミステリーの謎解きなんかはどうでもよく、この著者のカテドラルとか絵画とかについての薀蓄を読みながら、ちょっと勉強をさせていただくほうがよほど面白いし、ためになる。カテドラルに関わる名詞にすべてカタカナのルビが振ってあることで、こんな風に訳せばいいのだということが分かるのも面白い。

クロワゼ交差部、ピナクル小尖塔、トレサリー飾り格子、ファサード立面、アーク・ブータン飛梁、クロワジオン袖廊、オクルス眼窓、メダイヨン小窓、ランセット縦長尖頭窓、タンパン扉門上壁、シュベ・プラ正面後陣、シャピトー柱頭、トリフォリウム三拱式拱廊、などなど。

私がランスに行ったのは2000年だったか。たった一泊しただけの小旅行だったので、パリに荷物を残して、デイパックだけもって、知り合いと二人で出かけた。共通の知り合いがランスにいたので一緒に行くことになったのだが、一緒に行った知り合いは三年くらいランスに住んでいたことがある人だったので、ランスのことは隅から隅まで知っており、すべてお任せの旅行だったので、かえって思い出があまりない。

昼頃に到着して、共通の知り合いのおばさんと三人で食事をしてから大聖堂見物をした。こういう場合は、この小説の元大学教授のローランと同じで、地元の世界遺産はどうしもて客人に見せたいところだろう。そしていろいろ解説をしたくなるものだ。彼女の説明も今となってはほとんど記憶にないのが残念だ。

夕食はこのおばさんの自宅でとったあと、ちょうど行なわれていたコンサートを聴きに行って、そのあとホテルに行った。翌日は、藤田が壁画を描いたという教会を見たり、シャンパンの産地だからカーヴの見物と試飲をしたあと、パリに戻ってきた。日本でもそうだと思うが、地方の小都市、これが住むには一番いい。落ち着いていて、文化的にはなんでもあって。申し分ない。

『船に乗れ!Ⅱ独奏』

2010年03月14日 | 作家ハ行
藤谷治『船に乗れ!Ⅱ独奏』(ジャイヴ、2009年)

新生学園高校の音楽科に在籍してチェロを弾いている津島サトルが一年生の文化祭を終えて、オーケストラや文化祭での南枝里子たちとの合奏や、お祖父さんの家でのホームコンサートなどのために怒涛のような半年を過ごした「Ⅰ合奏と協奏」から何もすることのない冬を過ごして、二年生になってからの波乱万丈を描いたのが「Ⅱ独奏」である。

南枝里子との関係は相思相愛の関係になり、夏休みに入ってすぐにあったオーケストラ合宿の最終夜には二人で散歩に出てキスまでするようになる。だが、ホームコンサートで知り合った父と叔母のビアンカさんとの話が進んで、夏休みの間ドイツのハイデルベルグでメッツナーというチェリストに個人レッスンを受けに行っているあいだに、とんでもないことが起きて、二人の恋は破綻してしまう。

他方、音楽面でも、このハイデルベルグでの個人レッスンは、サトルに「音楽をする」ことの厳しさを教えることになる。サトルはただ音を出すだけの練習で、楽器を鳴らして音楽を作り出すレベルではないとメッツナー先生に指摘され、それまでの自分の音楽にたいする向かい方を全面的に否定されたように思う。それは彼にとってはニーチェが好きだと言ってもそういうものを読んでいる自分を他者と比較してうぬぼれるための手段に過ぎなかったわけで、本当にニーチェの言葉を理解していたのではなかったと自分に悟らせることになる。

高校生にして自分を全否定されるような出来事に遭遇し、いったい彼はどうなるのだろうか?

『時生』

2010年02月08日 | 作家ハ行
東野圭吾『時生』(講談社文庫、2005年)

どこかの読書ブログでお薦めだったから読んでみようと思ったのだろう。数ある東野圭吾作品からこれを選ぶ理由はとくになかったはずだから。

10代から20代のはじめまでに脳細胞が死滅して死にいたってしまうグレゴリウス症候群という遺伝性の病気で死に瀕している息子の時生を前にして、自分の出生の秘密を知ることになると同時に妻の麗子との出会いにいたる拓実の23歳のときの回想。

この小説の核心は拓実の出生に秘められた悲劇にあるのだが、どうもそれだけではこの小説がそうしているように、実の母親からの手紙一つでおしまいになってしまうので、実の母親との死の面会にいたる過程に、恋人の千鶴さがしの旅をドッキングさせ、これに政府の外郭団体のスキャンダルを絡ませて、ちょっと社会的な幅をもたせた格好になっている。

とくに感想なし。


『船に乗れ Ⅰ合奏と協奏』

2009年11月28日 | 作家ハ行
藤谷治『船に乗れ Ⅰ合奏と協奏』(ジャイブ、2008年)

音楽家を目指す高校生が高校の文化祭での発表や演奏会に向けた練習の中で成長していく過程を描いた青春小説ってやつでしょう。

音楽を演奏するという話だけでも、なんか特別な雰囲気、ちょっとこじゃれた雰囲気があるのに、そこへもってきて自分の感情をもてあまし、どう自分を表現したらいいのか分からない高校生の話ということで、まさに青春小説ってやつだ。

篠田節子さんの『カノン』なんかも大学で音楽を専攻する学生たちの絡み合いの話だったが、あれはもう結婚もして子どももいてという中年にさしかかった男女の現在と回想によるものだったし、篠田節子さん特有のサイコ的なところもあったので、また雰囲気が違うけれども、面白かった。

こういうのって生理的に好きなんだろうね。自分でもすこしだけどオーケストラとまではいかない小規模の合奏団でバイオリンを弾いて、自分たちの演奏会や、地域の合唱団の演奏会の伴奏に出たこともあるから、演奏会での緊張感や、練習のときのばらばらなまとまりのない段階から、徐々に出来上がって一応まともな演奏ができるようになったときの充実感、しかし演奏会ではやはり心配していた失敗をやらかして、合奏団と合唱団で最後がばらばらに終わったなんてひどい経験もしているから、主人公の津島サトルの感じていることがびんびん伝わってくる。

『エンブリオ』

2009年08月22日 | 作家ハ行
帚木蓬生『エンブリオ』(集英社、2002年)

この小説は、先に読んだ『インターセックス』の前編のような小説だった。『インターセックス』が面白かったので、図書館にこの作者のものを探しに行ったら、これがあって、ちらっと見たら、岸川院長とか加代とかが出てくるので、もしかしたら続き物かなと思い借りてみたら、案の定、そうだった。

『インターセックス』で翔子が謎解きをする連続死亡事件が『エンブリオ』で次々と起こることになっている。この小説では、岸川がサンビーチ病院で行っている生殖医療、不妊治療などが紹介され、モナコでの国際学会で男性の体内でエンブリオを成長させて、失敗はしたが、成功まであと一歩というところまでこぎつけたという発表をして大きな反響を呼び、それがアメリカの生殖医療企業であるリブロテックの会長の目に留まり、岸川と一緒にモナコに行っていた加代と、サンビーチ病院のファームの責任者である鶴が買収されてスパイをしたことから、岸川に殺されてしまうという展開である。

もちろんこの小説の興味は、そんな殺人事件のトリックとかではなく、世界の生殖医療がどんなところに来ているか、一般人の知らない間に、不妊治療という名目の元で人間の誕生がどんな風に操作されているのかを分かりやすく示しているところにある。

私なんかはときどきテレビなどである不妊治療の話なんかを見て、そんなことまでして子どもを得なくてもいいじゃないかと思っている人間だが、そんな思惑などに関係なく、事態は進んでいるのだろう。この小説にもでてくるが、ノーベル賞ものだともてはやされている例のIP細胞から実用の段階になるまでには相当の時間がかかるだろうことは素人でも分かる。それに比べたら、胎児から直接そういう臓器を成長させて使えるようにすることのほうがよほど手っ取り早いといえばそうだろう。だが、本当にそんなことをしている、あるいはしようとしている研究機関や医療機関はあるのだろうか? 不妊治療といえばなんでもできそうなアメリカならそういうこともやっているのかもしれないと思う。

この小説でも公立病院なんかはもうだめだというようなことが描かれているが、すべての病院がサンビーチ病院のようになるためにしのぎを削るというのはおかしいと思う。地方にいくつか拠点病院としてこういう先端医療をする病院があり、その他は普通に医療を丁寧に行ってくれる病院が充実しているということではだめなのだろうか?そういうことは不可能なのだろうか? 今の日本の医療崩壊は、また原因が別のところにあるように思うのだが、医者が十分に集まらないという原因の一つに、先端的な医療を行えるところを求めて、普通の病院から医者が去っていくということもあるのだとしたら、みんながみんなスペシャリストでなくてもいいから、地域医療の原点を理解して医療に当たってくれる医者はいないわけではないと思うのだが、どんなものなのだろうか?

先ごろ、子どもの脳死も認める法律が通った。本当に死んだと言えるのかどうか分からない子どもを死んだことにして、その臓器を移植するなんて、私にはとても考えられないのだが、この小説にはパーキンソン病の治療のために自分の胎児を早期に流産させてその脳を注入するなんていう、どこまで本当なのか分からないような話が登場する。自分の延命のためにわが子を犠牲にするのなら文句のいいようがないとでも言うのだろうか? 

『インターセックス』

2009年08月12日 | 作家ハ行
帚木蓬生集英社、2008年)

まず小説の構成から。なんとも素人が書いたような、ぶかっこうな構成になっている。メインはもちろんインターセクシュアリティーという、ほとんどの人が知らない男女の境界線上に生じた身体特徴をめぐる医療と生の問題をみずからもインターセックスの一人である主人公で女医の秋野翔子の医療活動をめぐる話として進行していく。

それはそれでじつに意味のある内容になっているし、とりわけ、インターセックスが置かれた医者の無理解という現実を最も進んだ医療現場として描かれているサンビーチ病院における院長岸川とのやりとりから彼女の進んだ考え方を浮き彫りにするという形をとっているので、なにも殺人事件をまぜて、むりやり岸川を殺人鬼にしたてあげ、小説の幕を下ろすような構成にしなくても、インターセックスを主題にした小説というだけでそれはそれなりに重い内容をもったいい作品になったと思う。

ところが、なぜか、サスペンス仕立てにしなければならないという縛りでもあるかのように、またとってつけたかのような殺人事件の謎解きを翔子にさせることでリアリティーに欠ける作品になってしまった。同じ医者の書いた小説として海堂尊の小説が評判なので、こういうサスペンス性を導入しなければならないような気になったのだろうか?


同じ時期に5人もの事故死が起きたことになっているのだが、実はこれがすべて岸川による殺人だったという設定になっている。一人目の岸川の妻は、当時彼が必要としていた三億円を保険金として手に入れるために青酸カリで殺したということだし、二人目の女優は、翔子の友人である加代が岸川のいい仲になったのを嫉妬してうるさく言うようになったからということになっているのを手始めに、加代とファーム室長の鶴の死は、二人がアメリカのリブロテックに寝返りをさせられてサンビーチ病院の開発した技術を奪い取ろうとしたことが原因だったし、最後の専属運転手はそれらのことを全部知った彼が岸川を強請るようになったことが原因だったということになっている。

それらの謎解きで読者をひっぱろうとするにはインターセックスの話に比重が置かれすぎだし、インターセックスの話をメインにしたのなら、こんな下手なサスペンス仕立ては不要だったと思う。なんか小説が品のないものになってしまった。

それにしてもインターセクシュアリティーという現実がこんなに当たり前に存在するものだとは思わなかった。両性具有というのとも違うのかもしれないが、両性具有というのはギリシャ神話でよく出てくる話だが、あくまでも神話上の話で現実にはそんなことはありえないと思っていたが、染色体が46XYでもホルモンが原因で精巣が睾丸までおりてこずに、性器も発達不十分だったり、46XXでも同じようにホルモンなどが原因で膣が形成されず逆にクリトリスが男性性器のように肥大化(しかし男性性器ほどにはならない)してしまうということがあるという。いわゆる知的発達の遅れを生じさせる脳疾患もそうだが、ほんのちょっとした異常が正常との分かれ目になるということを見ると、人間という生物はいかに複雑で微妙な均衡のなかに成立しているのだろうと自然の神秘を驚嘆せざるをえない。

だが、そうした「異常」とみなされてきた存在も「正常」の一つの形態として受け容れていこうとする視点がこの小説を興味深いものにしている。男女という区別は人間が後天的に作ったものであり、自然は人間しか作らなかったということが主張される。まあもしそうだとすれば、種族の維持は不可能なわけで、それはちょっといいすぎのような気もするが、インターセックスを「異常」として社会から排除していく、手術によって「正常」のどちらかに組み込んでしまうという行為が間違っているという主張は分かる。この小説ではそこの論理を、患者が医療行為から、そして社会的偏見から受ける不快感を拒否することで自己のアイデンティティーを主張するというところに置いているようだ。

この小説は導入としても使われているような産婦人科医療の危機的状況というのがもう一つの主題にもなりかけていた。現在の危機的状況と対極にある理想的な姿としてサンビーチ病院の医療が描かれている。この主題は主題とまではなっていないが、すごくタイムリーな問題でもあり、どうせならこちらをもっと主題にまで昇格させて作品に組み込んだら面白かったのにと、ちょっと勝手な注文かもしれないけど、残念である。

『背負い水』

2009年04月27日 | 作家ハ行
荻野アンナ『背負い水』(文芸春秋、1991年)

1991年上期の105回芥川賞を受賞した作品。101回から103回まで取りのがし、四度目正直で受賞した。取り逃した作品は読んでいないが、たしかに、父親の過干渉を疎ましく思いながら、父離れできないでいる30女(いやもうじき40女?)の心理のあやを見事に描いた短編としては上出来ということなのだろう。

軽々と生きている風を見せようとして、しかし必死につかみどころを見せまいとして、ああ言えばこう返す、こう突っ込めばああ逃げる式の綱渡りで、定型にはまらないよう必死になっているところが透けて見える。

こんなものを金を払って読ませておいて(私は図書館で借りたので金は払っていないけど)、いったい何が言いたいの?と突っ込みたくなる。離婚した父親のもとで自立もできないでいる自分に嫌気がさし、図書館で自分に声をかけてくれた男と同棲するようになったはいいが、彼を父親に紹介したのに、父が自分を離そうとしないと父親の子離れのなさを非難しつつ、同棲している男がフランスに住んでいる女に何十万も金をつぎ込んでいるいる(実際には貸している)のを昔の女とまだ手が切れていないのか、二股をかけているのかと思い込み、この男との生活にも没頭しきれず、自分をオペラに誘った父親くらい年の離れた男とのデートに嘘をついて出かける。だからなんなの?

なんで私もこんなに喧嘩腰なんだろう?

『橋本治という行き方』

2008年11月09日 | 作家ハ行
橋本治『橋本治という行き方』(朝日新聞社、2005年)

「一冊の本」という雑誌に数年にわたって連載してきた「行雲流水録」というエッセーを単行本にしたものらしい。

この本の中で彼は「教養」ということについてしつこく問題にしている。橋本治はクイズ番組で優勝してヨーロッパ旅行をしたくらいに「雑」の知識はもっていると書いているが、ただそれが「教養」と呼ばれるものに値するのかというと自信がないような口ぶりだ。

大学で言う一般教養は文部科学省の大綱化方針によってすでに80年代からだんだんと縮小された、というかどうでもいいようになってきていた。そこへオウム真理教の毒ガス事件がおきて、大学院を出た高度な専門知識をもっているのに、毒ガスなんかを作って散布してもいいのかという倫理観の欠如が教養教育をおざなりにしてきた結果だという批判が起こり、多少とも教養教育に光が当てられたが、時代の趨勢は役に立たないもの、すぐに結果を出せないものは切り捨てるというようになっていたので、オウム真理教の事件程度ではこの流れを止めたり方向転換させるだけのものにはならなかった。

教養というのは知っておいたら人間としての幅が広がるというような程度のものであって、それを大学教育で教えて、しかもテストによって点数化して成績を出すようなものではないと思う。それはきっと小学生から大学生にいたる10代に自分の興味によって実体験をしたり読書をすることによって得られた知識の総体であって、大学で教育として教えるようなものではない。

かつてヴォルテールはイエズス会のコレージュで教育を受け、そこでギリシャ語を学んだことを、のちに自分がフィロゾフと呼ばれるようになってさまざまな書き物をするようになってから大いに役に立ったと感謝していた。もし日本で同じことをするとすれば、小学校から中学において漢籍を丸暗記させるような教育が必要になるだろうが、現在のフランスでもギリシャ語は選択科目になっているように、漢籍の丸暗記を強要することは不可能であろう。

こと、知っておいたら人間としての幅が広がるという知識としての教養が、人間の倫理観を決めるという風に短絡的に結びつけることに問題がある。毒ガスを製造してみたい、クローン技術を使って人間のクローンを作ってみたい、それがいったいどういう意味をもつのかという倫理的な判断ができるかどうかということと教養は関係ない。それはまさに社会倫理、あるいは高度な科学技術の倫理の問題であって、大学の教養課程で教えるような問題ではなく、まさに専門課程で教えるべき倫理教育の対象ではないのかと思う。さきほども日本の研究者が死体からクローンを作り出すことに成功したという報道があり、その研究者が絶滅したマンモスを復活させてみたいと言っているらしい。それを読んで馬鹿なと思った。マンモスが絶滅したのはそれなりの環境変化があってのことだろう。それを復活させてどうするのだ?もしそんなことをさせていたら、今度は恐竜を復活させてみたいということになるのは目に見えている。まさにジュラシックパークの世界だ。

これに関連して一番ホットな話題は人工授精の問題だろう。この問題に一貫しているのは、「子どものいない夫婦が望んでいるから」という葵の御紋である。夫婦が子どもをほしがるのは当然のことで、いかなる宗教も否定しない。だからそれに科学が応えるのは当然のことだとして、人工授精、はては他人の子宮を借りる方法まで起きている。人間は試験管じゃないっつーの。カズオ・イシグロの「私を離さないで」が多くの読者を得ているのは、臓器提供をするために作られた人間の悲哀をリアルに表現しているからだ。自分たちは道具ではない、一人の人間なのだと訴えているからだ。

こういう問題が大学の教養教育で片付く問題ではないことは陽を見るより明らかだろう。科学が抱える倫理の問題を、教養教育の問題に矮小化しないで、もっと社会全体で議論すべきではないかと思う。

「幻夜」

2008年09月20日 | 作家ハ行
東野圭吾『幻夜』(集英社、2004年)

阪神大震災の場面から始まるので、大阪で震度5を経験した者として、すぐに引き込まれるようにして読んだ。大震災という未曾有の混乱状況を利用して、他人になりすまし、自分の過去を消して、業界でのし上がっていくという、「砂の器」の現代版のような小説なのだが、東野圭吾には悪いけど、「砂の器」は主人公の音楽家の父親がハンセン病という世間の偏見によって社会的弱者とされた病気であるという、まさに他人になりすましてでも逃れたいと思わせる事情があるのだが、どうもこの小説の場合は、会社社長の女性というのが、新海美冬になりすましてまで逃れたがった事情というのがほとんど分らない(なんか借金から逃れたいという程度のことのようだ)ので、それが残念といえば残念だが、それを差し引いても、最後まで面白く読むことができた。

もちろん話ができすぎてるという印象はある。そもそもちょうど主人公の女が美冬といっしょに1年間の洋行から帰って美冬の両親のアパートに寄ったその晩に大震災が起きたとか、破壊されたアパートから逃れた直後に雅也が叔父をかわらで殴って死なせたのを目撃したのはいいとしても、それがうまい具合に彫金などのできる技術をもった職人だったとか、娼婦に見せかけて雅也に就職させようとする町工場の腕利きの職人の手に怪我をさせて仕事ができなくさせるとか、その町工場が彫金の設備があって、それを使って美冬がデザインした指輪を作らせるとか、その指輪のデザインというのが美冬が就職した「華屋」という宝飾店のフロア長が考えていたものだったとか、考えれば考えるほど、できすぎてるというところばかりといっていいが、読んでいるときにはそう思わせないほどの筆の力があるのは言うまでもない。

「パズル・パレス」

2008年02月05日 | 作家ハ行
ダン・ブラウン『パズル・パレス』(角川書店、2006年)

私が2年前に急に手当たり次第に本を読むようになったきっかけを作ってくれたのが、じつはダン・ブラウンだったのだ。ある病院の待合室で手持ち無沙汰に診察を待っているとき、ふと目に留まったのがダン・ブラウンの「天使と悪魔」だった。暇つぶしにと思って手にとって読み始めたら、あまりの面白さにあっという間に順番が来て、診察も終わり、まさか待合室の備え付けの本を持って帰るわけにもいかず、その足で本屋に行って、上下巻を買って一気に読んでしまった。

私はそれまでオシゴト関係の本を読まなきゃいけない、それ以外の本を読む時間があったらオシゴト関係の本を読めと自分に言い聞かせてきた。しかしここ数年そのたがが外れてきており、かといって別に何かするわけでもない、だらだらとテレビを見て時間をすごす癖がついていて、テレビのチャンネルを私が頻繁に変えるものだから、上さんにも、見たい番組がなかったら、テレビ消したら、なんてよく言われていたのだ。そうだ、読みたい本があるんなら、本を読もう、と思った。

それから図書館で手当たりしだいに本を借りて、読んだ。とくに現役の日本の小説がどうなっているのか気になっているので、作者の名前とか知らなくても、ぱらぱらっと立ち読みして、面白そうだったら、借りて読むようになった。それで、どうせなら、最近はブログなるものがあって、好き勝手なことを書いてインターネットで公開できるらしいというので、私の場合は本を読んで考えたことやそのほかの日々の感想を書いてみるのもいいかなと思ったのだった。

だから、ダン・ブラウンはそういうことを始めるきっかけになった人であるというわけ。「天使と悪魔」を読んだあとは、すぐに「ダ・ヴィンチ・コード」、「デセプション・ポイント」を読んだ。

どんな犠牲を払ってでも国家や国民のために自分の任務を遂行しなければならないと思い込んでいる国家の中枢にいるエリートが引き起こす反国民的犯罪というのが、ダン・ブラウンの小説のパターンだが、たとえば今回の「パズル・パレス」にしてもMSAというのが最高の国家機密であるのに、どうしてこんなことまで調査できたのか不思議だというのが読んだ後にいつも感じる疑問だけども、読んでいる最中は、はらはらどきどきの連続で、何も考えずに次の展開を追っている。

話の展開や場面の描き方(それはシーケンスの作り方といってもいい)が映画風にできているので、すぐにでも映画化が可能な物語になっている。この小説は日本語に翻訳されたのは一番最後だが、彼のデビュー作らしい。それを知らなかったので、読み始めたとき、「だんだん映画のシナリオみたいになってくるな」と思っていたが、これが第一作だったのだ。最初から映画化を想定したようなつくりをしているということは、彼の戦略だったのかどうかしらないが、結構、反権力的というか、アメリカの国家中枢の犯罪を暴きだすような映画がアメリカでは作られているから、そのあたりを狙ったのではないだろうか?

情報通信の国家による傍受というのが映画でも出てくるが、いったいどの程度のことが実際に行われているのか私たち素人にはイメージできないので、電子メールの国家による監視といっても同様に、そんなことできるのだろうかと思ってしまう。しかしこの小説でも触れられているが、もともとインターネットというのはアメリカの軍事関係の情報伝達のための手段で、どんな事態が起きても必ず迂回路を見つけて情報伝達が可能になるということを目指して作られたものだという話は、読んだことがある。だから作った本人たちがその通信の仕組みを熟知しているのは当たり前で、どこをどうすれば、インターネットを行きかっている情報を傍受できるかは朝飯前の話だということになるのだろう。

そこで暗号化によって傍受されても解読できないようにしようとすることが起きた。暗号をローマ帝国のカエサルが初めて使ったというのは初耳だが、この小説を読んで思ったのは、ランダムにアルファベットや数字を組み合わせて作る暗号は、とくにコンピュータの出現によって解読は時間の問題になったが、平文、つまり通常の文章は解読できないということだ。つまり人間が作り出した言語は暗号ではないと言い換えてもいいだろう。

いかに言語というものが複雑なものであるかは、コンピュータを使った機械翻訳の精度をみれば一目瞭然だ。あれだって普通は使わないような、つまりラングに近い文章でやっと正しく翻訳できるのであって、ちょっとでも崩れたパロールはまず翻訳不可能となる。それを人間はコンテキストを理解してあっという間に正しい翻訳をすることができるのだから、人間の言語能力というものがいかに高度なものかたんなる単語の置き換えではないということが分かる。

自然が作り出したものを人間が支配できるなどと思わないほうがいい。