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読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

「キッチン」

2007年06月01日 | 作家ヤ行
吉本ばなな『キッチン』(福武書店、1988年)

吉本ばななさん、初めて読みましたが、『キッチン』とその続編の『満月』ともに、なんだか心の温まるような、よい作品でした。

私は吉本隆明にたいしては「けっ」と思っているので、その娘ということでずっと食わず嫌いで避けていましたが、やっぱそういうのはよくないなと、反省しきり。

キッチンというところが大好きな桜井みかげは、幼少のころに両親をなくし、最近祖母が亡くなり天涯孤独になった。そこへ、祖母がよく買い物に行っていて親しくしていた花屋のバイト店員で学生の雄一が自分のマンションで暮らすように勧めにくる。こうしてみかげと雄一の父親である母親のえり子さんとの共同生活が始まる。二人はほとんど料理らしい料理をしないので、みかげが料理当番のようになる。みかげは料理がすきで、料理の勉強も独学でやっている。彼女は二人のマンションを出て独立することになる。

でも雄一の父親である母親のえり子さんはストーカーのように付きまとう客に殺されてしまう。立ち直れない雄一から久しぶりに連絡が入り、彼のマンションに行って彼に料理を作ってあげる。みかげが料理教室の先生の付き添いで伊豆を旅行している間、雄一も旅行に出る。ある晩、みかげは嫌いなものばかりが出されたため何も食べなかったことから、夜中にカツどんを食べに出る。それがあまりにもおいしかったので、雄一にも食べさせようとタクシーを拾って何時間もかけて雄一の泊まる旅館へ走る。そして彼にカツどんを食べさせて帰る。

こういうつかず離れずの人間関係というのは本当はすごく難しいものだろうと思う。だいたいが人間というのは、白黒つけたがる、とくに男女関係はそうだろう。だからこういう一緒に暮らして、みんなからは同棲していると思われているような生活なのに、じつはそうではなく、肉体関係はもちろんのこと、精神的にも恋愛関係にあるのかどうかも、自分たち自身が分かっていないような関係というのは、耐えられるのだろうか、って思ってしまう。

でもこういうつかず離れずの関係というのは、お互いのいいところが見えて、汚いところを見なくてすむ、じつは一番いい関係なのかもしれない。もちろんそこには結婚だとか子育てだとかというようなややこしい話は、割り込めない。だから、案外お年寄りの恋愛にはこういうような、つかず離れずの関係がいいんじゃないのかなと思いながら読んだのだった。案外、高齢化社会を迎えつつある、これからの恋愛のあり方を暗示しているのかもしれない。

料理の好きなみかげの形象がいい。阿川佐和子の「オペラ・スープ」の主人公もスープを作るのが大好きな女性だったが、なんだかちょっとあの主人公に似ていなくもない。料理をするって、ほんとうは面白い。私のところは共働きだし、どちらかといえば私のほうが時間的に余裕があるので、昔からよく晩御飯を作ってきた。だいたいが定番のおかずというものがあって、それはマーボ豆腐(なす)、ポテトサラダ、ひじきの煮物、きんぴらごぼう(とそのバリエーション)、鶏肉のトマトソース煮などなどで、それにいろいろなバリエーションを加えて作るのは、ちょっとした変化でずいぶん感じが変わるので面白い。ときどき新しいメニューにも挑戦したりするが、どうもうまく行かない。料理をすると、あれこれメニューの組み合わせを考えたり、材料の残りや買い物の内容を考えたりしなければならないわけで、けっこう頭を使う作業だといえる。

ファミコンなんかで頭の体操なんかするよりもよっぽどボケ防止に合っていると思うがどうだろうか?

「クライマーズ・ハイ」

2006年09月05日 | 作家ヤ行
横山秀夫『クライマーズ・ハイ』(文春文庫、2006年)

横山秀夫は短編作家というイメージがあったので、こんな長篇も書いているのかと思い、手にとって買った。大阪から高速バスに乗って3時間半で大山のふもとの町まで着く。高速道路ができたからだが、本当に速くなった。3時間半といえば、JRを使っていた頃なら、まだ伯備線の特急やくもから下りたところで、さらに1時間程度新幹線に乗らなければ大阪に着かない。しかも半額の運賃だ。数年前に米子駅でこのバスの待ち時間にJRの人が高速バスとJRの利用についてのアンケート調査をしていたが、JRに乗る人が確実に減っているのだろう。話が逸れてしまったが、このバスの中で読もうと思って買い込んだのだった。

タイトルから推測できるように、この作品の現在は、定年をまじかに迎えた「北関東新聞」の記者であった悠木和雅が、同僚で、自分を山登りに導いてくれた安西の息子の燐太郎と谷川岳の衝立岩を登攀する場面に置かれている。だがメインの物語は、悠木の回想の形で描出される1985年8月12日の起きたJALの御巣鷹山墜落、五百数十名の死者という未曾有の航空機事故を報道する「北関東新聞」の全権デスクに任命された悠木と周辺の記者たちの奮闘や軋轢の話である。ちょうどこの日は悠木と安西が谷川岳の衝立岩を登る予定だったのだが、その前日の深夜に安西は脳梗塞で倒れ、植物人間のようになってしまう。だから小説の現在が悠木と安西の息子との谷川岳登攀、そして回想される出来事が悠木と安西の谷川岳登攀の予定だった日に起きた航空機事故とその報道に奮闘する悠木たち、そして十数年前に果たせなかった安西との約束を、彼の息子と果たすというかたちで、物語の枠組みが作られている。だがこうした枠組みそのものがはたして必要だったのかという気がする。最初はわけの分からないこうした枠組みの提示のために、早く核心の物語に入ってくれという思いがして、煩わしかった。そもそも安西という人物は日航機墜落事故報道にはなんら関与していないわけで、この事故の報道の全権デスクとしての悠木のさまざまな闘いになんらかかわりがない。だから、全権デスクとしての仕事をやり終えたことと安西との約束うんぬんの話が必然性をもってつながってこない。どうしても必要だった枠組みとは思えないのだ。作者が狙ったのはあのような枠組みを設定することで、悠木という人物の人生への疲れを表現して人物形象に深みを与えようとしたとしか思えないのだが、そのような作為自体がなんだが古臭いものに思える。もっとストレートに、回想部分からはじめてもよかったと思う。

ちょうどあの日は子どもが通っていた保育園の父母会の会長をしていた関係で、長野県の湯田中で行なわれる全国交流集会に出発する日で、夕方バスで出かける直前に事故のことを聞き、たいへんな事故が起きたのだなという気持ちになったのを今でも覚えている。これを報道する地元の新聞社での内部の闘い、記者たちの闘いの様子は、さすがに元記者であるだけでなく、この事故が起きたときに地元の上毛新聞の記者であった人ならではの、分かりやすいというかリアルな描写やデスクとしての悠木の葛藤・苦しみがよく分かる。なかでも現場雑感というものの重要性がなるほどと理解できた。現場に足を運び、その異様な世界・雰囲気を見て感じたものでしか書けないものがあるのだろう。それを雑感として速報のようなかたちで提示してみせるこうした記事は、たんなる数字的な事実の提示とは別に、おそらく写真とはまた違ったリアルさをもっているのだろうと思う。だがそのために、何人もの記者を投入しても、こういった現場の場合には、全員が現場を踏めるとは限らず、道に迷ったり、崖に阻まれたりして、引き返さなければならなくなる記者もいて、それはそれで記者同士のあいだにさまざまな人間関係を作り出すものだということなどは、そういった経験をした人でなければ書けないのかも知れないと思う。

やはりクライマックスは、事故原因を隔壁破損として事故調の委員長からかなりの確実性をもって引き出しながらも、悠木の最終判断でスクープを取り損ねるあたりだろうか。スクープを取ったという展開にすると、物語が事実にもとづくものだけに、事実と違うことになってしまうということがあるが、一生に二度とはないような事故のスクープということでは、やはりこれをめぐる決断を迫られる悠木の心の動きは、自殺した悠木の部下の従妹が書いてきた、命の重みには軽重があるという主旨の投稿をめぐる決断などにも、読む面白さと堪能させてくれるところがある。

返す返すも枠組みとして作られた谷川岳登攀の話がじゃまくさく感じられるのが残念だ。

「ガセネッタ&シモネッタ」

2006年07月27日 | 作家ヤ行
米原万里『ガセネッタ&シモネッタ』(文芸春秋、2000年)

ロシア語通訳で有名な米原万里のエッセー集。通訳という仕事にまつわる言葉、外国語、通訳たちについてのエッセー。面白いなと思ったことを二・三。

先進国八カ国会議、いわゆるサミットで欧米諸国以外の国として日本が入っているが、その同時通訳は日本語以外はすべてダイレクトに通訳されるのに、日本語だけは英語からの通訳しかされないらしい。それを日本が受け入れてきたということ。このことは政府高官・官僚たちのあいだに、日本語がいかに卑下されているかということを示している。国語はまさにその国の文化の中でももっとも高度なもの。それを政府高官・官僚が通訳してもらわなくてもいいです、英語から通訳してもらいますからと自分で自分の国語を馬鹿にしているとは、なんとも情けない。英語圏(とくにアメリカ)にはグローバリゼーション(自分のものを世界に広めよう、世界標準にしよう)はあっても、インターナショナリゼーション(世界標準を自国標準にしよう)はない。日本の国際化はかくも愚かな所業であるということを教えてくれた。

柳瀬というジョイス研究者と永井愛という劇作家との対談はどちらも興味深かった。日本語の変容、しかも日本語がだめになっていくといわれるけど、日本語の変容は日本語の柔軟性を示すことであって、決して嘆くことばかりではないと米原万里は主張する。だから日本という国への愛国心を育てるには日本の文学をしっかり読ませることが大事なのだ。男言葉・女言葉が日本語にはあるからだめだと言われる。でも言葉を使うことで性差を行き来できるということは素晴らしいことではないかと、米原は完全に永井をくっている。

私も少しだけ通訳の真似事をしたことがある。ある家庭に二泊したフランス人夫婦の通訳をした。もちろん初めての経験で、言葉が出てこないのにはまいったが、家庭での通訳なので、同時に喋らなくてもいいし、分からない所は適当にはしょったりして通訳したから、できのいい通訳ではなかったが、いけばなの師匠さんの家だったので、いけばなの説明だとか子どもさんの学校の話をして、けっこう盛り上がったりした。本当にどっと疲れがでたが、とてもいい経験をした。私はいつも思う。もっと若いときにこういう経験をしとくべきだったな、と。

「オリガ・モリソヴナの反語法」

2006年07月13日 | 作家ヤ行
米原万里『オリガ・モリソヴナの反語法』(集英社、2002年)

数日前に、初めて米原万里のエッセー集(?小説集と書いたが、第33回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞しているから小説ではないわな)を読んで、他の作品も読んでみたいと書いたばかりで、これは初めての長編小説らしいけれども、『嘘つきアーニャ』を読んだあとでは、リアリティが強烈で、まるで自分の体験談のようにリアリティがあるし、また構成はサスペンスのように、読むものを惹きつける。じつに上手い。

私が学生になるかならないかの頃にソルジェニーツインの『収容所群島』が翻訳されたのですが、私はどうも一くらいの体験を十くらいに誇張して飯を食っている哀れ作家のようにしか思っていませんでしたが、スターリン時代からの粛清や強制収容所によってこんなにもソ連の民衆の精神と身体が損なわれていたとは。こういうことに目をむけてこなかった自分が恥ずかしいかぎり。それにしてもここに描かれる粛清のさまはナチスによるユダヤ人虐殺にも匹敵する残虐さがあるのではないか。

1960年から64年までチェコスロバキアのプラハにあるソビエト学校で学んだことのある弘世志摩は、クラシックダンスのダンサーをめざしていたが、それを断念してから生活のためもあってロシア語通訳をやっている。1991年にソ連が崩壊してから、日本との行き来も簡単になったことから、志摩は旧友やダンス教師であったオリガ・モリソヴナとフランス語教師だったエレオノーラ・ミハイロブナの「オールドファッション・コンビ」のことを知りたくてモスクワに来ている。そこで旧友のカーチャに再会し、一緒に調べるうちに、二人が1937年頃に始まったスターリンによる粛清によって逮捕され、バイコヌールの強制収容所に送られ、そこから帰還した「ラーゲリ帰り」であったことが分かる。最後には、二人が里親となっていたジーナの回想から、エレオノーラは自分たちが助かろうとして夫が国民党のスパイだという嘘の調書にサインしてしまったこと、そしてすぐに夫が処刑されたこと、自責の念に耐えられずにおなかの中の子を堕胎させたこと、そこからくる自責の念に一生苦しめられていたことが分かる。

二人が何者かということから始まって、どういう経緯で強制収容所送りになり、そこから帰還して、どうやってプラハのソビエト学校の講師となっていたのか、そしてその後どうなったのかが、まるでサスペンスの謎解きのようなスリル感をもって描かれている。そして粛清の現実はじつに生々しい。

中国でも文化大革命で同じようなことがあった。こうした事実はすでにかなり以前からわかっていたことだろうに、そういうことを知っていながら、社会主義国を理想郷のように主張してきた人たちって、この現実をどう思っているのだろうか?

「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」

2006年07月11日 | 作家ヤ行
米原万理『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』(角川書店、2001年)

絵本かなにかのタイトルのようなこの小説は、かつて日本共産党の幹部で国会議員もつとめた父親の米原昶(よねはら いたる)がプラハに赴任したときに経験したソビエト学校での交友関係をその後の大きな変化と絡ませて書いた中編小説集である。

このソビエト学校というもの自体のことが小説だけではよく分からないので、Wikipediaで検索してみたら、「米原万里」の項目で次のような分かりやすい説明があった。
「日本共産党常任幹部会員(当時)・衆議院議員米原昶(よねはら いたる)を父として東京都に生まれた。祖父は貴族院議員米原章三。1960年、小学校4年生のときに、父が日本共産党代表として「平和と社会主義の諸問題」編集委員に選任されチェコスロバキアのプラハに赴任したため、一家そろって渡欧することになる。 9歳から14歳まで少女時代の5年間、現地にあるソ連の外務省が直接経営する外国共産党幹部子弟専用のソビエト学校に通ってロシア語で授業を受けた。 チェコ語を選択せずソビエト学校を選択したのは、ロシア語ならば帰国後も続けられるという理由だった。ソビエト学校は、ほぼ50カ国の子どもたちが通い、教師はソ連本国から派遣され、教科書も本国から送られたものを用いる本格的なカリキュラムを組んでいたという。」

もちろんこの小説集に登場するのはこのソビエト学校に通っていた小学校高学年から中学くらいの子どもたちで、「リッツァの夢見た青空」ではギリシャから亡命してきたコミュニスト・パルティザン活動家の娘であるリッツァ。彼女は中学の頃は映画女優になるのが夢で、あまり勉強(特に理数系)が苦手だったのに、この父親がプラハの春にさいして反対の態度表明を行なったことから、一人プラハに残って勉強することになり、苦手の勉強を克服して医者になり、ドイツで結婚してギリシャや中欧からやって来た移民たちを中心にした医療活動をしている。

「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」はルーマニアの共産党幹部の子どものアーニャは生まれてからほとんど外国暮らしばかりで、素直な優しい子どもなのだが、まるで共産党のパンフレットが口からついて出てくるようなものの言い方をするので、みんなからからかわれている。ところが労働者の味方、労働者の血と労働であがなった○○というようなことを言っているわりには、かつての貴族のような生活をして、身の回りの世話をする家政婦夫婦を屋根裏部屋に住まわせているということになんら矛盾を感じていないことを、「私」は敏感に感じ取る。この矛盾は、社会主義諸国の崩壊、ルーマニアのチャウシェスク政権の崩壊後の祖国の混乱と労働者たちの悲惨さの増大を尻目に、普通のルーマニア人にはできないことなのに幹部の子弟ゆえに可能となったことなのだが、イギリスに渡ってイギリス人と結婚して裕福な暮らしをしていることに、なんの負い目も感じていないことにも、「私」によって見抜かれている。

この小説を読んでいろいろ考えるところがあった。米原自身が「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」のなかで指摘していることだが、こうした社会主義国の封建性―つまり共産党幹部がたんに貴族に置き換わっただけのような状態―への鋭い指摘である。日本ではずっと野党だからそういうことが見えてこないだけで、日本でも政権をとったら同じことになるのではないか。

そもそもコミュニズムってなんだろう、と思う。私はマルクス主義の先行思想はルソーにあると考えている。マルクスは人間の意志に関わらないものによって人間の意識は規定されると考えた。物質が意識を規定するというテーゼである。人間の意識や意志に関わらないなにかが人間を拘束する。それに似たことを言い出したのはルソーである。ルソーは人間の自由意志は人間をほかの存在から区別する唯一の指標だと言いつつ、この人間の意志を、個々の意志ではなく、総体として規定しているものがあり、それが神の意志だと考えた。個々の人間は自分の自由意志によって行動しているが、この自由意志そのものが、大きな枠組みからみれば神の思うように動いているのだというのがそれである。それはちょうど『エミール』で詳述された教育論の基本でもある。エミールはすべて自分の意志で行動していると思っているが、彼の自由意志そのものが家庭教師ジャン=ジャックが設定した枠組みによって意のままに操られている。このルソーのいう神の意志は強力なものではなくて、人間が耳を澄まさなければ聞こえなくなってしまう。それを強固なものにしたのがヘーゲルである。彼は物質も人間の歴史もすべて神の意志の展開したものであると考えた。人間社会の変化も神の意志にもとづく法則性をもって展開しているというのだ。この神の意志を生産力という物質的なものに置き換えたのがマルクスであろう。

だがこういうのって、ちょうどダーウィンの進化論、弱肉強食理論、獲得形質遺伝などのように、一見客観的で科学的な理論のように見えて、その実は時代の支配者階級のイデオロギーであるのと同じように、マルクス主義も時代のエピステーメなのではないかと思えてくる。そう思わせるのがこの米原万里の小説なのだ。私よりも一世代上の人たちは生産力至上主義のところがあった。生産力が上がればすべてが解決されるみたいは発想があった。生産力が低いから環境問題なんてものが起こるのであり、生産力を押さえて環境に配慮するなんてことは考えられないし、社会主義は生産のあり方を根本から国家が管理するのだから、公害なんかありえないというようなことも言われていたと思う。だが中国の現実がそんなたわごとは吹っ飛ばした。

いずれにしても米原万里の鋭い視点はけっして見過ごされるべきものではないと思う。他の小説も読んでみたい。

「陰の季節」

2006年06月30日 | 作家ヤ行
横山秀夫『陰の季節』(文芸春秋、1998年)

これは短編集でも、同一のD県警本部に勤務する者たちが主人公になっているという意味で、連作的な短編集になっている。

「陰の季節」は人事を担当する警務課調査官の二渡が主人公。昨年、刑事部長を定年退職し、警察の肝いりで作られた「産業廃棄物不法投棄監視協会」という社団法人の専務理事に天下りした尾坂部が三年の任期が終わるというのに後任に席を譲らないと言ってきたために、人事にごたごたが起きたら本部長の栄転に差し障るために、なんとしてでも尾坂部を辞めさせろという指示が二渡に言い渡される。じつは6年前に起きた、自分の娘のレイプ事件の犯人を尾坂部は追っていたのだった。専用の車と運転手がつくので、それを利用してくまなく調査をしているようだというところまで二渡はつかむのだが、最後の最後で、この運転手が犯人だということが尾坂部にはわかっていて、彼を追い詰めるためにわざと事件現場のそばを走らせたり、もうじき捕まるというようなことを言っていたのだった。そしてついにこの運転手=犯人は自殺してしまう、というお話。

「地の声」は警務部監察課監察官の新堂が主人公。謹厳実直で真面目一筋だが、けっして持てる男ではない、切れ者でもない、長年昇進から見放されていた生活安全課長の曽根がクラブのママと密会しているというタレコミの文書が届き、新堂に真偽の調査が依頼される。結局、これは曽根自身が流したもので、こうすることで、このクラブが売春をしていることを摘発して点数稼ぎをするためにこれを流したのだということが分かる。そして温情から新堂はこれをつぶしてしまうが、ライバルの二渡にこれを利用されてしまい、曽根だけでなく、自分までも昇格できなくなってしまう。

全部の短編をこうして紹介しようと思ったけど、つまらないからやめる。横山秀夫の短編はたしかに密度が濃くて、集中して読んでしまうけど、あとに何も残らないから、もう読まない。

「動機」

2006年06月19日 | 作家ヤ行
横山秀夫『動機』(文芸春秋、2000年)

『半落ち』などで有名な横山秀夫が第53回日本推理作家協会賞短編部門賞を受賞した作品を収録した短編集。さすがに、短編だけあって、文章の密度が濃い。

『動機』では、自分の父親が退職とともに精神に異常をきたしたという話から始めることで、雲を掴むような状況の中から、少しずつ犯人像を絞り込んでいった挙句が、警察手帳を盗んだのが定年まじかの堅物の老巡査部長の大和田だと思わせるための伏線のようにみせかけつつ、最後には自分の大失態を隠すためのものかと推理させておいて、それもひっくり返して若い巡査の将来をおもんぱかっての偽装であったことを明らかにするというところに落としどころをもっていったのが、なんとも心憎いね。

『逆転の夏』も先の読めない短編だった。女子高校生を殺してしまって10年の刑務所暮らしを終えて、出てきた山本は、服役中から面会に来てくれていた保護司の及川の世話で、葬儀社に入社し、堅実な生活を始め、服役中に生まれた子どものための養育費も毎月送っている。ある日突然カサイという男から、自分を陥れて金を揺すっている男を殺してほしいという電話がかかるようになり、自分のことを社員たちにばらした葬儀社の社長にも、自分の世話をしてきてくれた及川も信じられなくなり、ついに彼は引き受けてしまう。ところが逆に殺されそうになる。「カサイ」と及川がそれぞれ自分たちの愛するものを殺した二人を騙して殺させようとしたのだった。

どれもこれも読み応えがある短編ばかりだった。だが、やはり短編の辛い所は、描かれている世界があまりのも狭いこと、人間関係があまりにもうまくできすぎていることにある。最後の「密室の人」なんかは、そんな偶然ばかりが連続するものかと思ってしまう。

だが文章力はさすがにすごい!

「最後の息子」

2006年04月17日 | 作家ヤ行
吉田修一『最後の息子』(文芸春秋、1999年)

閻魔ちゃんというオカマと彼女(?)のヒモ状態になっている「ぼく」の日常生活を書いた短編なのだが、そのなかに「大統領」がK公園で「ホモ狩り」にあって死んでしまうとか、「ぼく」の昔の彼女が玉の輿に乗ることになったが、結婚するまでということで、またよりを戻した話だとか、長崎の実家に帰った時の話とか、母親が父親と夫婦喧嘩をして東京に出てきた話だとかが上手に埋め込まれている。そうした時系列的に無秩序なものを上手く並べ替える手段として、「ぼく」がつねに携帯ビデオで周囲の者たちを録画したものを見直すという行為が使われている。

前にも書いたように、どうも短編不感症なので、どうしてこんな作品が?と今回も思うのだが、ちょっと印象に残ったのは、この前読んだ阿川佐和子の対談にも出ていたおすぎとピーコもそうだけど、オカマの人たちのほうが社会とか人生をまともに見ているんじゃないか、オカマではない「普通の」人間たちのほうが、どこかずれてしまっておかしくなっているのではないかという気がすることだ。彼らのほうがジェンダーをはじめとするイデオロギーの呪縛から解放されているのではないかと思う。この作品でも、酔っ払った閻魔ちゃんが自分たちの国を作ろうという演説のなかで訴える戦争反対の論理は、じつにあっぱれだと思う。やはり、因習だとか義理だとかそういうものを吹っ切ったからこそ、オカマとしてどうどうと生きていけるのであって、だからこそ人間としてまともな物の見方を維持することができているのかもしれない。